早稲田講義録

日本の食の領域に真実はない その中のフレンチワインと日本酒も異常なものであり この二つを比較して日本の食の実情を探る

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日本の食の領域に真実はない

その中のフレンチワインと日本酒も異常なものであり

この二つを比較して日本の食の実情を探る

 

 私はこれまで様々の日本の食の偽りを指摘し続けてきました。

 例えば、私はフランス菓子をつくるパティシエです。しかしこの日本には本来のフランス的な多様性、多重性に満ちた味わいの感じられない、日本人のひとりよがりの、きわめて平坦な味わい・見た目・形だけのフランス菓子、料理しか見つけることはできません。

そして心とからだに健康と幸せを与えるという、からだが必要としている栄養素をアク抜き・下茹でによって捨て去ってしまう、食の本来の意味を失ってしまった、辰巳芳子氏を旗頭とする形式的な家庭の日々の料理。これはプロが作る和食も同じです。下茹で、アク抜きによって大事な栄養素を捨て去った料理はどんなに見た目が美しく華麗であっても五感に深く感じるおいしさはありません。これを食べ続ければ必ずからだは傷ついています。

本来の味わいを全く忘れられてしまった砂糖まみれの、甘さにまみれたおせち料理。主婦が正月三が日は台所に立たなくてよいように料理を日持ちさせるために甘みを強くするというのはまったくの偽りなのです。大料亭・デパートの大量生産・大量販売のもとに絶対的防腐効果が得られるまで糖度あげた偽りの産物なのです。人は年の初めからからだの調子を悪くするために甘さにまみれた料理を食べます。さらにただただ盲目的に鼻にも歯にも口にも舌にも、より味わいを感じない繊細さを求める本来の味わいを失った和菓子、日本酒、ビール、焼酎の異常さ。その他多くの事実を指摘してきました。

今配っているお菓子は、私が考えるフランス菓子です。この味わいを日々あなた方が食べているお菓子、食べ物と比較してください。香り、味わい、触感が幾重にも重なり合い、五感に迫る、これがフランス的な味わい、そし人間の食べるものと考えます。しかしのこような味わいはすべてのものから失われてしまいました。

日本人が繊細の極みと思い飲んでいる稚拙な思い込みによって作り上げられた本来の旨さを失っている日本酒と、本当は人間が飲むべきものではない、危険であまりにも不快な味わいのフレンチ、その他輸入ワインについて述べていきます。

誰もが日々の暮らしを彩り、豊かにしてくれると思っているものも、私たちの心と体を傷つけるものであることを知らなければなりません。

 

記憶は定かではないのですが、小学校に入る前から私は日本酒飲んでいたように覚えています。あるいは小学校の低学年の頃かもしれません。生家は会津塗漆器の落ち目の卸屋でした。漆器は製材所から板を買い、木材を加工する惣輪師、そしてそれに下塗り、上塗りする塗り師、これに蒔絵を書く蒔絵師で完成となります。そして完成となってリヤカーで運ばれてきました。そして私の家ではそれを荷づくり発送していました。会津ではそれぞれの工程が個別の家内制手工業で行われており、それぞれの工程が終わるとリヤカーに積んで次の工程の家に運んでいました。

 年に一度、12月の中頃だったと思いますが、各工程の職人さんたちを我が家の座敷に招いて本当にささやかな宴会が催されました。当時は商家などには宴会のためのお膳、什器一式が揃っており、近所の主婦34人の助けを借りて料理をつくりもてなしました。

 祖父や父が宴会の間、職人さんたちのお相手をするのですが、私はいつもずっと祖父の横にちょこんとニコニコして座っていました。そのうち酔いの回った職人さん達が、「とおるぢゃん、酒飲むが」と冗談めいて言ってくれるのを待ち構えたように、「うん、飲む」と言っておちょこを出し、ついでもらい、ちゃぷちゃぷと23回で飲み干します。味わいを詳しくは覚えていませんが、なんか旨かったような気がします。滅多にない、年に一度の華やかな雰囲気が嬉しくて、そう感じたのかもしれません。でも旨くなかったら子どもは決して飲みません。子どもの感覚は鋭い。赤ちゃんの感覚は動物と同じ。大人の私達には想像もつかないほど鋭敏です。人間生活の中で、少しずつ人間の習慣、規範がその本能にとって代わっていき、次第に鋭敏な感覚を失っていきます。

 いつも5杯以上は飲んだような気がします。祖父は頼もしそうに私を見て、別に「子どもは飲んではだめだ」とは決して言いませんでした。少なくとも子どもが飲んでも不快になるような味わいではありませんでした。

 また父と祖父の毎晩の晩酌のための一升瓶が家の奥の薄暗いところに置いてありましたが、たまにどうしても飲みたくなって、一升瓶の中の酒が残り少なく軽くなっている時にコップに1/5ほどついで、暗いところに座ってぴちゃぴちゃなめるように飲んでいたのを覚えています。一升瓶にいっぱい詰まっているときは重くてうまくつけずこぼしてしまうので、少なくなった時を見計らっての盗み飲みでした。それをいつまでやっていたかは覚えていません。

 

 次にアルコール類を飲み始めたのは19歳。学生になり上京してからでした。でもその頃は日本酒は悪酔いするので日本酒しかないとき以外はビールが一番多く、次にハイニッカなどの一番安いウイスキーでした。本当に日本酒はたまにしか飲みませんでした。まだその頃はビールも今から比べればずっと旨く楽しくしっかりした味わいで、ビールは本当にごちそうでした。

 

 私にとって一番大事な、そして旨くて楽しい日本酒の記憶は大学四年の時の秋のどぶろくでした。

・この時明治大学は学校封鎖によって後期の開校が遅れて10月中頃の上京でした

・それまで夏休みからずっと猪苗代湖のボート番でアルバイトを続けていました

・そこの観光事務所の方々は湖の周囲の農家の方々で観光シーズンだけの季節労働者でした

・日頃これといった楽しみなどない時代で、恐らくほとんどの農家では税務署の目を盗んで新米が摂れるとどこでも密造どぶろくをつくっていたと思います

・それを自分の当直の時に事務所に持ってきて、湖に網を張って小さなはやという魚を捕り、これを唐揚げにして皆さん飲んでいました

 

◎何度もご相伴にあずかった

・本当に本当にうまかった。香り、味わいは本当に豊かで濃くて、懐かしく暖かく優しさに溢れて五感を包み、嬉しく楽しく浸み渡った

酸味、甘みはとてもふくよかで自然な新鮮さがあふれ、暖かく人懐こく、口全体が嬉しさに膨らみます。口に入れる前の匂いでもう意識は楽しくなり、これから口に入るものの素晴らしさを教えてくれた。口に含む、口に入れる前の予感は一気にふわっと口中に、体中に膨らんだ。口中の、鼻腔の全ての感覚を満たし、虜にする。飲み干せば、間違いなく身体に良いものを摂り入れた安堵感と満足の感覚に満ちる。一人でに顔は優しく緩んでいる。

とんでもなくオーバーな、と思われるかもしれません。そう、これは実際の経験がないと理解できるものではありません。でももう日本にこんな味わいはありません。

 

(その旨さの理由)

・私が22歳、1969年頃は未だ日本の米にはまだ十分に豊かな栄養素が詰まっていた。

旨かった

会津の米も確かに旨かったし、福島と新潟の県境の私のおじさんの米もとびきり旨かった。

・米を研ぐなんて無駄な意味のないことはせずふすまを取り除いただけの米の全ての成分使われた

・麹は加えられるが、その他には自然に生息する数多くの微生物が発酵に加わり、豊かで複雑な味わいを作り出していた

・微細なろ過など行われない。豊かに発酵して幅が広がったすべての旨さと成分が口に入った

・どぶろくなので火入れはされない。味わいは自然な新鮮さに満ちた心とを爽やかにする旨さだった。蔵元では酒の発行が終わると火入れをします。これは出来上がった生酒を6065℃に加熱します。この温度での加熱で酵母などは殺さず、酒を腐らす腐敗菌を殺します。

・十分に発酵したならすぐに、短時間で飲むので腐敗菌によって味が変質することもなかった

 

◎あの時の酒の旨さは米の十分な旨さと共に豊かな発酵によって生成された身体に良いもの、細胞が待っている栄養素が豊かにあり、身体が喜ぶおいしさに満ちていた「

※食べ物の本当のおいしさで最も大事な点です。

 

(米のたゆまぬ増産から過剰古古米へ)

・戦後の食糧難からの脱却のために一貫して米の増産が量られた

・その中で米の中身、栄養素を考えずにただ効率的に少しでも多くの米をつくることが大事になってきた

・農協の金融資本の利益のために、より多くの農薬と化学肥料による化学農業により土地は荒廃し、土の中からはミネラルは欠落していた

★米は次第においしさ、栄養素が欠落していった

●農協は自らの増殖のために、有無を言わせず化成肥料、農業を押し付け、農民を搾取し続けている。

 

○自民党は集票マシーンの農協にすりより、消費量を超えても無計画に米の増産を許し、それを市場価格より高く買うことで農業を形式的に維持してきた。しかし古古米さえも大幅に残り、1970年、減反政策が実施された。

 

★このコメ余りを背景に、米は研げば研ぐほどでんぷんの純度が高まり、酒は旨くなるという考えが芽生え始めたように思われる

 

・それ以前の二級酒、一級酒、特級酒というカテゴリーにかわって、純米酒、吟醸、大吟醸(※吟醸酒は杜氏の間で明治の後半から研究や品評会用につくられていて一般には流通していなかった)というカテゴリーができ、1980年(昭和55年ごろ)から一般に商品化された。

・米をより小さく研ぐことによって、酒の等級が決まるようになったのである

※大吟醸では50%の米をけずりとり、残りの米の中心50%で酒をつくるのである。削り取られた部分はタダ同然で家畜のえさにでもなるらしく、以前、削り取った米粉がかなりの低価格で手に入るのでこれを使ったお菓子はできないかと言う問い合わせがあったこともある。

 

★ここで大事なことは酒の旨さへの考え方が、このコメ余りの時を境にして完全に変わったということである。極端に米をそぎ落とし、酒の中に様々な成分の幅、種類、量を少なくした方が研ぎ澄まされた繊細で旨い酒とされるようになった

 

◎以前は米の全部で酒の旨味をつくると考えられていた

・様々の成分が幅広く豊かに含まれていたので、全身の感覚を嬉しくさせる本来の旨さがあった→私は飲んだどぶろく、またこのどぶろくはめちゃ飲みしたわけではないが、かなり飲んでも翌日不快になることはなかった。

・戦後、米の不足していた頃は、米で作った酒に醸造用アルコール、水、水あめ、ブドウ糖、味の素などを加えて3倍の量にしていた(3倍醸造法、アル添酒)→私が子どもの頃家で飲んだ酒

 

★しかし私の子どもの頃の記憶では今の酒より不自然な味わいではない、ふっくらとした味わいがあった

・また私の学生の頃はどうしても若者はこの3倍醸造法による日本酒よりビールの方がよい、日本酒は飲めないと言う人が多かった。また飲み過ぎれば確かにその不快さは日本酒の方が強かった。しかしそれでも私が今の日本酒を口に含んだ時に感じる陰鬱な感覚と頭の先の不快な痛みはなかった。ずっとこれが疑問だった

 

◎そして発酵過程の統御化

★そしてその彼らが考える繊細な味わいをさらに強化するために米を深く研ぐだけでなく、空気の流入、温度などを統御したタンクの中で、選んだ酵母のみを加え、自然にある酵母の協同作業を排除するようになった→酵母の数が23種類になれば酵母の食物連鎖も単純になり、その分泌物も、幅・量ともに抑えられて味わいは平坦になる

 

・微細なフィルターにかけ、酒に含まれる成分がさらに限られたものより希薄な味わいを目指すようになった。

 

★このような流れの中で、米の味わいはさらに薄くなり、菌の味わいが相対的に強調されてきた。

・この飛び出た菌そのものの味わいとその生成物が私の感覚を陰鬱にし、そして頭の先を締め付ける痛さを引き起こすのではないかと次第に考えるようになった。

 

NHK「プロフェッショナル」の中で、「じょうきげん」をつくる杜氏、濃口氏はそのDVDの中で次のように歪んだ清酒観を述べている。

ナレーターは無理な流れの中で米の旨味を最大限に生かした酒造りを濃口氏は目指しているとなんとか無理矢理に観る者に思いこませようとしているが、本人は「私は飲む人に菌の味を味わってほしい」と自信を持って話している。

「米と菌との共同作業で膨らみのある豊かな味わいと言うなら分かる。しかし、今の杜氏が考えることはできるだけ米の味わいは弱めて菌の味わいを柱として考えているのである。これは日本酒というより、食べ物に対する、極めて日本的な偏った考え方である。そして日本を覆う食の現状と全く軌道を同じにする考え方です。

 

◎まさしく杜氏は本来の酒の味わいを忘れてしまったのである

◎以前は「じょうきげん」は全く希薄な味わいの日本酒の中では少しは味わいがしっかりしていると思い、好んで選んだ時もあった。しかし正統な、フランスと同じ良好なワインを飲んで氏の酒を飲むと、ただただべっとりと甘い、間の抜けた芯のない味わいとしかもう感じられない。また氏の流れをくんだ杜氏の方々の酒も同じである。

 

 

★酒の原料となる米を中心まで研いで行けば、米に含まれる栄養成分は著しく狭められていく。これに家付き酵母を使わないで、流行の匂いをもった2~3種の酵母を加えるだけで味わいの幅は本質的に狭くなります。親指と人差し指のわずか2~3mmの味わいの領域に、似たり寄ったりの味わいの酒が数多くひしめく。口の中で30秒もごろごろとやらなければ識別できないような味わいの違いは、それぞれの酒の個性ではない。抑揚のない精神の荒廃を見る思いです。

 

★また、繊細な上品な味わいのために、食の素材から成分を取り除くという、形式的な旨さはそれを食べる人の心と身体にじわりじわりとダメージを与え続ける。米の栄養成分は著しく取り除かれているので、むき出しのアルコールが細胞を傷つけやすい。

 

 

〔何故、私たちはこんな味わいの日本酒をおいしいものと感じるようになったのか〕

◎資本の論理、つまりより多くの利益、金が動くように考えられた

○酒の個性を可能な限り取り除き、つまり「癖」をなくし、一人でも多く、広範な人が飲めるようにする

○味わいを水に近づけることによって多少飲んでも満足できない。少しでも多く飲ませる液体を作ろうとした

※これらは日本のビール、焼酎にも全てあてはまる

本当においしいものは12杯少量で五感は満足する。旨いから何杯も飲めるのではない。

メーカーが時間をかけて仕組んできたトリック。ビールから時間をかけて味わいを抜いてきた。アサヒスーパードライ。コップの底に少し残った温まったビール飲んだことがありますか?まるで味の素の入ったうすら甘い、気持ちの悪い液体としか言いようがありません。とてもではないが冷やして冷たさで気持ち悪さを隠さないと飲めません。

ギンギンに冷やす。口に含む。冷たくてつらくてあわてて飲み干す。→ビールの味わい何も残らない。※ギンギンの冷たさは実は苦痛な感覚でしかありません。

→ビールの幻影を求めて何杯もあおる。

○「喉ごし生」喉ごしは味わいのすべてではない。ビールを飲んだ感覚、満足感が残らないように、あわてて飲めという押しつけ。

 

◎日本人の国民性

日本人は一度一つの方向に走り出すと、決して視線を自己以外の周囲に目を向けることなく、やみくもに進み続ける、今していることが正しいのか、周囲の目はどんな表情をしているのかを見つめて考えることができず、つまり自己を客観的に見ることができず、自分が定めた方向に突っ走る。これは日本人に特徴的な稚拙な国民性である。

・既に著しく平坦、狭隘になった味わいをさらに執拗につきつめていく。

◎この傾向は今、ほとんどの食の領域に顕著である。

 

〔本来のワインの味わい〕

・ワインはブドウの皮もすべてが発酵樽の中に入れられる。つまり、ブドウの全成分で豊かな複雑なアルコール発酵が行われる

・酵母菌はぶどうの皮についている自然の多数の菌が発酵に加わるのでそれだけで豊かで複雑な発酵が行われる。(皮に自然についている酵母などが農薬などのために以前ほどしっかりした力を持っていないので、自然の酵母菌と共に人工的に強化されたものが加えられることもある。)

・アルコール発酵終了後、取り除かれるものは原則として皮と種のみであり、超微細なフィルターによってワインの味わいを薄くすることはない。

日本酒では愚かにも超繊細なフィルタにより多くの味わい、旨みの成分をこしとり、水に近い透明感のあるつっかからない繊細な味わいを作り出そうとしている

 

・発酵終了したワインを木樽に詰め、2年ほどカーヴに寝かせる。樽の木から様々な成分がワインに溶けだし、味わいを深める。カーヴ内に生息する微生物も加わり、協同作業によって更に深い味わいがつくられる。そして瓶詰めされ、さらに数年カーヴの中で熟成させる。ビンの中には未だ微生物が生きており、ゆっくりと成分変化が行われ、色、香り、味わいに豊かな深みが出てくる。

 

◎元々栄養素の豊かなぶどうが、多くの微生物によって栄養成分と旨味の幅を広げるので、アルコールだけでなく深く豊かなおいしさと共に、身体の細胞が必要としている豊かな成分を含み、さらに免疫能力を持つファイトケミカルであるポリフェノールも含まれ、ほどほどに飲めば、健康は増進するのは明らかである。

 

 

〔日本酒の繊細さとワインの繊細さ〕

・日本酒では繊細な味わいを作ろうとします。しかしこれは米を研ぎまくってでんぷんの純度を増やして、他の成分を極力取り除きます。そして今は酒蔵に生息していた自然の多数の酵母は使わず、選んだごく少数の菌を他の微生物が侵入しない統御された中で低温で発酵させ続けます。こうすることによってできるだけ発酵を単純化、味も香りも押さえられた、少しのつっかかりもない、より水に近い味わいを作ろうとします。つまり旨味のもととなる香りや味わいを可能な限り平坦にしようとします。

彼ら日本人の杜氏は、豊かさもゆらめきもないつんと短い香りと、あるかないかの淋しい味わいを稚拙な思い込みで作り上げます。悲しくも彼らはこれを繊細さの極みの味わいと思いこんでいるのです。

 

・ワインは既に述べたように幾重にも香り、味わい、さらに舌触りが重なり合い、一つのこだまする複合的な味わいを作り出します。

 

トラックや船で一か月ほど揺られ、日本に着いたばかりのワインはフランスのカーヴ内で熟成させることによって出来た複雑極まりない成分のエマルジョン(混ざり具合)が完全に壊れ、味わいはバラバラで元の味わいとは異なるものに変わっています。

これを静かに寝かせることによって、3ヵ月、6ヵ月、時間とともに元のエマルジョンに復元されていき、たゆたう力強く、しかも優雅な香り、味わいが戻ってきます。無限ともいえる豊かな成分がそれぞれのいる場所を知り、束ねられ、厚みのある全体の味わいが生まれます。人間の感覚にはっきりと映る味わいを、感覚には直接映らない味わいが力強く支え、時には豪胆、時にはさまざまの幅広い成分の緻密なバランスの上にたった、この上ない繊細な味わいを作り上げます。このようにさまざまの幅広い成分が緻密な調和のもとに重なり合った繊細さは、際立った心を揺らす印象を持って五感に迫ります。これが良い状態の、良いワインの繊細さなのです。

何もない水のような繊細さはいくら飲んでも五感に語りかける繊細さは得られません。酔いがなければ全くむなしい、飲むに値しない物なのです。

 

★このようにワインと日本酒の繊細さは全く異質のもの同士なのです。

 

〔しかし日本ではこんな良好な状態のワインを飲むことはできない〕

 

 

〔本来のワインは日本で腐敗する〕

・今から10年ほど前まではフランスで作られたワインが何も手を加えられずにそのまま日本に輸入されていました。

・ワインを貯蔵、熟成させる木樽はその内側を硫黄で薫蒸し、樽を殺菌していました。そして樽の内側についた二酸化硫黄はワインが詰められるとこれに溶けだし、亜硫酸塩となります。この微量の亜硫酸塩は望ましい発酵に必要な酵母菌などには害を与えず、腐敗のもととなる雑菌だけを殺します。また同時にワインの酸化を防ぐ抗酸化剤としての役目もはたします。

 

・これによってワインは長期保存が可能となり、ワインの大量生産、工業化が可能になったと言われています。

 

・しかしフランスのような湿度の低い大陸性気候と、高温多湿の日本とでは生息する微生物が違います。高温多湿の日本にはワインを腐らせてしまう腐敗菌が数多くいると思われます。

・ワインが日本に着くと、すぐさまこの腐敗菌はコルクとビンの間から中に侵入し、ワインは腐り始めます。私の経験では早ければ半月ほどで、舌に腐敗を示す甘味やくすんだ味わいが出てきます。

早いものは三ヵ月で本来の味わいとは異なるものに大きく変質してしまいます。

 

◎様々な場所を探し、これにワインを保管しましたが、どこであっても必ずワインは変質しました。一般のワイン倉庫、電車の中の宣伝で自らワインの達人うたっているテラダ倉庫でも腐っていきました。

栃木県宇都宮市にある大谷石の廃坑内に保存したこともあります。ここは大谷石から昇華する化学成分が空気を殺菌し、ワインは腐りません。一年はとてもおいしくビックリしました。しかしこの成分が瓶内にある程度蓄積されると共通するにおいが感じられるようになり、少しずつ本来の味とは異なってきました。

 

★フランスと日本の空気中に生息する微生物の違いを端的に示すものは、フランスと日本の酒を仕込む時期の違いです。フランスではフルーツブランディなどはその果物の採り入れの時期に行われます。さくらんぼのブランディーであればかなり暑くなる6月です。ワインの収穫時とその発酵は秋で、それほど寒くはありません。湿度の低い大陸性気候では空気中に腐敗菌は少なく、仕込んだ酒が簡単に腐ることはありません。しかし高温多湿で腐敗菌の多い日本では腐敗菌の活動の低下する寒い時期に行います。寒仕込みはまさに腐敗菌の影響を受けにくい時期に作るということです。しかし今は統御したタンクの中で腐敗菌の心配はいらないですから一年中酒は腐る心配なく作れます。また出来上がった新酒は腐敗菌を殺すために「火入れ」によって6065℃まで温めます。この温度であれば腐敗菌はある程度殺すが酵母菌などは生きており、うま味成分も著しくは変質しないと言われます。生貯蔵酒などは火入れは1回ですが、冷やすことなく店の棚におけるように一般酒では2度火入れしています。

 しかし実際は火入れすれば味わいは壊れ、ふっくらとした豊かな膨らみは失われます。腐敗菌の少ないフランスでは微量の亜硫酸塩でもワインは変質しません。

 

◎今でも多くのソムリエや愛好家はこの日本での腐敗菌によるワインの変質を理解できず、ただ13度ほどに温度を一定に保つリファーコンテナで輸入し、日本に着いてからもその温度帯に保管しておけば大丈夫と考えられていますが、これは完全な間違いです。

 

〔かつてはこの腐ったワインを良い状態に熟成していると考え、飲んでいた〕

驚くべきことなのですが、日本のソムリエの多くや愛好家はこの変質してしまったワインを良い状態に変化したワインと捉えていたのです。

ワインは腐敗すると色合い、香り、味わいが濁り始め、次第にそれははっきりと醤油色に変色していきます。香り、味わいもワインに醤油を混ぜたような不快極まりない香り、味わいに変化してきます。これをワインアカデミーなどでも素晴らしい熟成の結果としてのレンガ色、あるいは群青色としてたたえていたのです。

私にはこんな気持ちの悪いワインは飲めません。勿論、翌日には不快極まりない状態に陥ってしまいます。

 

★以前は私は酒屋さんやセブンイレブンで1000円ちょっとでるくらいの、出来るだけ日本に着いてあまり日の経っていない、比較的安いワインを探して飲んでいました。これくらいの値のワインは回転が良いので総じて腐敗の程度が少し低かったからです。でも運よく少しましだと思うものにあたっても、半月も経てば味わいはもっとひどく腐っている場合が殆どです。もう飲めません。

 

〔この日本ではワインが腐るという事実の認識が進むと共に費用のかさむリファーコンテナ等を使わず、またいちいち冷蔵庫に保管する必要のない、扱い方もより簡単でより安いワインを輸入するために、次第に高濃度の亜硫酸化合物が加えられるようになった〕

次に示す数字は日本では何もワインだけと限らず他の食べ物や飲み物でも行政はそれを消費する人の健康には無関心で、危険な添加物の量までが企業の意向に沿っていともたやすく決められていく典型的な例です。

 

 

 

                         
 

亜硫酸塩の規制値とキャピタン社の検出値(1ℓ中) 1973(昭和48年)に制定

 
 

 
 

キャピタン・ガニュロ

 
 

EU基準

 
 

厚生省(日本)基準

 
 

赤ワイン

 
 

33mg

 
 

160mg

 
 

350mg

 
 

白ワイン

 
 

77mg

 
 

210mg

 
 

350mg

 

・日本はEUの倍量が認可されているのです。

※コンビニの室温の棚や酒店やワインショップの店先にも温度はもちろん紫外線への配慮もなく無造作に置かれているワインです。これらにはおそらく上限の量かそれに近い亜硫酸化合物が添加されていると思われます。

 

 

〔亜硫酸塩と亜硫酸化合物の強烈な毒性と怪奇形性、発ガン性〕

おそらく多くの方はこの亜硫酸化合物はとても毒性が強く、4段階のうち2番目に強い毒性を持ち、発ガン性や奇形性、心臓病その他多くの疾病を引き起こすとされることなど少しも知らないでしょう。また日本での赤白ワインの1リットル中350mlという高濃度のワインをねずみに人間の体重で1本に当たる量を飲ませたら、即座にそれだけで著しい体の変調をきたしたという実験結果もあるそうです。

 

◎私も初めは、へぇ、かなり危ない薬物だなという程度の認識でした。ところがあっという間にとても身近に、ワインが大好きでよく飲んでいてガンを発症した人が4人、ワインを毎日飲んでいて不妊症だった人がワインを辞めたら妊娠したなどと言う話が集まってきました。女性は乳ガンが2人、男性はリンパがん、あと一人は知人の親しい人でワインを良く飲み、ガンで亡くなったということで詳しくは聞いていません。

そういえば食道がんで亡くなられた歌舞伎役者の中村勘三郎さんもワインが大好きでかなり飲んでおられたと聞きます。ワインには抗酸化作用や免疫力を高めると言われるファイトケミカルのポリフェノールが含まれていることは誰でも知っていますから、まさかワインを飲んで健康を壊し、挙句の果てにがんになるなどとは誰も思わないでしょう。

勿論、ガンは多くの原因が重なり合って発症すると言われますから、ワインをよく飲むことが原因の全てではないかもしれません。しかしこれだけ身近にあっという間に話がはいるのですから極めて大きな原因の一つであることは間違いありません。そしてワインが主な原因でガンが発症した人は正確に調べればもっと多くの人がいると思われます。

 

〔誰がこんな高い濃度の亜硫酸化合物の添加を可能にしたのか〕

 

〔ここでも資本の論理は容赦なく人の健康と命を傷つける〕

人の健康と命を著しく傷つける亜硫酸化合物、当然の権利だといわんばかりに平然と驚くべき量が加えられている。資本の前では人々の健康の尊さ、命の重さなどの価値観は何の意味もない。人の命を傷つけようと、その結果金がもうかり、資本が増殖するのであれば、それは善であり正義なのです。

 

〔そしてこれは巧妙なる新植民地主義である〕

これだけ高濃度の亜硫酸塩が許可されたのは日本でである。しかしこれはどのような経緯を持ってこの数値になったかは定かではありません。しかし実際に日本には今も私たち日本人の命を傷つけるものが実に巧妙にイタリア、フランスから輸入されてくる。

フランスやイタリアのイメージを鼓舞する宣伝が常に執拗に行われ、これらの国から来るものは常に全て高尚で秀逸であるというイメージを私たちに植え付けようとしている。

しかし彼らは日本人をどうせ味など分からぬ幼稚な奴らだと高をくくり、多くの不良品が送られ、私たちの健康と命など無視され、その品物の真実の値打ち以上の金が持ち去られている。実に巧妙な新植民地主義の具現であると思う。

そしてここでもこの毒入りワインをとりもち、巨額の利益を得て、日本を売る輩がいる

 

◎ボジョレー・ヌーボーを飲むのももうやめよう

この日本中のバカ騒ぎは、日本人の無知さと愚かさと、そして柔らかい笑顔とは裏腹に私たちを愚弄し腹の中では舌を出すフランス人のしたたかさを表すものである。

解禁日が近くなれば、電車には毎年ボジョレー・ヌーボーの帝王とやらが今年のできもすばらしいと煽る。日本人は青い目と権威には本能的に弱い。そうか、今年も飲まなくてはと、コロリとその気になる。

・数年以上も前から本来の味わいのボジョレー・ヌーボーを飲むことはできない。そのワインは本当にその年の新酒なのか。本当にボジョレー産なのか。多くの日本人には分からない。

数種類のボジョレー・ヌーボーを飲んでも全てが不快極まりない鈍重な酸味と渋みの亜硫酸塩漬けの味わいである。

しかし毎年あるところから頂く1本だけはボジョレー・ヌーボーであった。その1本は、エールフランスがフランス大使館のために輸入しているものであった。

とにかく安い得体のしれないワインをビンに詰め、ラベルだけそれらしくして日本に送られてくる、そんなワインを有難がって、愚かなバカ騒ぎをすることを少しは恥ずかしいと思おう。

 

・ちゃんとしたボジョレー・ヌーボーはもう中国あたりに行くのか、あるいは中国にも韓国にも日本と同じものが行っているのか、知りたいと思う。ボジョレー・ヌーボーの生産は限られている。日本にも中国にも韓国にも、その他の国に行くだけの量はないはずである。まさしくアジア人は理不尽な搾取の対象なのだろう。

 

〔誰もがずっと長い間疑問を持ってきた〕

どうしてフランスで飲むワインはあんなにおいしくて、日本で飲むワインはどうしようもなくまずいのだろう。何とかしてフランスでのあのおいしいワインを飲みたいと多くの人が何十年も思ってきた。

でも亜硫酸塩の少ないワインはこの日本ではどこに置こうと腐る。そして今は殆ど全て多量の亜硫酸化合物が加えられている。本来の味わいは破壊され、そしてそれを飲めば心も身体も傷つけられる。

かなり以前こんな会話をテレビで見たことがある。普通の人がソムリエの田崎氏にどうしてフレンチワインはフランスでおいしく日本でまずいのかと質問をした。田崎氏は抜けぬけと「フランスで飲めば雰囲気などでよりうまく感じる」などと言っていました。

 

〔そんな輸入ワインのむなしい歴史にようやく終わりがきた〕

私もずっと同じ疑問を持ち続けてきました。いつかきっとフランスでのおいしいワインをこの日本で実現するぞと思ってきました。そして20年思い続けました。そしてとうとう、誰もが考えたことのない方法を考えつきました。そして素晴らしいフレンチワインはじめ世界のワインが極めて良い状態でこの日本で飲めるようになりました。

 

○仕組みはとてもシンプル

酸素を透過させないフィルムで袋をつくり、これにフランスのワインカーヴの中でワインを入れ、シールをして密閉する。カーヴの空気とそのまま生息する酵母、微生物を封入し、カーヴ内と同じ条件のもとにワインを日本に運ぶ。勿論リファーコンテナで運びます。温度だけに気を付ければワインは良好な状態で届きます。日本でビンの中に腐敗菌が侵入することもありません。

フランスのカーヴ内で寝かせられていた頃の様々の成分のエマルジョン(混ざり具合)は1ヵ月の揺れでバラバラに崩れています。味わいはバラバラに崩れています。日本で再び十分寝かせることによって、次第に以前の混ざり具合となって味わいは戻ってきます。

割と値の低い味わいの軽めのものは3ヵ月ほどで、色合い、香り、味は戻り、何とかおいしく飲めるようになります。でも本来のおいしさは6ヵ月で変わり始めます。また他の高い味わいが深くて濃いものは、6ヵ月では不十分で、甘さが少し表面に出て味わいもまとまりが未だ不十分です。

1012ヵ月くらいで筆舌に尽くしがたい、深いたゆたう味わいが戻るだろうと思っています。

 

 よくソムリエが味わい、香りなどを「スミレの花のニオイ」「黒すぐりの香り」などと表現しますが、日本に着いてばかりのもの、腐ったもの、亜硫酸化合物の多くは言ったワインはこんな繊細な感覚を識別することはできません。実体のない形容つまり嘘です。しかしこのパック入りのワインは、6ヵ月ほど休ませればフランスと同じ繊細さを取り戻し、まさに感覚のすべてが引き込まれる微妙な香り、味わいが感じられます。信じられるほどの深いたゆたう味わいなのです。これを飲んだらもう毒入りワインは飲めません。

 

 

〔なぜ、世界のワインのコンテストが日本で開催されなければならなかったか〕

私にはずっともっていた疑問があります。

日本にもプロのソムリエ、ワインに一家言もっている愛好家が数多くおられます。しかし亜硫酸化合物が多量に加えられたワイン、昔ながらの製法の硫黄の燻蒸による微量の亜硫酸塩しか加えられていないワイン。これらのいずれもが日本に着いてからどのように変化していくかをより克明に理解しているのは私しかいません。私の確信は次の通りです。

船便であろうが航空便だろうが、この日本に着いたときは、どんな場合でもそのワインの本来の味わいは完全に壊れてまったく異なる味わいに変わってしまっています。そして私が考案した酸素無透過の袋に封入しても味わいの輪郭が現れるのには3ヵ月必要です。この袋に入っていない場合は亜硫酸塩が比較的少ない場合は徐々にワインは腐っていきます。高濃度のものはそれを加えた時に全てが亜硫酸塩によって本来の味わいとは全く別なものに変わり、これはずっとそのままです。これらのことから次のことが断言できます。

こんな状態のワインを試飲して、ワインの産地の当てっこをすること自体とてもおかしい。また当たる方がとんでもなくおかしい。産地を外す方が当たり前なのです。そんなところでなぜコンテストをするのか。当時フランスは金あまりの日本に熱烈にワインを売り込みたかった。日本でコンテストをして日本人が優勝して世界一になれば、これ以上の日本人をその気にさせるパフォーマンスは他には考えられません。

そう、まさにこれはフランスの、しゃにむに日本にワインを売り込もうという思惑のもとに仕組まれたコンテストなのです。

 

〔そして田崎氏は日本に多量の毒入りワインや中身とラベルの異なるワインを急増させる環境を作り上げた〕

明らかにからだにとって危険な濃度の亜硫酸化合物が多量に加えられて輸入されたボジョレー・ヌーボーでないボジョレー・ヌーボーしかない。誰がこんな状態を許したか。それは紛れもなく現在のワイン業界の中枢にあり、その絶大な力をもっている田崎氏や少数のソムリエなどである。田崎氏その他の人たちがソムリエとしての自分の仕事に対する真の情熱、正義心を持っているならば、これらは身を挺して防がなければならなかった。

しかし彼らにはそんなものはない。まして日本人でありながら日本人の健康を気遣う心など全くない。彼らは日本人をフランスなどに売り渡している。新植民地主義の日本での執行官である。

 

○この高濃度の上限の基準が制定されたのは1973年でありかなり前のことです。しかし10年ほど前まではビンのラベルには抗酸化剤(二酸化硫黄)と記してありました。つまりそれまでは上限の量は規定されていたがそれほど多量の亜硫酸化合物加えられていなかった。

 私の認識としてはあることを契機として一気に亜硫酸化合物が加えられるようになった。それは田崎氏がプロデュースしていたセブンイレブンのワインが急にコルクからスクリューキャップに変わってからである。高濃度の亜硫酸化合物を加えることによって、より簡便な効力しかもたぬスクリューキャップの欠点を補おうと考えたのであろう。しかしそれ以来セブンイレブンのワインは異常な酸味と渋みの薬に染まった味わいとなった。

 しかし本当にワインを愛する人なら、しかも日本のワイン業界の中枢にあるのなら、ずっと以前に決められたものとはいえEUの二倍という異常な上限値を下げるべく努めなければならなかったと思う。しかしながら田崎氏は高濃度の添加を促し、危険なワインがこの日本に溢れることに力を貸したのである。

 

皆さんにとっては、恐らく初めて耳にする内容だったでしょう。

今私が述べた反対のことが、つまり日本酒やワインの素晴らしさを称えるものが、テレビや本などのマスメディアに溢れています。

 

マスメディアは決して一般人の心と体の健康と幸せに配慮することはありません。これらはほとんど常に資本の代弁者であり、私たちにとっては常に敵対する存在であることを認識しなければなりません。

 

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第五章 日本的繊細さがもたらす不幸と国力の低下 そして終章 日本的繊細さの浸透はとどまるところを知らない。益々深く、致命的に。

今まで述べてきたことから明らかなように、日本的繊細が深く浸透するほどに、

1. 日本人の食べ物から広く私達の身体、細胞が必要としている栄養素が致命的に欠落しています。

 

2. 野菜や果物など食の素材から自然の息吹が失われていき、それに感ずる情緒や心の彩りが失われ、無感動な精神しか育たなくなります。

 

3. その結果として家族の結びつき、人と人の絆は切れ切れになり、人はバラバラになり、社会的規範、人間としての良心、正義は失われてきます。

 

食は音声を発する言語以上に、人と人とを結びつける、最も基本的な言葉なのです。しかし今、日本では物を食べることによって、心と身体の建国は傷つき、人と人は疎遠になっていきます。

 

 

 

終章 日本的繊細さの浸透はとどまるところを知らない。益々深く、致命的に。

 

巷ではまたまた奇怪極まりない食べ物が現れています。

 

半熟カステラ、半熟プリン、生どらです。とうとうここまで来たのかという思いです。しっかり心をこめて作られたおいしさはどんなに時代が変わろうと食べる人をひきつけるはずです。今まであるものをもっと旨く作ることが大事なんです。プリンも、カステラも、どら焼きも、もっと柔らかく、繊細にということで、本来なら「生焼け」と言われて笑いものになり、店の品位を落とすものが、堂々と店先に並べられ、そしてそれを有難がって買う。私はもう表現する言葉を知りません。

無知蒙昧、無節操、無恥、私の知っている言葉だけでは、これらの菓子の異常さを正確に表すことは出来ません。

 

今の商売のあり方は、買って食べる人の心と身体の健康を少しも考えることはありません。売れるかどうかは、それが本物かどうかではありません。嘘の塊でもなんでもいい。とにかく「本物らしく」みせる、そのみせかたのみで売れ行きが決まってしまうのです。

それにしてもカステラの名門とみなされている長崎の「福砂屋」の「五三焼(ごさんやき)」には名門としての使命と心意気の感じられない、あまりにも無節操な商品です。食の繊細さの無知なる誘惑は益々強められています。


 

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第四章 私なりの勝手な考察、日本の食を愚かなる習慣に陥らせたもの

A

1)懐石料理の由来、元は一汁一菜の粗食

懐石とは寒さが厳しい冬などに、修行中のお坊さんがあまりの空腹と寒さを紛らわすための、懐に暖めた石を忍ばせたことを言うそうです。修行中のお坊さんたちの日々の食事は一汁一菜の本当の粗食だったでしょう。庶民の食事もお坊さんのものとそう変りなかったでしょう。こんな状況を考えれば、懐石という名がつけられた理由は仏に仕える者の質素な料理という意味だったと想像します。

庶民がお寺にお参りに行った時に、このような料理が出されたり、また仏事などにこのような料理を出すようになったのかもしれません。

 

2)料理が一つの商売となって料理の数と技巧が入り始める

質素なお坊さんの料理が市井でも作られるようになると、またそれを作って提供する店が現れてきます。次第に店同士の競い合いもあり、元々の由来から離れて、少しずつ手の込んだ、しかも多種類の料理が作られるようになります。しかしそれでも料理は未だ、素朴なものであったはずです。

 

3)千利休によって茶の湯の創成

千利休が形を成し、広めた茶の湯には、戦国時代の世相の要求だったのでしょう。闘いに明け暮れる中、明日の行く末すら分からず、いつ冥府に行くかもしれぬという恐怖は人々の心の中にいつも有り続けたと思います。不安な日々の生活から茶席という小さな非日常の空間に心を移し、しばし永遠なるものを思い、心の安らぎを得ようとしたのでしょう。しかし茶道の創成期は質実なるを旨とし、未だ食べることも、繊細さを持ち始めることもなかったでしょう。

 

4)茶道の爛熟期と宗派の確立と食事が儀式化する

茶道は爛熟期に入り、宗派が確定してきます。そして茶道の宗派同士の競い合いが常となり、それぞれの宗派は自己の優越性と幽玄さをつくろうために、簡素であった作法を複雑化させ、儀式化させていきます。食事、料理が茶道の権威づけのための装置としての役割を持ってきます。

大きい皿にどんと大盛りの料理が出てくる。それを皆でわいわいと食べるのでは権威を盛り上げるための儀式にはなりません。小さな器に盛られた料理が長い時間をかけていくつも粛々と出され、そのごにある茶席への緊張感を少しずつ高めていきます。当然出される料理は口に入れた途端に「わぁおいしい!!」と思わず声があがるような旨さであってはなりません。こんな料理が続けばおごそかな緊張感は増していきません。味わいもおごそかでなければなりません。おいしさは必要ありません。おごそかに食べると言う形だけが必要とされるのです。素材の表情を取り除いた、静かな味わいが求められたのだろうと考えます。

また、茶席に出されたお菓子の味わいも全く同じことが求められたと思います。茶事と関わりを持ち続けてきた懐石料理と京菓子は、このような方向性を強く内包していることは間違いないと思います。

 

◎形式化された京上生菓子

小豆には小豆の香り、個性的な味わいがあり、そして特性ある栄養素が含まれています。この栄養素を可能な限り逃さずに作り上げて初めて豊かな小豆の味わいを感じます。しかし小豆の味わいを作る大部分が取り除かれ捨てられるのです。工程なこんな具合です。小豆は34日、毎日水を変えながら浸けられます。この段階でも少なくない小豆の旨味は外に出てきています。さらに水を変えながら、透き通るような色合いになるまで煮続けられ、旨味の多くは煮汁に出ます。しかしこの煮汁は捨て去られます。次にこれを裏ごして皮を取り除きます。皮にもかなりの旨味があります。さらに裏ごした小豆を何度も水を変えて洗い続けます。

もうほとんど小豆の香りも味わいもありません。あるのはあるかないかの弱い舌ざわりだけです。これに砂糖を加え煮詰めて出来上がります。

無理に意識を持って探さなければ、小豆の味わいは感じられません。あるのは「無」そのものの、舌先に少しの感覚も起こさない小さな滑らかさだけです。これがさらに柔らかさだけの皮に包まれて上生菓子が出来上がります。

白いあんこも同じようにして作られます。手芒豆の暖かいほっくらした味わいは完全に取り除かれてしまいます。そしてこれが様々の季節の花々に形を変えたり、色粉で様々の模様が描かれたりします。この白あんはもう食べ物ではありません。手芒豆の表情など全くなくなった、絵を描くための和紙と同質のものなのです。私達は手芒豆で作った紙を食べているのです。可能な限り突出した物を取り除き、舌に、五感に、何も感じさせずに流れるように食べるという行為を終わらせること。これが彼らにとってのお菓子作りの至上の命題なのです。

また和菓子や和食の作り手は、季節感が一番大事と言いますが、それは全く偽りです。見た目だけの季節感なのです。この二つは食べ物であるにも関わらず、味わいの中に季節感を求めないで何のための季節感なのでしょう。

上生菓子においては、この日本的繊細さ極まりない製法、味わいは、私が四十年前に菓子屋になった頃は確立されていました。味わいを希薄にした上品な上生菓子へのあこがれは地方の和菓子の職人さん達に強くあったと思います。そしてその様々な味わいが全国へ広がっていき、多くの人が滑らかさ、柔らかさが日本的な繊細さの神髄なのだという潜在意識が醸成されてきたのでしょう。そしてこれが現在の状態を生む遠因となったように思えるのです。

しかし上生菓子以外のお菓子は今のものから比べれば、それぞれの土地の味わいがあり、もっと個性豊かだったと記憶しています。

そして、やがてバブル経済の到来によって資本の論理によって、和菓子、和食のみならず、ほぼ全ての食から味わいが抜かれ、希薄になり、繊細になってきたのです。

日本人全体に繊細な味わいへのあこがれの気持ちがあったとはいえ、これほどまでに味わい~おとごとく特性が抜かれ続けてきたのは、資本の論理の有無を言わせぬ強い力と日本人の国民性にあると思います。私達は一度一つの方向に走り出すと、他人の目を意識することもありませんし、少し離れて客観的に自己を見つめることが出来ません。

 

 

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第三章 ニオイも味もしないものをおいしいと有難がる風潮と国民性

A)ニオイの強いものは悪、下品なものと捉える日本人の不幸

 

日本にも香り、味わいを豊かに含み、心と身体にいいようのない満足感と幸せを与えるものが以前は数多くあったはずです。くさやはトビウオなどを開いて、魚の内臓と塩水を発酵させたものを塗り、乾燥させたものです。正しく五感に覆いかぶさるような膨らみのあるふっくらとしたニオイ、そして舌に力をもって溶けだす旨味、本当の食べ物です。

でも、こんなことを教室の生徒さんに言うと、一様に不振の目を向けて「あんな臭いの、焼かれたら近所迷惑です」と、ちょっとさげすむような表情で言われてしまいます。でもくさやは勝手にどこかの星から漂着したのではありません。この国で、そこに住む人達の健康を与えるための不可欠のものとしてあり続けてきたのです。間違いなく人々を幸せにしてきたのです。しかしこの国では久しく下品であってはいけないもの、悪とみなされるようになったのです。

 

近江の鮒寿司も旨い。鮒の旨味がご飯のすえたニオイと重なり、身体に興奮を与えます。舌全体にあまりにも力強い暖かい味わいが広がり、しみてみます。五感がいっぺんに目を覚まします。「ん、んめぇ」もうたまりません。少量しか作られないので、とても高いのが残念。ちょくちょく食べたい味わいです。でも多くの人が、「あれが旨いんですか」と驚きます。

 

・にんにく

まぁ確かににんにくを食べた次の日は臭い。私はもう六十歳を過ぎたので、あと何年生きられるか分からないので、次の日の他の人への迷惑は一切考えません。焼き鳥屋さんではにんにく焼き23本、鰹は勿論すりおろしたにんにくが一番旨い。肉じゃがなんかの煮物にも心おきなくたっぷり加えます。心行くまで食べることにしています。まぁ、朝にんにく臭くたっていいじゃないですか。皆食べたかったら遠慮しないで食べればいいんです。でもにんにくのニオイは下品で上品な日本人にはふさわしくないとわざわざニオイのしないにんにくが作られてきたんです。

私は野菜炒めなどにも刻んだにんにくを加えます。スパゲッティのソースなどに書かれた分量の3倍加えないと香りは十分に出なくなっています。何よりも厚みのある頭の芯とお腹に迫る厚みのあるニオイがありません。わざわざくだらないことをやらなければ、量も1/3で済むし、何よりも料理の味わいが印象的に立ちのぼります。韓国やイタリアからのにんにくを使えば食欲のわき方がまるで違う。本当に心と身体が暖まる、とても安心感のある味わいが出来上がります。

 

・ニオイのおとなしすぎる納豆

日本の、もう豊かな栄養素などない国産大豆を使って作られた納豆は、ニオイも単一、単調でやっぱり力がないんです。そして豆をよく見ると、表面から1/2くらいしか発酵させていない。それより中は豆のままです。恐らく納豆菌なんかも選んで、出来るだけ単調なニオイにしようとしちえるのでしょう。やっぱり私の子供の頃の納豆とはかなり違います。納豆とご飯、味噌汁だけで十分だった私の子供の頃のようにはいかないと思います。

 

・日本茶

今の緑茶は最悪です。常に書かれているような健康のための効能はもう期待できないでしょう。

一年中薬漬けで栽培されます。土も荒廃し、木にはもう健康な生命力はありません。根元にクロロフォルムをまき、緑色だけは鮮やかに出ますが、全く味、香りはありません。こんなお茶に栄養素などある訳がありません。飲んだからといって、カテキンによる効用なんてあるはずがありません。もう既に本来のお茶とはほど遠いものになっているのに、さらにこれに手を加えて香り、味わいを取り除き、勝手な付加価値をつけて値を上げるいつもの手法です。「深蒸し茶」最近よく見ますね。でも長く蒸気を当て続けると言うことは高温で栄養素、香りが失われてしまうことです。鮮やかな緑に香り、味も見事に希薄なお茶が今、トレンディーなのです。

全国あちこちからお茶を頂きます。しかしどれも飲めません。見事にどれも初めから超出がらしの味わいです。

私が子供の頃はお茶も高く、豊富ではありませんでした。朝入れたお茶は、56回飲みました。それでもそれなりに味わいはありました。でも今のお茶は一杯目でも昔の5回以上淹れた出がらしよりずっとまずいですよ。そして味の素をたっぷり加えたような気持ちの悪いものが多々あります。

 

・炭火焼コーヒー

炭火焼コーヒーも日本人が考えだした得体のしれない飲み物です。焼き鳥なら炭火の炎から出る成分で鶏肉の成分がおいしく変化するような気がします。でもコーヒーを炭火で焼いてはいけません。炭火は熱の密度が高い割には低温ですから、より時間をかけて豆を焙れば香りとか味とか全ての成分を炭化させてしまいます。残るのは腹にドスンとくる炭の味です。これを煎じて身体にいいわけはない。これだけ炭にしてしまえば、これはもう旨さではありません。もうこんなの飲まないでよという身体が抗議しているような不快な感覚しか私には残りません。でも、殆どの人が炭火焼コーヒーはおいしいと思い、不快な感覚をもおいしさの感覚と思い、喜んで飲んでいます。これも香り、味を徹底的に取り除き、ニガサという一つのものに要約する紛れもなく日本的繊細さの一つです。

 

2)味、匂いのないものを喜ぶ

サラダ用ほうれん草もおかしな代物です。わざわざ手間をかけて作る必要はありません。ほうれん草としての特性、癖が無いということは、その葉の中に本来あるべき旨味栄養成分がないということなのです。形だけの、抜けがらのほうれん草です。

サラダ用の様々の葉っぱ、薄い緑に薄いブルーの入った少しの生気もない葉の色です。勿論、味も香りもありません。4毛作で全く不十分な光合成しか行われず形だけを作り出します。水の塊のような、辛みの薄いサラダ用の大きな玉ねぎ、辛みだけでなくあるかないか空々しい味わいです。

かすかな歯ざわりだけの、息も絶え絶えの命しか感じられない水耕栽培による三つ葉、せり、様々の野菜。でもだれもが喜びます。「癖が無くてとっても食べやすくておいしい」と。

見事に経済効率至上の資本の論理が生命の息吹をなぎ倒したのです。

 

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その7>

E)家庭でも実践される繊細な料理

 

1)テレビが持ち込んだ不幸な料理法

 

家庭料理でも多くの方が灰汁抜き・下茹での、上品なきれいな料理を日々作ろうとします。でも、私が子供の頃、家のお母さんたちは家事に忙しく、七面倒くさい手間をかけ料理などはどこもしていませんでした。洗濯はたらいと洗濯板で、掃除は箒と雑巾で家中の掃除をして薪や炭火をおいてご飯を作っていました。とにかく毎日一日中働きづめでした。しかしテレビが普及するにつれて、テレビを通して日本の家庭の食事を啓蒙するためにNHKで「きょうの料理」が始まりました。しかしここで母子伝承の家庭料理の作り方は切断されてしまいます。土井勝氏始め、多くの料理研究家たちが、テレビを通して家庭料理には全く必要ない、不自然な手の込み過ぎた料理法を持ちこんだのです。

「他の研究家とは違い、私はこんなに手をかけて上品な料理に作り上げている」と自己の優越性をひけらかす場になってしまったのです。以前は誰もしなかった灰汁抜き・下茹で、素材を小さく細かく繊細に切るなどの七面倒くさい工程が家庭に浸透してしまったのです。そして料理離れが進んでいきます。

 

◎汚い灰汁は実は旨味であり、身体が必要としている栄養素

しかし更に不幸なことは、灰汁として研究家が捨て去るように庶民を誘導してきたものは、実は私達の心と身体が必要としている栄養素だったのです。この料理法が広がるにつれ、アトピー性皮膚炎、アレルギー、花粉症を始めとして様々の疾病が広がってきた。

 

◎表情のない素材を砂糖の甘さで封じ込める

全ての素材の灰汁を取り除けば、料理の味は全くなくなります。正に気の抜けた無表情な素材の寄せ集めにすぎません。不味くて食べれません。そこで砂糖を加えて、その甘さで何とか味わいを組み立てようとしたのです。益々味わいの単純化は進みます。全ての素材の顔が甘さに埋もれ、素材は全て歯ざわりのみに画一化され、日本的繊細さが完成します。

 

 

2)味、香りのしない調味料、調理済食材

 

このように家庭で作られる料理から、香り、味わいが抜けて希薄になるに従って、料理に使われる調味料からも栄養素、香り、味わいが抜かれていきます。そうしないと、調味料だけの味わいが強くなり、味わいのバランスが撮りにくくなるからです。味のない素材や料理には、味のない調味料がとりあえず使いやすいのです。調味料とは料理の味わいを高め、身体細胞が必要としている栄養素をより広く豊かに添えることが目的なのですが、生気の無い料理の味わいを隠すためにと役割を変えてきたのです。勿論、こんな香りも味も希薄な調味料に豊かな栄養素など期待すべくもありません。

 

・味、香りを抜いたサラダ油

1960年に発刊された狂気じみた書ともいえる灰汁抜き・下茹でづくしの土井勝氏の著書『基礎日本料理』にこうあります。サラダ油は悪臭が少なく色の薄いよく精製された腰の強いものが上質。

当代随一の料理研究家の言葉ですから、多くの調味料メーカーがこれにすり寄り、サラダ油から香り、味、そして栄養素を競うように抜いていったと思います。土井氏の著書により、このサラダ油だけでなく、日本の食はかつてない繊細さに近づき、本来の味わいを捨て去ってきたと思います。

 

・ふにゃふにゃの米酢

私の記憶の中にある酢はどっしりした力と幅も厚みのある深い味わいでした。舌の全てを包み込むような力に満ちた甘さを持った味わいでした。夏はきゅうりの酢の物がよく出ましたが、酢の暖かい旨味がきゅうりの味わいに力をつえ、すっと身にしむ、途切れのない味わいでした。

今の間も腰も抜けただらしのないふにゃふにゃの香りのきゅうりの酢の物は、空々しい味わい。食べる気にはなりません。こんな酢が料理の味わいを高め、身体によいものを含んでいる訳がありません。インターネットで酢について調べると、何か酢をたくさん摂るとほとんどの病気が治るかのような効能が溢れています。酢はそれだけ身体にとって大事なんだと思います。でもふにゃふにゃ酢ではこのうちの効能の一つも期待できそうにありません。

私がスペインのカタルーニャから自分の足と口で探してきたオリーブオイルとワインビネガー。インターネットにかかれた多くの効能が実現されそうに思える味わいです。とにかく五感にしみ込む味わいにはしびれてしまいます。サラダのドレッシングを作っても、あるいは夏なら5mmほどにトマトを薄く切って大皿に一枚ずつびっちり並べ、その上に岩塩を振り、ワインビネガー、オリーブオイルをびんからふりかける。5分冷蔵庫におく。そして食べます。ボケトマトもとんでもなく表情御変えてしまいます。身も心も涼しさと共にきゅっと締まり、もう毎日食べても少しも飽きないおいしさです。調味料だって何だって、豊かな栄養素、香り、味わいがなくては摂る意味はありません。私共のお菓子・料理教室で暑くなってくる頃に、一度皆さんにこのトマトサラダを出すんです。もうこれに病みつきになる人はかなりおられます。それくらい旨いんです。

 

 

3)冷凍・電子レンジにより味わい・香りは失われ、繊細さに近づいていく

 

これは繊細な味わいを作り出すために考え出されたものではありませんが、冷凍、電子レンジの使用によって、栄養素、旨味、香り、味わいは致命的に失われ、日本の食の繊細さは完遂されます。どの本を見ても、電子レンジによって栄養素はほとんど破壊されない。むしろおいしくなると使用を推奨する本ばかりです。でも24.5khとは一秒間に245000万回水の分子を振動させることによって得られる、自然界では存在しない強烈なエネルギーです。栄養素が壊されないはずはありません。電子レンジを使えば、味わいは全く変わってしまいます。タンパク質、ビタミンなど栄養素は著しく破壊されるのです。

またスーパーから買ってくる牡蠣、イカ、魚類は店で何度も冷凍、解凍を繰り返され、栄養素は破壊され、少しのニオイもない水っぽい味わいになっています。鶏肉、豚肉、干物が全て冷凍されています。

 

 

F)日本の産物

 

1)日本の野菜などはアメリカと共に世界で一番まずい

 

今、日本人の殆どの人が、国産の野菜や肉が世界で一番安全で一番おいしいと信じ込んでいます。でも真実は違います。とりあえず残留農薬などは安心かもしれません。でも素材の中に含まれる栄養成分はほぼ間違いなく世界で最も乏しく、そして最もまずいものばかりなのです。これは公の数時でも明らかであり、昭和26年と現在とでは、カルシウム、りん、鉄分、ビタミンなど、1/51/10ほどまでに減少しています。

例え、普通にまじめにごはんを作っても、長期的に確実に健康は傷つき、体調は落ちています。何しろ私達の身体の細胞が必要としている幅の広い栄養成分やミネラルなどが全く不十分にしか含まれていないのですから

このように香りも味も歯ざわりさえも、私が子供の頃と全く違ったものになってしまった理由は、これまでにあまりにも多量の農薬が蒔かれてきたことや、意味のない品種改良、経済効率至上の植物の生理を無視した年34回の多毛作、水耕栽培その他が挙げられます。

参考資料*栄養素の変遷

 

Verd_1

Verd_2

Verd_3

Verd_4

 

 

2)荒廃した野菜のうちの多くの物は、意図的に旨味栄養成分を抜かれてきた

それと同時に誰でも食べられるように意識的に味や香りの特性を抜いてきたという事実もあります。

私の子供の頃のトマトはとても個性的な芯のある青臭さがありました。そして酸味もしっかりしていた。嫌いな子がいたことは確かです。でもだれもが食べれるようにしてやろうなどと、わざわざ匂いや味を取り除かなければならないほどにトマトを嫌いな子供が大勢いたとは思いません。つまりもったいをつけたお役所のいらぬおせっかいだったのです。今は少し戻りましたが、20年ほど前はトマトからどんどん味、香りが消え、築地で探しても、どこを探しても、すっぱいトマトなんてもうないよと言われたものです。

人参やキュウリだって同じです。栽培方法も変わりましたが、そのような考えものもとに変えられてきたことも事実です。そして匂いの弱いにんにくです。にんにくをにんにくでなくする。これ以上の傲慢さはありません。本当の匂いのしっかりしたにんにく、これまで長い間、人間の健康を支えるために必要だからあり続けて、食べられ続けてきたのです。このことを無視して突然臭いにんにくはいかんと変えてしまえというのは、無知からくる傲慢さでしかありません。このような動機のために、自然と生命の摂理を捻じ曲げてはいけません。そのしっぺ返しは必ずくるのです。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その6>

D)日本のプロが作る和洋の料理と洋菓子

 

1)和食

 

懐石料理

後述しますがおいしいと思った形のきれいには感じたことはあっても、おいしいと思ったことは懐石料理では今までありません。

 

●おでん

どこもかしこも程度の差はあれ、灰汁抜き・下茹でしたものばかりです。素材から栄養素、旨味、特性を取り除き、無に近づけることを省いてはならない工程であると考えています。店によっては殆ど味のなくなった形だけ大根やこんにゃく、その他を薄い上品極まりない鰹節の煮汁で煮る。私には全く訳が分かりません。何でこれがおいしさであり、さも分かったような顔をして真面目に食べなきゃいけないのでしょうか。勿論おでんを作る時も素材の味わいを灰汁抜き・下茹でと捨ててしまってはいけません。私の著書「ごはんとおかずのルネサンス基本編」の中のおでん、日本の正統の身も心も温まる味わいです。勿論これ以上に旨いおでんは存在しません。作り方は全く簡単です。

 

●天ぷら

天ぷらのおいしさはカラッとした揚げ具合と軽いカリッとした衣にあると誰でも思っていますがそうではありません。もともと天ぷらのような油の多いものを、初めから終わりまで長い時間食べ続けることが不自然なんです。腹ももたれるしかなり多量のカロリーを摂ってしまいます。でも一つの天ぷらを商売として成り立たせるために、少しでも余計に食べられるように油っぽい印象を薄くするために、まず衣を軽い歯ざわりにして、そしてどんどん衣の部分を少なくしてきた訳です。

天つゆはこれにつけたほうがおいしいからあるのではなくて、油と一緒に少しでも水分を衣に浸けた方が油を感じず、より軽く食べやすい、それだけのことなんです。魚もキスとか味の薄い白身の魚だけを揚げる。これも同じ狙いです。去年の夏、店内の作りだけは大仰な天ぷら屋さんに行きました。一つ一つ、どこ産の茄子だとか、どこ産の何だとかと、能書きが添えられますが、少しもおいしくない。食べ終わってみれば満腹になったのは耳だけです。天ぷらを食べたはずなのに少しも腹が満たされない。天ぷらもここまで下らなくなったんだなと思いました。一緒に行った若者はコンビニでサンドイッチを2袋買って帰りました。サンドイッチの方がましだったと言っていました。

先ほど記した『ごはんとおかずのルネサンス基本編』の中の日本の天ぷらの原形、私のおっかさんのかき揚、作って食べてみてください。そのうまさに圧倒されますよ。子供はもうとんでもなく大喜び。嫌いな野菜が入っていったって食べない訳がありません。皆皆、大満足です。

衣はことさら軽くカリッとしなくたって、衣にしっかりした香りと味を加えてやれば、ガリッでもなんでもいいんです。ずっと旨くなるんです。魚の天ぷらはなんたって鰯に勝るものはありません。このかき揚も鰯のものも、2つも食べればもう大満足。身も心もそうです。でもこれでは天ぷら屋という商売が成り立ちませんね。衣も具も、ただ軽い歯ざわりだけでなくいろんな香り、味、歯ざわりがいっぱい感じられた方がずっとおいしいんです。

 

●そば

噛んでも噛んでも噛みきれないそばを「凄くこしがあって旨いねぇ」と真顔で感心しながら食べている人達を見ると、私はこの人達は本当に美味しいと思って食べているのかなぁとまじまじと顔を見たくなります。少しもおいしいとは感じていないのです。ただ溢れるマスコミからの情報で「そうか、そばってこしがないとおいしくないんだね」と思いこまされているだけです。噛み切れないほどに腰を強くする、これもビールや日本酒と全く同じ発想であり、口に、五感に、感じるものを出来るだけ無に近づけることです。普通は柔らかくしようとする、でもそばは柔らかくするとドロドロになってしまう、だから噛みきれないほどにして香り、味わいを出来るだけ感じないようにする。噛み切れなく長いまんまだったら、そばの旨味も舌には感じないし、香りも登りません。ただしこしこ、それだけです。どこかのそば打ちの名人が作ろうが、ただそれだけの淋しい限りの味わいです。

元々、私が子供の頃、会津で食べたそばはもっと色が黒くて、ポロポロすぐに噛み切れて香りも味も豊かでした。それがそばなんです。出雲の黒いそばを食べたことがありますか? 噛めばほどよくポロポロ崩れて、そばの実の甘い豊かな香りと味わいが口中に広がります。何度も何度も「んめーなー、んめーなー」と言って食べています。食べ終われば何とも言えない満足感に心と身体が包まれます。ちゃんとした出雲そばがあれば、それ以外は無くても良いと思います。高名なそば御殿に住む先生のそばなんて、なおさらごめんです。

そばは日常に食べるもの。ビックリするような値段なんてとるもんじゃありません。何を考えているんでしょう。

 

●うどん、そうめん

うどんもそうめんも、そばと全く同じ状態です。大手メーカーの「いい粉といい水で作りました」でも、腰の強さだけ。味も香りもしません。粉と水のどこがいいんでしょうか。以前何かの本でそうめんは歯で噛むもんじゃなくて喉ですするもんだなんてしたり顔で能書きを垂れている人がいましたが、そうめんはまずいビールではないんです。のど越しが全てではありません。口の中でしっかり噛んで、崩れて、小麦の味、香りが五感に行きわたる。これが本来のおいしさなんです。いずれの麺もうすら甘いだけの汁で食べるのは、私はゴメンです。会津では子供の頃、そうめんは一年中よく食べました。麺にはもっと暖かい、安心感のある香りと味わいがありました。もっとポロポロと切れやすかった。そして煮干しを加えて作った野菜たっぷりの汁で本当に嬉しい旨さでした。でも今は、麺の舌ざわりが滑らかで、腰はあるが味、香りはなし。そして砂糖の入ったうすら甘いだけの汁。冬暖かく、夏冷たくしても、カサッとした少しの嬉しさもない味わい。そんなそうめん、うどんしか食べられない店ばかり。絶対外では食べません。

 

●豆腐

沖縄の島どうふ。しっかりした歯ざわり、存在感のある味わい、旨いですよね。これが本来の豆腐の硬さだと思います。でも東京の沖縄料理店ではさみしいくらい少ししか出てこない。パックの1/2丁くらいは食べたいですよね。内地ではどんどん上品さを求めて柔らかくなっていき、絹ごしなんて、ただ滑らかさだけの歯のいらない代物が出来てきたのです。

 

味も香りもなくて、歯の要らない豆腐なんて何の実感もありません。私は香り、味とも十分に感じられる、ボロボロした硬い木綿豆腐しか食べません。料理屋さんで自慢げに書いてある自家製の寄せ豆腐。大体どこで食べても箸でつまむと哀れにポトリと落ちてしまうようなものばかりです。挙句に豆腐に砂糖が入っているものなら心の中ではこんちくしょうと怒ってしまいます。さらにさらに、甘い醤油ではほぼ限界に怒りは膨れてきます。

 

●茶碗蒸し

さぁ、これもわけのわからない食べ物ですね。スプーンでちょっとつつくとパッと崩れて汁がサッとにじみ出てくる。まさに超々絹ごし豆腐といった軟さ。スプーンにすくって口に運んでも何の印象もない、液体が勝手に入ってくると言った感じです。水とほぼ同じの舌ざわりに負けじと、香りと味もあるかないか分からないほど。でもだれも本当の茶碗蒸しを知りません。殆ど家で作ることはないので、料理屋さんで食べると、「茶碗蒸しはおいしいに決まっている」という前提で皆が食べます。それで満足なんです。間違いなくこれも「日本的繊細さ」を求めて作られてきた味わいです。でももっと大きな、身も心もしみ込むような大きな満足があることを知らない。

私が子供の頃、鶏卵は貴重でした。お正月とか、その他何かめでたいことがあった時など、数年に23回でした。茶碗蒸しが出る日は子供も大人も楽しみでたまりませんでした。あの頃は鶏肉も卵も今とは比べ物にならないほどおいしかった。蒸し上がった出し入り卵と加えた日本酒の香りがふわーっと顔を包み、全身に広がります。昔は茶碗蒸しは箸で食べたんですよ。信じられないでしょう。勿論、今のものは箸を持ってかきこまない限り、箸では食べられない。出し汁卵は今よりずっと加える出し汁が少なかったから、しっかり固まり、箸でもはさめたんです。歯ざわりもあり、香りも、味わいも豊か。これが本当の日本の茶碗蒸しです。寒い時なんかは、暖かいものが欲しくて本当にたまに頼んでしまいます。一口スプーンを口に入れると「あーあ、やっぱり頼むんじゃなかったなぁ」全部食べても何の印象も残りません。でも皆これがおいしさだと思っている。『ごはんとおかずのルネサンス 四季の息吹・今昔おかず編』には私の子供の頃の本当の茶碗蒸しが載っています。

 

●煮つけ

里芋や人参などの野菜は下茹でをして、味の無くなった薄ら甘い鰹節のだしの、舌に少しの味わいのきびも伝わらない、正に馬鹿の一つ覚えの味付けのものばかりです。まぁ、そういうところに行った時は他に食べるものがないから食べます。ただそれだけです。こんなもんだと分かっていながら身体から力が抜けます。自分では決して頼むことはありません。

 

私は仕事柄、お菓子作りの指導に全国あちこち行きます。どこに行ってもこれまで述べたような、表情のない料理ばかりです。もうどこに行っても食べる楽しみはありません。とにかく全国同じ表情、町もミニ東京。料理とその味わいもミニ東京なのです。東京に負けないようにもっと洗練しなければ、東京からのお客さんに恥じない味わいにしなければと、地方の特性を恥として取り除いて作られた味わいです。これほどまでに地域の様々の特性が失われ、均一化、画一化の慣徹された国は世界でも類が無いと思います。地域性がことごとく失われているということは、この国に住むほとんど全ての人間が個を奪われ、この国では日頃私達が口にしているビールや日本酒のように、私達自身も形式的な存在でしかなくなっているのです。

 

 

2)日本のフランス菓子と料理

 

東京にも実に多くのフランス菓子店とフレンチレストランがあります。しかし私の目と口にとって、「これはフランス的な味わいだ」と思えるようなところはどちらも12店しかありません。

フランスやヨーロッパに勉強に行ったパティスィエやキュイズィニエは河原の石ころほどに至る所に大勢います。なのにフランス的とは言えない旨くない菓子ばかりなのでしょう。それは彼らがフランスから味わいの多様性と多重性を全く理解しないで帰ってくるからです。彼らの多くにとっても渡仏の理由は、有名店のお菓子や料理のレシピを数多く集めることであり、どれだけの有名店にいたと自慢するための、ハクをつけるために行くだけだからです。既に述べたように、日本人の味わいの習慣の中には存在しない味わいの多様性と多重性を理解することは本当に難しい。この感覚を身につけることが出来るパティスィエやキュイズィニエは1000人に一人もいないでしょう。そして日本に帰ってくると、皿の盛り付けなど味わいと関係のない部分に力を注ぎこみます。味わいに注ぎ込むだけの豊かなイメージは少しも得られずに日本に帰ってくる。パティスィエもそうです。フランス的な味わいを身につけるためには途方もないエネルギーと苦しさが必要だと言うことを知り、すぐに身をひるがえし、味わいには何の価値ももたらさない見た目だけのきれいさに地道をあげます。

一つのお菓子や料理のレシピは、一つの出発点にすぎません。そのレシピをどんな考えで、どんな技術で、どんな思いで作るかによって、出来るお菓子はあまりにも大きく違ってきます。しかしほとんどの菓子屋にとって、レシピによって材料を量り、そこに混ぜればお菓子は出来ると思っています。また料理人はフランスの有名シェフの有名な料理の目に映る形だけをマネしようとします。舌で料理は作ろうとしません。これでは食べる人を感動する味わいは生まれません。

まぁ、フランスにもまともなフランス料理を作る人はドゥニ・リュッフェル以外はいないでしょう。皆、ミシュランなどのマスコミにすり寄るためのアクロバティックなものしか作れない。そんな質の悪い料理の表面だけをまねるから、日本ではもっと不味くなる。ミシュランの星が多くなれば料理は不味くなりますよ。(仁王ブログ参照)

 

とにかく多くのパティスリー、レストランを回って、レシピをかき集めることを天職とする「配合集めの虫」がたくさんいます。彼らには一生かかっても真のフランス的な味わいを作り出すことは出来ません。彼らには一生かかっても真のフランス的な味わいを作り出すことは出来ません。多くの方にイル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子には心を動かされるおいしさがあり、正に孤高の味わいであると多くの方に言われます。これは正に、一つのレシピを豊かな味のイメージの元に執拗に多様性と多重性をもってフランス的な味わいを実現しようとし常にあがき続けているからにほかなりません。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その5>

C)日本で作られるパン

 

1)日本人の国民的特性を象徴する日本のバゲットゥ

今、とりあえず、東京で作られているバゲットゥを見るたびに、日本人の無知ゆえの異常な国民性に、あまりにも情けない無力感にとらわれています。バゲットゥを切ってみると断面はすかすか穴だらけ、外側の皮だけがカリッとしていて中身は申し訳程度に繊維が走っていはいますが空洞に近い、歯には殆ど何も感じません。

まさに蜘蛛の巣です。間違いなく人間の食べるべき代物ではありません。まぁ、鯉の餌と言った方がよいでしょう。パン生地を細長く丸めて発酵させてバゲットゥは作られます。それを普通は二倍くらいに膨らませて焼き上げます。生地のしっかりした歯ごたえと味があります。ところが生地の量を少なくして細くして普通と同じ太さまで過剰に発酵させて中身を穴だらけのすかすかの状態にする。過剰発酵させれば粉が持っている旨味、栄養素もガス化して消え、味も香りも弱くなります。ただ外側の外のカリッとした歯触りと何も感じないほどの柔らかさ、このコントラストがおいしいという訳です。

ビールや清酒、焼酎と全く同じ考え方です。わざわざ手をかけ、無に近づける、そして食べる人をこれを正しいおいしいパンと皆が思いこむ。テレビなんかでは穴の空き具合を自慢している作り手もいると聞きました。そんなテレビを見て、日本人はそれが正しいものと思いこむ。

私のお菓子教室で生徒さんたちに「フランスではあんな蜘蛛の巣パンはありませんよ」というと、多くの人が、「ええーっ、あれがホントのバゲットゥじゃないんですか」と驚かれる。多くの日本人がフランスへお菓子やパンや料理の勉強に行っても、表面的に形だけしか覚える能力がないので日本に帰ってきてすぐに本当の味わいを忘れ、一度変な方向に走り出すともう止まらない。決して周囲に視線を向けることなく離れて自分を見つめることもなく、行きつくところまで突っ走る。まさに日本人なのです。

 

 

2)とにかく柔らかさが基本で全ての日本

フランスの技術指導を受けて店名を借りているパン屋さんも数多くあります。店に行ってみると、見た目だけはフランスのものと変わらない様々のパンが並んでいます。ても店内で感じるパンの匂いは、変に明るい、フランスのパン屋さんではもっと力のある五感にしみ込む匂いがします。でも形に釣られていくつか買ってみます。食べるといつも「やっぱりなぁ」で終わりです。中身はフランスの物とは大違い。とにかく柔らかい。匂い、味がありません。

「あ、うめぇ」と思ったことは一度もありません。

 

 

3)日本とフランスの味わいの習慣の違いを見る、フランスのパン・ドゥ・カンパーニュと日本のサンドイッチのパン

 

日本のサンドイッチのパン。あれも人間の食べるものではありません。気持ちの悪いすえたような発酵香、噛めば歯にまとわりつき、口の上にはりつく、ニチャニチャとした食感。もちろんパンは何の味もありません。まさに人間性喪失のパンです。でも100%に近い人が、サンドイッチのパンはただひたすらに柔らかくなければならないと考えています。

私の友人、フランス・パリの高名なパティスリー(菓子屋)のオーナーシェフが初めて日本に来た時にある方からカツサンドの差し入れがありました。彼は一口、口にしました。とたんにこれは何だと言わんばかりに目を白黒させました。次に出た言葉は「c’est trop bizarre(セ・トロ・ビザール)」これはとんでもなくおかしい、でした。これだけ旨さ目的に柔らかさを求める、柔らかさがおいしさの基本だと考えるのは世界で日本人だけだと私は思います。多くの国では柔らかさは逆に不味い不快なものなのです。

私はフランスへ行って、帰る前の日に必ずパリのプジョランという店に自分のためのお土産を買いに行きます。30cmもあるパン・ドゥ・カンパーニュ(田舎風のパン)です。この店のパンはとにかく旨い。店の入る手前から、五感全てに語りかけてくるちからのある匂いが出迎えてくれる。いろんなパンがある。昔はいろいろ食べた、本当に嬉しくなる旨さに満ちていた。とりあえず、パン・ドゥ・カンパーニュは必ず買う。「さぁ、日本でいっぱい食うぞ」かなり大きなパンなので、10日間はあります。勿論その頃はかなりかたくなります。でも酸味のある、ふくよかな香り、匂いをかいだだけで、五感が騒ぎ、嬉しくなる。噛む、しっかりした存在感のある、朴訥さそのものの、歯ざわり。そしていろんなものが豊かに共鳴しあっている味わい、「あーあ、んめー」私の身体の細胞が総立ちで歓喜の叫び声を挙げているのが分かる。私のぼろい歯では、ちょっと危ういかとおもうくらい、硬くなってもこの感覚は最後まで変わりません。そのうち必ず残りの23切れしかにあことに気づく時が来ます。突然、不安と悲しみが襲ってきます。「あーあ、もうねえんだ」体中から力が抜けます。

 

サンドイッチだからといって、パンが柔らかいほどおいしいのではありません。私のイル・プルー・シュル・ラ・セーヌの店では土日祝日にサンドイッチを出しています。小麦粉の外側のふすまを入れた全粒粉で生地を作り、硬めに焼き上げます。匂いも香りも歯ざわりもしっかりはっきりしたものになります。これにスペインからの本当に香り味わいの豊かなオリーブオイルとワインビネガーで作ったマヨネーズに、アボカドや他の素材を加えて作ります。マヨネーズ、具もしっかりした味わい、とんでもなく旨い。日本では他では絶対味わいえないおいしさです。

雨が降って、お客さんが少なく売れ残った時は喜んで買って帰ります。こころにしっかりとしむ、安堵感を感じる旨さです。イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのサンドイッチを食べずにサンドイッチは語らないでください。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その4>

B)日本のお菓子(和菓子)


(巷に溢れる和菓子も味わいの弱さ、希薄さ、印象の薄さを競い合う)

デパートなどで長い行列が出来る有名店の様々の和菓子。どれをとっても淡い歯ざわり、口どけ、弱いかすかな香り、そしてあるかないかの哀れな味わいのものばかりです。でも誰もがそれらが世界に類を見ない異常な食べ物群であることに気づいていません。上も下も、どこもかしこも、お菓子の素材からせっせと無意味な時間と労力とお金をかけて旨味成分と栄養成分を取り除いて寒々とした味わいを作っているのです。そしてテレビで有名人がどこのどれが旨いと言えば、そこに走り並びます。店構えが立派であれば、何も考えずにその店を選び、決して自分の意志と舌で選ぼうとはしません。いや、出来ないのです。

 

●饅頭

本当に久しく、旨い饅頭を食べていません。どれを食べ手も、味のしない滑らかさだけのあんこ。そして少しの粘りしか感じないあってもなくても同じような皮。お土産で頂いて心遣いに一つは頂いても、もう一つということは決してありません。巷では最上の物とされている馬鹿高い花園饅頭だろうが、全て同じです。最近行っていませんが、高尾山口駅の街道沿いのお土産屋さんの「高尾山饅頭」あれは本当に旨かった。あんこにはしっかりしたふくよかな力強い小豆の香りと味があり、皮も気取らず朴訥、あれは本当の饅頭だった。

 

●最中

これも甘さを抑え、舌ざわりを柔らかく抑えた物ばかり。あんが柔らかいものだから、それにバランスをとろうとこともあろうにパリッとした印象的な歯ざわりのない、間の抜けた柔らかい皮も出てくる始末。もっとガシッとした甘さと味わい、芯のあるカリッとした存在感のある歯ざわりの最中が懐かしい。

 

●草餅

餅も、ただただ柔らかく、滑らかに、あんこにも負けじと滑らかに淡く、薄い緑色で弱いよもぎの匂い。食べても心に何の思いも残りません。餅もただ柔らかくのびるだけでなく、もっとよもぎをたくさん入れて香り高く、歯ざわりもどっしりさせる。あんこも決して旨味を逃さず、どっしりした小豆の味を出してほしい。私の記憶の中の草餅は、幸せな味わいが来年の草餅の季節まで続くような味わいでした。

 

●桜餅

これも同じです。皮はより薄く、歯ざわりも弱めにそして水っぽいあん。塩漬けのサクラの木の葉っぱが無ければだれも桜餅なんて思いません。三月、やっぱり桜餅を食べたくなります。でも食べた後はやっぱり後悔。わざわざ食べるもんじゃなかったな。桜道明寺も全く同じです。ただただ水っぽく柔らかい、だらしなく柔らかい、ただそれだけです。一分もすれば全く味わいの記憶が消えてしまう憐れさです。桜餅だってむっちりしたもち米を硬めに炊いてしっかりした味わいのあんこを包めばそりゃおいしいですよ。

 

●黒糖かりんと

私の頭にある黒糖かりんとは、黒糖の有無を言わせぬ朴訥さと力に満ちた甘さ、歯とあごにガリンとした衝撃を感じ、それが脳天を突き抜ける。まさに悦楽の味わいです。今は甘さはお上品に控えめ、歯ざわりもただただしっかり膨らまし、間の抜けた軽めの物がほとんど。本当に淋しい。

 

●煎餅、おかき

カリンとガリンの中間ぐらいのしっかりした歯ざわりの煎餅はなくなりました。殆どすべてのものが、生地の中に野放図に空気を入れて焼き上げ、節操のない軽さだけの、歯ざわりに印象のぬけたものになってしまいました。そして、時には米を水にさらして味わいを抜いてしまったのかと思えるほどに真っ白で全く米の味のしない煎餅があります。甘ったるい醤油の味が全てです。

 

頭をひねってしまうのは、無意味に金をかけた豪奢な10cmほどの袋に、小さく作って何枚も入っているおかきです。お上品さの極み、シャリ、それでおしまい。情けない歯ざわり。こんなもん、食う意味があるんですかねぇ。おかきって、あのガリ、ゴリっとした歯ざわりが一番の旨さがあるんですけどねぇ。でもこんなもんを作る人も食べる人も、これが和の日本人の奥ゆかしい繊細さだと誰もが思っている。昔から続いている日本人の素晴らしい特性だと思っている。

おかき煎餅は誰にでも喜ばれて一番無難だと思われるのでしょう。お土産や差し入れには一番多く頂きます。お菓子教室の夕方の休憩時に、スタッフたちは喜んで食べています。私はよっぽど腹が空いた時に、たまにはと思って小さいのを一枚口に入れますが、もうそれ以上続きません。過剰な包装、もったいぶった上品極まりない歯ざわり、味、あまりにも空々しい。

 

●口にする意味のない水ようかん

みみっちいうすら甘さ以外にほとんど何の意味もない、少しの印象も残さず飲み下されていく水ようかん。私はあんなものを食べると暑い夏がもっと気が滅入ってしまいます。哀れにだらしない舌ざわり、味わいです。水ようかんだって、しっかりとした甘みと小豆の豊かな味わい、香りが感じられた方がずっとおいしいに決まっている。そしてこれを冷やしすぎずに15℃くらい、ほんのり冷たいくらいで食べるのが一番旨い。まさに身体に小豆の豊かな味わいが五感をそっと押し、涼しさを吹き込んでくれる、水ようかんてそういうもんです。歯もいらないくらい柔らかく、甘さはぐっと抑え、小豆の味わいは更にぐっと抑え、これを冷酒みたいにギンギンに冷やして食べる。これは食べることの嬉しさを知らない人にとっての、とにかく右へならえの味わいなんです。

 

●名古屋のういろう

よく「名物に旨いものなし」なんて言われましたが、私が菓子屋になった頃は全国に結構旨い土産菓子がありました。でも、全てがやはり時代の移り変わりと共に、日本的繊細さへと変化して行きました。中でも驚いたのは名古屋のういろうでした。もったりねっちりした餅の歯ざわり、暖かいふっくらとした味わいが大好きで名古屋へ行くと自分の楽しみも兼ねてよくういろうを買って帰りました。それが突然、形が崩れて包丁では切れないペースト状態に変わっていったのです。唖然としました。これもういろうの個性を取り去り、ただより多く売りましょうという資本の論理に心を売り渡したあさましい行為の果てだったのでしょう。

 

●地方の駄菓子

上生菓子はもらっても食べません。むなしい感覚しか残らないからです。でも駄菓子は大好きです。地方へ行って目に入ったなら必ず自分用のお土産に買ってきます。でも正直に言えば、やっぱりぼけた味わいなんです。「んめーなー」というのは、とても珍しい。でも上生菓子よりはずっとましですよ。意味不明なむなしさはとりあえず湧いてこない。でも駄菓子にもより歯触りを軽く、甘さを控えて、上品な味わいにしようという傾向はやはり強く見られます。

余裕が出来たら必ず、自分の感覚で日本の駄菓子に昔の味わいを取り戻したいです。「駄菓子」の「駄」は誰がつけたのでしょうか。今ではかえって素朴さと郷愁があってよい呼び名ですけれど、食の本質を考えれば、この「駄」は京上生菓子につけられるべきものだったと、私には思えます。

 

●カステラ

私は23歳で初めて熊本で菓子の道に入りました。そこは和洋菓子を作る店で、味ではカステラが焼かれていました。九州は和菓子屋さんではどこでもカステラを作ります。当時は日本の卵も今よりずっと味わいがふっくらと力強く豊かでした。これに上白糖と赤砂糖、味わいの豊かな麦芽糖の水あめなどを加え、甘みに工夫を凝らします。更に香りづけとして日本酒などを加えてその店独自の香り、歯ざわり、味わいを持ったカステラを作っていました。それぞれの店に個性的な味わいを作り上げていました。でも今巷に溢れているカステラは昔の物とは全く変わっていました。ただ機械的に甘さを抑え、ただただ柔らかく、優しい滑らかな歯ざわり、そして店によるあるかないかの小さな味わいの違い、より繊細に上品な味わいと感じられるように作り上げることだけを目標にしているのです。食べていて少しも心が動かないのです。

 

私は今年の四月、自分なりの昔カステラを作り出しました。目が飛び出るほど旨いと言われる方と、味わいに癖がありすぎると言われる方がおられます。でも、癖、つっかかり、雑味こそが、本来のおいしさを形作る要素なのです。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その3>

3)ビールと日本酒の三番煎じ、幼稚さの極みの焼酎

私の眼には、焼酎の分野は日本酒以上に様々の要素、香り、味わいを異常な執念をもって取り除いたものが乱立しています。飲み会など機会があって飲んだり頂いたりしたものを飲んでも、何にも、香りも味もありません。味、香りのない甲類、味、香りのある乙類のはずなんですが、乙類であっても、甲類アルコールと全く変わらない、のっぺらぼうな、少しの楽しさも嬉しさも感じさせてくれないものばかりです。原料は麦だろうがそばだろうが、黒糖だろうが、味わいは同じです。それぞれの原料のはっきりした味わいは感じられません。

私は23歳から4年間、熊本におり、球磨焼酎、そして薩摩の唐芋焼酎もかなり飲みました。球磨焼酎、五感が圧倒される米の力を感じさせる、意地のあるもっこす(頑固な肥後の人)の香り、舌にピッタリとすいつくような厚みのある味わい、本当に旨かったし、飲んでいて楽しかった。よく仕事や旅行で鹿児島に行けば、出てくるのは薩摩白波だけ。ふくよかな五感を包む暖かい香り、酒を飲むことのたまらない嬉しさを感じました。

今でも熊本へたまに行くと、何とか昔の球磨焼酎をと探しますが、もう不可能です。さつまいもの焼酎とて同じです。薩摩白波からはあのふくよかな匂いは消えました。それでも舌への味わいは他の焼酎よりはいくらかあるようです。原料が何でも、行きつくところは同じです。麦や米やソバ、芋の素材の栄養素、個性的な味わいを消し去り、誰もが飲みやすい、味わいのない味わいを裸の王様のための焼酎を作ろうと血眼になっています。何の要素もない、水とアルコールに近づけることのみが、馬鹿の一つ覚えの繊細さの極みと感じているのです。

 

4)日本産のワイン

勿論、そんなに多くの物を飲んだ訳ではありませんが、私は今まで日本のワインをおいしいと思ったことは一度もありません。それで今まで自分から飲もうとしたことはありません。まぁ、腹を立てないで何とか飲めるかといったものが一二度あっただけで、それには四つの理由があると思います。

a)ワインそのものが多様性に乏しい、つもり味わいが平坦で表情が無いのです。

b)日本酒のように雑味をとるためにろ過したワインが作られている。

c)保管状態が悪く気が抜けて水っぽくなっていた。

d)輸入ワインと同様に味わいそのものを完全に殺してしまう亜硫酸塩が添加されている。

 

a)このことはワイン製造者の方々も痛感されているらしく、フランス産の香り高いワインを何とか作ろうとしたが果たせなかったと言われていると聞いたことがあります。勿論、フランスなどとは気候、地質、そして棲息する微生物の種類も違います。同じ味わいのものを作ろうとするのは不可能であろうとも思います。しかしフランスのものまでとはなくとも、もっと五感に語りかける味わいは創り出せたのではないかと思います。

フランスのワインの味わいは正に多様性、多重性そのものの味わいです。さまざまな香り、さまざまの味わいの要素が深く厚く重なり合い、五感に語りかける燃えるような感覚を揺り動かします。( )Pで記したように様々の要素が一度に重なり合うと日本人の感覚は動転し、嫌悪感すら感じます。

しかし、日本にいるだけでは、あるいは外国に修業に行ったとしても、この多様性と多重性の感覚の理解は日本人にはとても難しいのです。私はフランスに二度、お菓子作りの研修に行きましたが、一度目では様々の要素が重なり合った力に満ちたお菓子はおいしいとは感じられず、むしろ強烈なまずさを感じました。しかし5年後、二回目の滞仏でようやくこの味わいを理解し始めました。そして多重性に富んだ味わいが理解できると、一回目でおいしいと思ったどちらかといえば印象の薄いものが、さらに物足りなくなってくるのです。また、日本のパティスィエは少し味の仕組みが分かり始めると、必ず100%の人が日本的な潜在意識に支配され、今まで何度も述べている様々の要素の欠落した何もない繊細さの味わいを作ろうとします。実は私も一回目のフランスでの研修の後に帰国してから作り出したお菓子は、正にこの繊細さに富んだフランス菓子でした。帰国して3年もすると自分は偽りのフランス菓子を作っているのではないかと思うようになり、5年後、二度目のフランス研修に臨んだのです。

b)ビールや日本酒と同じ発想のワインが作られる

a)で述べたように、日本のワインが今一つなのは味わいに様々の要素が希薄にしかないからなのです。しかし更にこの味わいからフィルターを通したり日本酒等と同じ方法により味、香りを抜きとった、いわゆる透明感のある味わいを作ろうとしているのです。しかし、このようなワインが人の五感に語りかけるような味わいになる訳がありません。

正に、香りも薄く短く、味も情けなく、私には飲める代物ではありません。しかしこのように無意味な手間をかけてわざわざワインをまずくしても、値段は高くしても、そしてこれをおいしいと思う人たちがいるのです。

◎ワインの多様性、多重性に富んだ味わいと日本酒の雑味

日本酒の杜氏さん達は、舌先に感じる味わいの流れの中に、少しでもつっかかるものがあれば雑味と感じて、これを取り除こうとします。しかし、良好な状態にあるワインの味わいの深く厚い広がりは、この雑味の集合体なのです。豊かで複雑な雑味が混沌として共鳴し合う味わいを作り出しているのです。しかし、このワインの雑味を取り除いてしまえば、それはもうワインではありません。哀れなデスマスクをつけた液体にすぎません。このように異常としか言いようのないワインが受け入れられることに、やはり日本という国民の特異性を強く感じてしまいます。

c)酒屋さんや売店などで長くほっぽっておかれたものは、ワインの気が抜けて水っぽい味わいになっていることがよくあります。

出荷してからの保存状態への配慮は輸入ワインと同様全く感じられません。売ってしまえばそれでおかまいなし、そんな風に思わせてしまうほど、更によくない状態に変質しています。

d)また日本でもほぼ全てのワインに防腐剤として亜硫酸塩が加えられています。もうワインの味わいは完全に破壊されています。亜硫酸塩が加えられたものは、日本のものも、フランスのものも、サンテミリオンだろうがブルゴーニュだろうがもう味わいに違いはありません。不自然で鈍重な酸味と渋み、舌の先がひんまがりそうです。これは亜硫酸塩の味です。人間の飲むべきものではありません。

◎国産のワインはおおむね、こんな状態にあると思います。でも蔵元によっては、そこに直接行けば亜硫酸塩の加えられていないワインもあるようです。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その2>

2)日本人の心と身体を無感動にする、傲慢な、命を失った日本酒

日本酒とて同じです。皆さんは日本酒を一口、口に含むと額の上あたりが軽くしめつけられ、一度に気がめいるような感覚を感じませんか? 私はこの感覚がどうしてくるのか分かりませんでした。しかしNHKプロフェッショナルで放映された「常きげん」の杜氏・農口氏の大吟醸酒造りのDVDを見て分かりました。その内容は不可解にすぎるものでした。ナレーターは「日本酒は米の味をとことん引き出さなければならない」と言います。でも米の味とは彼らにとって一体何なのでしょうか。大吟醸は米粒を7分削り取り、残り中心の3分の米粒で作ります。中心に行くほど澱粉の純度が高くなって、雑味のない味わいが出来るとのことです。でももうそれは米全体の、米の旨味味わいではありません。米の一部分の澱粉の味わいです。そしてこれをさらにフィルターにかけてろ過したりして、さらに米の味わいを抜いて彼らにとっての繊細さの極みの味わいを作ります。これがこれまでの私の理解でした。DVDの中で農口氏は「菌の味」を作り上げたいと言われました。私はこれにとても異様なものを感じました。つまり米らしさを取り除くことによって、菌のもつ味わいをより純度高く感じられるように作り上げるということなのです。ようやく理解しました。私は小学校に通う前から日本酒が大好きでした。戦後間もなく米なども未だ十分にある時代ではなく、米のもろみに工業用アルコール、水あめ、味の素などを加えて増量した三倍醸造法によって作られたいわゆるアル添酒でした。でも頭がしめつけられ滅入る感覚は少しも記憶にありません。楽しく、旨く、飲めました。学生の頃、猪苗代湖畔のボート番のアルバイト、当直で泊る近くの農家からの職員の方々のどぶろく(会津では白馬といいました)の旨い事、旨い事。楽しい感覚ばかりでした。そして今でも正月等に作るどぶろく、簡単に出来て本当に旨い。少しもあの気の滅入る感覚は感じられません。この不快な感覚は二つの理由によって作られるのでは無いかと思います。一つ目の理由は米の澱粉だけを使い、最後にフィルターをかけることによって、米の味わいを薄める、相対的に菌の持つ分泌物の割合が多くなる。二つ目はかつては麹によって米の澱粉を糖分(甘酒)に変え、これをアルコール発酵させるのは、その酒蔵に住みついている蔵つき酵母でした。勿論これらは何種類もの自然に生息する酵母菌です。しかしこの酵母菌数を人為的に23種に絞ると、その酵母が偏って頭を痛める成分が生成されるのではないかと思っています。

かなり前ですがそれまでの日本酒の香りとは全く異なる、一見するとふくよかさそのものの香りに、誰もが驚いた熊本9号酵母で作られた「香露」という酒はとりわけ頭が痛くなったのを覚えています。そして、この酵母はあちこちの酒に加え始められ、頭の痛くなる酒が多くなったことを感じました。

一種の菌の分泌物には人間の身体によいものも悪いものも含まれています。少数の酵母にすると、その悪い部分が増幅されてしまうと思います。多数の酵母が生成する多種類の成分、旨味が、酒そのものの味を豊かにし、よくない部分も少量でしかも相殺されるのでしょう。このような米の成分全体をあますところなく生かした本来の朗らかな味わいの酒は、メーカーによって作られたものでは私はここ何十年か口にした記憶がありません。

友人から頂いたにごり酒。一杯飲んだらもう駄目です。頭をしめつける不快感。もうなかなか飲む気が湧いてきません。小さな説明書きにこうあります。庄内産つや姫100%使用。精米歩合50%、使用酵母小川10号、M310。まさに思い上がった人間が手をかけ過ぎた不自然さそのものの味わいです。

酒の味わいの中から雑味をことごとく取り除くという今の日本酒製造の考え方は、ずっと飲み続ければ必ず飲む人の身体に不幸をもたらします。酒からは身体によい栄養成分が雑味としてことごとく取り除かれ、アルコールが無防備な細胞を襲うのですから。

 

(ギンギンに冷やして飲むことの不可解さ)

皆さんは勿論、冷酒をとりあえず20℃ほどで飲んだことはありますか? これくらいの温度だと、それなりに香り、甘み、味わいは感じられますよね。そしてこれをいつものように5℃以下に冷やして飲んでみる。もう20℃で感じた香り、甘み、味わいは1/10も感じませんね。冷たければ香りは勿論、立ちません。味わいもほんの少し感じるだけです。まさに苦痛な感覚以外の何物でもない舌先がしびれる感覚を押し殺すほどの冷たさが全ての味わいを隠してしまっています。おかしいとは思いませんか。何故、本来感じるべき香り、味わいを隠してしまって、不自然な全く別の味わいを、繊細さを探るような、もったいをつけた表情で飲まなければいけないのでしょう。全く違った表情になった、あるかないかの味わいをさも通ぶって飲まなければいけないのでしょう。一口で言えば、酒の味が不自然でうまくないから、それを隠して飲ませる、ただそれだけのことです。

最後にもう一度断言しますが、米を20%削ろうが、70%削ろうが、味わいなんてそう変わるもんじゃありません。聞き酒で30秒も口の中でぐちゃぐちゃやって、やっと分かるような違いを探し当てたって何の意味もありません。何の疑いもなく信じ込み、安請け合いする日本人特有の感覚なのです。酒も一番旨いのは、米は研がずに全部使ったものなんです。

 

(繊細さを勘違いしてはいけない)

米を70%も挽いて、酵母を12種選んで味も香りもしないように発酵させて、さらにフィルターにかけて味わいを希薄にする。酒の味わいから何でもかんでも雑味と称してどんどん取り除き、味わいを希薄にすることを雑味の取り除かれた繊細さと思い込んでいる。何もないことを繊細さの極みと思い込んでいる。彼らは本当の繊細さという意味を知りません。本当の酒の味わいの繊細さとは、味わいの中に香り、味わい、様々のものが混とんとしていて、混在している。その多様な要素のバランスのあり方の一つが本当の繊細さであることは彼らには理解できないでしょう。しかし、これは今の日本酒を作る杜氏の方々だけでなく、私のいる洋菓子の領域だって同じです。ボケた、意味不明の味わいが殆どです。勿論、私の店のお菓子には真の意味の繊細さが実現されています。是非、私共のお菓子を食べてみて頂きたい。今の日本酒の姿が舌の上にあぶり出されると思います。

 

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