エッセイ「生命からの搾取」より

第24回 私はもう決して、私たち日本人を豚並みに考えるイタリアから輸入された食材は本当にやむを得ない場合以外は口にしない

 今、イタリアのトリノでは冬季オリンピックが真っ盛りだというのに、とんでもない題をつけていると思われるでしょう。まぁ、怒るのは最後まで読んでからにして下さい。

 今回は冒頭から皆さんに私から1つ質問をさせてください。
 本当に日本人は、尊敬とまで言わなくても、世界で、この現代社会でまともな感覚と常識を持った国民だと思われていると思いますか。
誰もそう思われているとは自信を持って言えないと思います。隣国のアジアの国とは様々な軋轢が顕在化してきていますし、国と国、相互の理解し合うサイクル には、いつも自分から逃げているような後ろめたさが私たちの心にはあるはずです。でも、結構多くの人が、アジアでは若干非好意的な雰囲気の中にあるが、ア ジアを抜け出せば、その他の世界では、例えばヨーロッパではそれほどおかしい感情を私たちに対して彼らはもっていないんじゃないかと考えているような気が します。
国と国との表面的なつき合いでは、そんな風に見えるかも知れません。外交の儀礼上の配慮もなされますから。でも、民間レベルでは、特に日本人との接触の多 い領域にいる人たちは、決してそうは思っていないと思います。そして、ビジネスの領域では、別に外交上の儀礼のような配慮する必要は、少しもありません。 彼らは、自分達の実利優先という考え方に従って冷徹に行動します。つまり彼らは、今目の前にいる日本人は商売の中でどんなことをやったとしても、何も気づ きそうもない愚鈍さに満ちて、おまけにヨーロッパあるいは白人脅迫的崇拝感念にとらわれていると見ると、何でもえげつないことを平気で徹底してやってきま す。
簡単に言えば、あ、こいつは利口じゃない。何やっても分かりゃしないと、一度足元をみられると、したい放題のことをして、そしてその程度を極限までエスカレートしてきます。
 私のイルプルーラセーヌ企画では、独自に私が自らの足とそして舌で選んだヨーロッパの食材を輸入しています。このきっかけは、20年ほど前に遡ります。 私はフランス菓子の作り手です。もちろん、日本産の食材だけでは、フランス菓子を作ることはできません。冷凍ラズベリー、チョコレート、その他多くの製菓 材料がそれ以前から輸入されていました。しかし、年々その品質、味わいは落ちる一方なのです。当時既にほとんどのフランスから輸入される製菓材料は、フラ ンスで流通するものとは全く別な劣悪すぎる品質のものしかこの日本には入ってこなくなっていました。
フランスから輸入される製菓材料は、私が知っている限り90%以上が日本向けの手抜き製品なのです。取り引きの初めは、ちゃんとした品質のものを送ってき ます。そして様子を見ながら少しづつ、そして容赦なく品質を下げてきます。お菓子作りと同時に、食前酒やカクテルにも使われるオレンジのリキュールの有名 なグランマルニエ、コワントウローも例外ではありません。フランスのスーパーで売っているものと、日本に輸入されているものは全く別のものです。オレンジ の香りもくすんだ、そして弱すぎるただの砂糖水としか言いようのない代物なのです。お菓子作りの為の素材が悪いと、技術や考え方はより複雑に緻密になり、 作り手もそれに疲れ、そして食い手も本来お菓子には必要のない過度の緊張感がお菓子の中に生まれます。でもやっぱりよい素材で、私自身楽しい菓子作りをし たい。よし、自分で集めてしまおう。ただそれだけの動機でした。お菓子以外のフランスから輸入されるものもほとんどそうです。カルバドスが好きと言われる 方も、コニャックが好きと言う方も、これが日本向けの妙に薄っぺらな香りだけの水で薄めた、そしてキャメルで琥珀色をつけただけのものであることを知りま せん。皆さんは知らないでしょう。インスタントコーヒーまでが日本とヨーロッパでは全く別な品質なんです。日本で売られているネスカフェ、フランスで売ら れているものを一度飲めば、あまりのうまさと同時に腹立たしさで、もう飲む気にはなれないと思いました。彼らはすべからく、日本人なんて本当の味なんか分 かってない。どんどん品質と原価を下げれば下げるほどバカなあいつらには喜ばれる、そんな風にしかとらえられていないんです。でも、仕方がありません。ど んな劣悪なものを与えられても誰もその味わいの真贋を判断することができず、しかも一度も抗議の言葉を発しないのですから。いや、我々は日本人の満足する 最高の品質のものを提供していると自信をもって彼らに嘘ぶかれても仕方がありません。
 まぁ、情けないけど、くやしいけれど、私一人がギャアギャアわめいてもどうなるものでもない。


 品質の悪い素材で菓子や料理を作っても、とりあえず私たちの身体や心はダメージを受けないのだから、まぁしようがない。一つ一つのものの劣悪さをあげつらう、暇も根気も私にはないのですから。
 フランス人と同じく、私たちにおかしなものを送りつけてくるのは、イタリア人です。イタリアのオリーブオイルは大好きと言われる方は大勢おられます。で も殆どは薄い色合いの味わい香りの希薄なオリーブオイル。おいしさはありませんよ。他の大陸で作らせ、スペインのオリーブオイルをブレンドして味を調整し て日本に来るんです。イタリア産ではありません。他の国で作られイタリアを経由してくるだけなんです。ファッションでも、手袋なんかは殆ど他の国のものと のことです。洋服でも、他の国に作らせて、最後のボタン1個かけるとイタリア製としてよいという勝手な自国の法律の下で、堂々と情けない小金持の日本人は おちょくられています。でもまぁ、それでも私たちの身体を傷つけるほどのものでもないから、私が目くじらを立ててもしらけるだけかなとあきらめてはいま す。でも私は、自分だけがそんなものを手や口にしなければ他の人間はどうなっても構わないと考えられるほどエゴイスティックな人間ではないので自分にとっ ては困りものです。でも次のワインの件はこれをもう黙っている訳にはいきません。イタリア人は私たちの身体と精神を傷つける行為を平然とやり始めてきたの ですから。
 昨年のボジョレーヌーボー解禁の晩でした。私も浮かされ易い日本人の一人です。よし今日はボジョレーヌーボーを飲みに行こうということになりました。そ して、いつも行っている幾つかのレストランに電話しました。残念ながらどこもいっぱいでした。知り合いのイタリアンの料理の店にもしかしたら入っていない かなと思って電話してみました。イタリアンのレストランにボジョレーヌーボーを期待する。そもそもこれが滑稽な話だったのでしょう。でも結構置いてあると ころは他にあります。ボジョレーはないが、イタリアのヌーボーはあるとのことでした。よしそれでもいいから行こうということになりました。でも私はそれま で、イタリアンレストランからはかなり足が遠のいていました。というのは、明らかにイタリア産と言われるワインに、とんでもない量の防腐剤が入っていて、 3杯以上飲めば、翌日かなりの不調に陥るということは気づいていたからです。でも、ボジョレーヌーボーを飲み損ねたくやしさもあって、新酒なんだからそれ ほど多量に防腐剤は入っていないだろうと勝手に思い込み、そのレストランに行きました。テーブルについて料理の注文も終わり、さていよいよイタリア産ヌー ボーと言われるものが出てきました。私のグラスに一杯めが注がれました。手に取ってワインの色を見ました。確かにフランスのワインほどではないにしろ、少 し紫色がかっており、あぁヌーボーの色かなと思いました。グラスを口に運び、匂いをかぎました。殆どワインの香りが立ちのぼりません。匂いがないのです。 私はとても悪い予感に襲われました。こういう経験は今まで何度もしています。恐る恐る口にワインを少し流し込みました。「ありゃ、こりゃまいった」舌を押 し返すような固い舌ざわりです。たちまち舌は少ししびれたような感覚に襲われました。皆さんの中には胃カメラを飲まれた方がおられると思います。カメラを 入れる前にのどをしびれさせる為に、口の奥に注入されるあの薬です。あの軽いしびれた感覚です。これには今まで経験したこともない大量の強烈は防腐剤が 入っています。他の者も、このワインの異常さに気づいたようです。私はどうしようかと思いました。これは飲めないと言うべきなのか、でもそこは料理に関し ては一生懸命作られているところなので、気が弱い私は結局言えませんでした。しようがないと思って飲み始めました。他の者も明らかに飲みたがっていませ ん。少しも量が減りません。今までそこではワインを残したことなんてありませんから、残す訳にもいかず、喉につかえたものを押し殺しながら、少しづつ飲み ました。そして私が2/3以上を飲みました。
良い状態のワインは2、3本飲んでも、食べ物が良ければ、私は二日酔いはしません。普通は1本の2/3の量は私にとって次の日に悪酔いが残る量ではありません。
 翌日、そしてその次の日も、今まで全く経験したことのない悲惨な事になりました。朝、目がさめます。頭と身体がだらーんと重い。でも二日酔いの胃のムカ つき、吐き気がして、目が見えず、頭がグルグル回る、あのキツさではない。舌が、正しく胃カメラの前の麻痺薬の時と同じように、かなりしびれている。強烈 な防腐剤の作用により喉仏は、どうしようなく痛い。ここのところ疲れもなく、体調は良く、一夜で風邪をひいて喉をやられるなんてあり得ない。どうしようも なく身体が重く、頭が重く、だんだん、だんだん下へ垂れ下がっていくようだ。ムカつきは少しもない。でも身体全体と頭が重くとても不快だ。何も考える気 も、行動を起こそうという気も全くならない。そうだ、以前心臓を手術して、全身麻酔が切れた時のあの感覚だ。いったいどうしたらいいんだ。こんな状態が夜 寝るまで続きました。どうしようもない重さは抜けましたが、更に翌日も、身体の心と精神の芯が完全に眠っている。何かをやらなければと思っても、思考が少 しも前に進まない。頭の芯は重く、イライラする鈍痛が出てきた。もう二度とイタリアから来るワインは飲まないぞと決めました。それくらい強烈なダメージで した。
 でも、どうして正に身体をむしばむほどのあれだけに多量の防腐剤を加えなければならないのか。考えられる理由は二つです。あのイタリアヌーボーは私が飲 んだ時から一年前にできたヌーボーではなかったのかということです。フランスのヌーボーにも、既にワインの色が黒ずんだ一年前の売れ残ったやつじゃないか と思うものが紛れ込んでいることがよくありますよ。まぁ、昨年とれた売れ残ったワインに防腐剤をたっぷり入れておけば、そこでワインの発酵による熟成はほ ぼ止まるか、かなりゆるやかになりますから、鮮やかな新酒の色は残ります。でも味わいは固く、香りも固すぎるもののほんの少し感じられるほどです。そして もう一つは、他の国で作らせたワインを一度イタリアに運び、それを又日本に運ぶ為に、より長い輸送の間でワインが変化しにくいように、多量の防腐剤を加え ているのかも知れません。あるいは、去年他の国で取れたワインに多量の防腐剤をぶちこんで、今年までおいて、そしてそれをイタリアを通して日本に運んだの かも知れません。今年度産のワインを日本に持ってくるのに、ただでさえ多量の防腐剤以上の量を加える必要はないと思うのです。
 それにしても、やはり割り切れないことが他にもあります。イタリアのヌーボーは、フランスのものより1週間はやく解禁になるとの事ですが、それを飛行機 で空輸しているのでしょうか。それとも船で運んでいるのでしょうか。船だとしたら、イタリアで搾り取ったワインを発酵させてビンにつめて、船便でフランス 産のヌーボーより早く日本に届けることができるのでしょうか。というのは、ワインに少しも空輸による香り、色、味わいの変化が見られなかったのです。深く どっしりとした味わいがありました。
私たちが日本で飲む空輸されたヌーボーは、かなり色が薄く透明感がでています。香りも味もむしろフルーティというか、水っぽい味わいが出てきます。フランスで飲むヌーボーとはかなり違います。フランスのものはもっと色あい香り味わいは深く、もっとずっとおいしい。
以前、こんな実験をしたことがあります。同じワインをフランスから日本に持ち帰る時に、2本は機内持ち込み、2本は手荷物で出す。そして日本に帰ってか ら、半月ほど休ませて飲みます。手荷物で出したワインは、上空で-40℃の冷気に長時間さらされて、ワインのボディーは著しく破壊されてしまいます。そし てあの私たちがフルーティーな味わいと思っているワインに劣化してしまうんです。むしろ、解禁から一ヶ月ほど遅れてくるヌーボーのほうが、かなりフランス で飲むものに近く、味わいも深くおいしいものになっています。でも、このイタリアのヌーボーには、上空-40℃で傷んだという様子もない。まぁ、少なくと もイタリア産のものでも、昨年穫れたブドウで作ったものではないかと思います。まぁ彼らとしては、いつもの様にアホな日本に対して、いつもの感覚でやった ことなのでしょうが、これは許せませんよ。私たちの身体と精神を蝕むものを、平然と送りつけてきたのですから。
でも、イタリア人に限らずフランス人の中にも、少なくない人たちが日本人はブタと変わりはないと思っていることは間違いないと思います。同じ人間と考えて いるなら、人間の身体と心を傷つけるようなものは、例え相手が無知だからと言ってヌケヌケと送りつけてくるはずはありません。
 まぁ、彼らが私たちをブタとそう変わりはないと考えていることを伺わせるようなこんな例があります。
 フランスから輸入される、製菓用の栗の製品は本当にまずい。でもフランスで流通しているものは、本当に香り高くとてもおいしい。どうしてこんなにまずく 作ることができるのだろうと思うほど、日本に来るものはまずい。前述の理由で私は、自分の足と舌で、おいしい栗製品を探すためにスペインのガルシア地方の ある大きなメーカーに行きました。そして工場を見学しました。かなりの量産で、最後に製品にならないくず栗がかなり出ます。これはどうするのかと聞いたら 「ブタのエサ」にするとのことでした。へぇと思いました。
さて事務所で商談です。少ししてフランスのアンベールという栗製品の会社から電話が入りました。私たちにどうしようもなくまずい栗製品を供給している会社 です。スペイン人の社長は満足そうに言いました。今、アンベール社からくず栗の大きな注文が入った。私たち日本人は顔を見合わせた。あとは何とも表現し難 い感情が湧いてきて、私は下を向いてしまいました。そう、私たちはブタ並みなんです。
 国によってもちろん日本人観は異なるでしょう。フランスでもブルゴーニュの山(私たちの感覚からすれば)あいに住む、リキュールのサプライーヤは土着の 農民で、とても親切でいつも私たちを心から迎えてくれます。しかし、少なくないフランスやイタリアの人たちは、私たちを自分たちとは同列に加え難い連中と 考えていることは確かです。でも、仕方がありません。何をいわれても何をされても自分自身で判断することができず。子供じみた白人崇拝主義に凝り固まって いるのですから。
 まぁついでですが、昨年のボージョレヌーボー、フランス人があおりたてる稀に見るおいしさだなんて言うのは全くの嘘でしたね。数種類は飲みましたが、
ボージョレーヌーボーの帝王様のものも、すべて一昨年以上にまずいものばかりでした。殆どが濁っていました。船で一ヶ月もかけて運べば色あいは黒ずむので すが、ヌーボーはあれほどではない。どうもどうしても解りにくいことがどんどん増えています。例年のようにおいしかったのは、ある旅行会社からここ何年か 毎年頂いているエールフランスが、フランス大使館用に取り寄せるものだけでした。そんなものなんです。
でも、このワインの中に体調を壊すほどの多量の防腐剤を加えるということは、日本にワインを輸出する国々はすぐに真似てきます。もう誰もが、日本の高温多 湿の腐敗菌が多く棲息する環境では、短時間でワインがヨーローッパでは考えられない腐敗異常醗酵をするということは理解していますから。それを防ぐ為にフ ランス産のワインにも、日本向けのものにはより多量の防腐剤が加えられるでしょう。日本人は豚並みだと広言するに等しいふざけた行為を、堂々と平然とやっ てきたイタリアに私は強い憤りを持ちます。以後、やむなくという以外は、自称イタリア産の産物は私は決して口にしません。

(2006.3.15記)

第23回 日本で唯一ビールの味のするビール

 昨年の三月頃、近くのあまり流 行っていないスーパーの見ただけで回転が悪いと分かる冷蔵ショーケースの中に、「銀河高原ビール」という、もっともらしい子供だましのようなネーミングの ビールを偶然見つけました。この会社のビールにも、何種類かのビールがあることを分かったのは後のことですが、その時は「白ビール」という表記に惹かれて 買いました。ベルギーの白ビールは本当にうまい。人なつっこい酸味がつくるうまさが、口に語りかける。一杯飲めば、何とも言えない安心感に満ちた満足が、 身体と心に満ちてくる。
      
 アサヒのスーパードライをはじめ日本のメーカーのビールは、飲んで気分がシラケるものばかりだ。ちょっとした味の違いや、本当にアホな日本人を全く子供 だまし以外の何ものでもないネーミングで煙にまいて、もっともらしさを作り上げる、そんなビールばかりである。最近はまたとんでもないアホの極みのビール が、サントリーから出たようだ。飲んだこともないし、飲んでみる必要もない。飲んだ途端に味わいが消える、“超切れ味の良いビール”何だそりゃ。そして、 雨後の竹の子のように、あちこちに出来た地ビール。頂いたりして、それなりの数を飲みましたが、どれもクソまずい。どのビールも「切れ味」にこだわってい る。折角豊かに醸し出された味わいを、「切れ味」を出すため取り除いてしまう。だから、どのビールもシラケた味わいになってしまう。この日本では例えドイ ツ人がつくっても、やっぱりつまらない味わいになってしまう。

      

  今までのこのような経験で、当然私は銀河高原ビールもそんな類のものでしかないと思いつつも、「まぁ少しでも白ビールのニオイでもすりゃイイカ」てな具合 で、以前飲んだ白ビールへの懐かしさ故に買ったのでした。そして、家で飲んだ。「オコリャ、飲めるわ。そんなひどくはねぇわ」。ともあれ、白ビールの味わ いはあるし、香りもある。何より日本のビールの、口に入れてから尻切れトンボの味わいではない。味わい、香りが切れないでずっとのびる。「へぇ、日本にも こんなビールあったんだ」私は少し嬉しくなりました。

      

  次は、仕事からの帰りに、駅の途中の酒屋で「銀河高原ビール」を買いました。白ビールと苦みのピルスの二種類があったので、全部2本づつ買いました。そし てギネスのエクストラです。私はそれまで、ビールは最近はこのギネスのエクストラしか日本では殆ど買ったことがありませんでした。久しぶりにそれ以外の ビールを買いました。この酒屋は割合回転がよく、ギネスがうまい。もともとギネスなんてあまり買う人がいないと思います。殆ど動かないところもあると思い ますし、そういうところで買った古いギネスは全然おいしくない。

       

家で早速白ビールを飲みました。うまい。1回目の、流行っていないスーパーのものよりずっとおいしかった。嬉しくなって、他の2種も続けて飲みました。うまい。

       

他の2種類は似たような味わいで、その点では物足りないけど、やはりうまい。

       

それ以来、私の冷蔵庫には忘れた時以外には、いつも銀河高原ビールがあり、時によって気分によって、ギネスと飲み分けています。暑い時などは、まず爽やかな銀河高原ビール。そしてその後に、味わいの更にしっかりしたギネスといった具合です。

      

 本当においしいビールは、喉がかわいた時でも、2本 も飲めば充分に身も心も満足します。今はガブ飲みをすることはありません。以前は味わいの希薄な日本のビールを、私もただただ謂れのない激しい惰性でガブ 飲みしていました。アサヒのスーパードライはおいしいから何杯でも飲めるのではありません。トリックなんです。いくら飲んでも飲んだという実感が、心と身 体に少しも残らないから、ビールの味わいを求めてまたむなしく慌てて口に流し込むのです。(詳しくは「破滅の淵の裸の王様」を読んで下さい)このとんでも ないビールの出現で、現におかしくなりかけていた日本人の食の領域は更に一気に加速し、異常な空間につきすすんできたのですが。

      

  日本でも、銀河高原ビールのような味わいのしっかりしたビールが主流になったとしたら、本当に楽しいでしょうね。そういえば、新聞でこの会社はあちこち手 を広げすぎて、倒産したってありましたけど、もう一回地道にやり直して欲しいですね。そして決して、他のメーカーの同じような味わいには変えないで欲し い。私共のフランス菓子の店「イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」も、味わいを守るために決して支店を出さずにやっています。それでもたった1つの店での 不本意なお菓子がちょくちょく店頭に並びます。手を広げれば広げるほど、本当のおいしさからは遠ざかってしまいます。       

ま、これは実に当たり前の道理です。

      

本当に頑張って欲しいです。

(2006.2.15記)


第22回 初めての韓国

九月下旬、私は初めて韓国を訪れ ました。私共イル・プルー・シュル・ラ・セーヌの菓子教室の師範に韓国の方がおられ、日本以外の国にも私共のお菓子の作り方、考え方を知って頂くために、 現地の人の目の前でデモンストレーションをすることが、この韓国滞在の主な目的でした。つまり何かを教えるという意識が私の心の中にありました。しかし、 これは全く思い上がった考えであったと思います。教えられるべき者は日本人の私だったのです。

      

一言で言います。何を食べてもとてつもなくおいしかった。そして私が感じたそのおいしさは、私の心と身体が必要としているものが豊かに充分含まれている食べ物に対する満足の感覚だったように思えます。

      

私共イル・プルーの菓子・料理教室主任の椎名は、やはりお菓子作りのデモンストレーションの為に、3度 韓国に行きました。韓国に行く日本の女性の多くは、ソウルの生活用品の市場で、安くヨーロッパのブランド品を買うのが大きな目的の一つであるという。彼女 は、野菜等の生鮮食料品の市場へ行って、旬の野菜を買い込み、トランクにギュウギュウ詰めにして税関をすり抜けて持ってきます。本当の野菜、韓国の料理、 食材を私達イル・プルーの者に伝えようと。そして彼女の帰国の夜か翌夕、教室・パティスリー・その他総務30名 ほどが集まり、韓国の食をこの地日本で味わいます。それはとても大きな楽しみであり、嬉しく幸せな、年に一度の行事でした。腐らないように冷凍して持って きた様々なチヂミ、サムゲタン、エゴマの葉、その他様々なサラダ菜、お土産にわざわざ前日に作って頂いたキムチ、本当においしい。言葉もなく食べ続ける。 厚くて、しっかりした歯ざわりと豊かな味、香りのあるサラダ菜、どうしてこんなにおいしいんだろう。ただただ嬉しさの連続の中で口が動く。ひとりでに目は まん丸く、誰もが善人の顔に変わっている。でも、チヂミやサムゲタン、当たり前なのですが韓国のその場で食べた料理は、もっともっとおいしかった。日本で つけるコチジャンは、野菜の鮮度、味わいの希薄さから変に甘く感じるが、韓国の素材につけて食べれば、少しの違和感もなく完全に調和している。何もこんな にあせって食べなくてもと思っても、口の動きが身体が待ってくれない。

      

朝、 昼、晩、連れて行ってもらったところ全てで食べた食べた。急に食べ急いだので、二日目の夜にはお腹の調子が悪くなったが、それでも食べることをやめること は出来ませんでした。いくらでも素直に入ってしまいます。味わいが自然なんです。日本で食べる焼き肉や一部の料理は、日本料理と同じに、時にはそれ以上に 甘い。とんでもなく甘い。でも韓国では、それも砂糖をたっぷり加えた不自然な甘みは、私が行ったところの限りではありませんでした。甘みのある味わいは、 コチジャンと他のタレ一つくらいでした。

      

三 泊四日の間に、様々なものを食べさせてもらいました。どれも本当に自然な味わいのものばかりでした。でも私は、焼き肉は食べて確かめてみたいけれど、出来 るならば食べたくはありませんでした。何故なら、もし日本でのように気違いじみた甘さの極みの焼き肉が出てきたらどうしようと考えれば、自分から食べたい とは思いませんでした。日本ほどの甘さはなくても、それほどは変わらないだろうと勝手に思っていました。日本へ帰る最後の日の昼食、ソウルで一番人気のあ る焼肉屋さんへ案内されました。どんな味付けなんだろう。食べるまでとても落ち着かない時間が続きました。でもでも、全てが運ばれてきて、肉が焼かれて、 食べ方を教わりました。サンチュウの葉一枚の上にエゴマの葉をちぎって乗せ、焼けた肉を一つ挟み、異なる味付けの野菜を少しのせました。その上にコチジャ ンを箸でとって乗せ、葉を巻いて一つ全部を口に入れました。

      

ん〜ん〜ん〜ん〜ん〜ん〜ん〜ん〜ん〜。んめえ。

      

思わず会津弁が出ました。これこそ感極まって出る本当のおいしさに対する共感なのです。

      

ナンダナンダナンダ!!全然違うんじゃねぇか。

      

んめー。ふんとに(本当に)自然な味わいだー。

      

4つ、殆ど自分が一つ食べてしまいました。サラダ菜のお替わり34回でした。水キムチその他もかなりお替わりしました。

      

そ して最後に、信じられない程に強烈な興味を持っていた冷麺です。日本で食べる訳のわからない噛んでも噛んでも噛み切れない、得体の知れない味わいの単純化 の極みの冷麺は、こっちがお金を貰っても絶対食べたくない代物です。でも、絶対頼んではいけないと固く心に誓っていても、何かのはずみで食べなくてはなら なくなった時はもう、心はとてもみじめです。麺を口に入れ、何とか噛み切ろうともがいて、結局やっぱり駄目で、そのまんまの長さで飲み込むはめになった時 は、私はとてつもない不条理な感情に押しつぶされます。何の因果でこんな変なものが食べ物の範中に紛れ込んだのでしょう。

      

韓 国には太くて柔らかい麺と、細くてシコシコの麺があるとの事。私は敢えてシコシコを選びました。「あぁ、やっぱりシコシコの歯ざわりのものはあるんだ。」 噛み切れるのかなぁ、という感じでした。出てきたものは、私の想像以上に本当に細い麺でした。一つにしっかりとまとめてあります。これを鋏で短く2度切りました。そして、私のお椀に盛って頂きました。そして口に入れました。全く初めての食感でした。細い麺が口中に小さくザクザクザクという歯ざわりと共に溢れます。

      

確かに、かなりシコシコしてすぐには噛み切れないが、噛み切れるものもある。麺が細いので、汁がいっぱい浸かって口に入る。麺の味わいと静かに競い合いながら、確かな食べたという感覚を残し、噛み下されます。初めてなのでまだ充分においしさは解らないが、おいしいです。

      

何 で麺があれだけ細くなったんでしょうか。もともとは夏の麺で、食欲がない場合には日本の素麺のように細い方が喉ごしが良いからなのでしょうか。細くして麺 が切れないようにする為に、切れないコシを与える必要があるからでしょうか。でも素麺よりも滑らかな舌触り喉ごしでした。でも何度か食べないと、本当のお いしさは解らないかもしれません。

      

で も、小さく砕いた氷がいっぱい入っていたのは残念でした。以前は韓国では冷蔵庫もなく氷もなかったはず。以前の本当の食べ方で食べてみたかったです。ベト ナムへ行った社員が、氷と共にジューサーにかけたフルーツジュースを沢山飲むと言っていましたが、氷が入ったのでは、本当においしいフルーツがもったいな いと思います。冷たすぎれば、味も香りも立たなくなります。まして氷の粒がいっぱいあれば、口の神経は全てそっちに行って、ジュースや麺の味は解りませ ん。アジア各国でも、経済の発展と共に本来の食のあり方が、少しづつ浸食されているのでしょうか。

      

本当に何を食べてもおしいかったです。

      

そ して、こんなに身体が必要としているおいしさに満ちた食べ物は、それを食べる人達を必ず健康に自然に育てます。韓国の人は何よりも骨格が力強く、充分に発 達しています。顔も日本人の若い同世代の人達よりも、顔がゆったりと大きく生長しています。日本人の顔は若いほどアゴが細く、顔が縮んで貧相に仕上がって います。よく日本で言われるように、日本人は柔らかいものを食べるようになったからアゴが細くなったのではありませんよ。食べ物に充分な微量栄養素がない から、骨格が充分に発達できずに、未成熟のまま固定してしまったのです。勿論そんな子の歯の密度は低く、歯医者でもあっという間に削れてしまう。

      

そして、韓国の人の脚は真っすぐに伸びています。骨も太く、由に脚もしっかりした太さがあり、バランス良く伸びてとても綺麗です。でも、日本の若い女性の多くは充分な骨の太さがなく、密度も低く体重の重さに負けて、軽くO脚 がかかっています。とても貧相な脚です。タイの人達の脚もしっかりと地に立った美しさがありました。逞しさとともに長く伸びてバランスの良い綺麗な脚でし た。身体の感じもしっかりとしまっています。日本人は正座するから脚が曲がると言われているそうですが、そうではありません。正座が苦手の私より、ずっと 若い人達が自然に正座されていました。日本人の女性は何となくプヨプヨとした水と脂肪だけのような感じです。

      

師範の方のご主人とサウナに行きました。私より幾つかお若いのですが、身体は本当に締まっていました。力に溢れていました。

      

私の友人に学生の時にラグビーをしていて、韓国の大学と交流試合をしました。スクラムを組むと、筋肉の質が全く違って、彼らのはとても固くて、痛くて、当たったその時から勝つ気がしなかったという話を聞いたことがあります。

      

勿論、微量栄養素の乏しい食べ物を食べる国民はスタミナはありません。日本・韓国の共同開催のサッカーのワールドカップで、韓国がとても素晴らしい活躍をしました。そして、韓国チームのキャプテンの洪明甫(ホン・ミョンボ)は日本チームはスタミナがなかったから勝ち進めなかったと言いました。

      

ドーハの悲劇=最後の土壇場でひっくり返される。ゲームの終盤では、疲労の極みにあり殆ど虚脱状態であったのでしょう。最近の日本チームの活躍。ジーコ監督は、食べ物も立て直したのでしょうか。

      

もう日本人は、国技の相撲でも脇役でしかなくなりました。仕方ありません。みずっぽい脂肪だけの筋肉ですから力も出ませんし、すぐにガタがきます。

      

又、 今回は機会がなく地下鉄の電車に乗る事は出来ませんでしたが、日本で何人かの方に聞いた話では、韓国では、お年寄りは電車の中でもすぐに席を譲られ、とて も大事にされると聞きます。日本のような目の前にお年寄りがいようが妊婦がいようが知らんぷりの人が、殆どいないということをこの目で確かめたかったので す。

      

韓 国は儒教や徴兵制の影響で、目上の人やお年寄りを大事にすると聞きます。しかし、その習慣を維持するだけの体力があるから精神力も維持されるのだと思いま す。日本の人達は、何が良くて何が悪いのかを考えるだけの体力もないのです。まして、疲れている時でも自分より弱い人達の為に席を立つ体力などあるはずが ありません。

      

私が泊まったホテルには、日本人の団体の観光客が大勢いました。

      

朝 バスでどこかへ出かける時に、何かを忘れたのでしょうか、トイレにでも戻ったのでしょうか。四人ほどの若い女性がホテルの中を大きな嬌声を上げながら、日 本人の得意のガチャンバッタンのサンダルを響かせながら、幼稚園の運動会での一コマのごとく走っていく様は、正に臆面もなく自らの幼稚さをあたりいっぱい に振りまいているといった光景でした。

      

帰 りの空港での待合室。まだ大分出発まで時間があり、一番窓際のイスに座りました。少しして、気の優しそうなめがねをかけた中年の女性が私の隣に座りまし た。そして、脚をピンと伸ばして、目の前の窓からのびている台の腰板に、ズックをベタッとつけて目をつむりました。土足をつければ当然そこは汚れます。そ んな事は誰でも解ります。よく考えなければならないのは、この女性はパリのシャルル・ドゥゴール空港でしたら、同じ事をしたでしょうか。いえ、有難い白人 様の、しかも花の都のフランス・パリでしたら、そんな事はもったいなくてできはしません。でも気の弱そうな臆病そうな女性でも韓国ではしてしまう。これは おかしい。韓国では同じアジア人同士の気易さからなのでしょうか。いえ、そうではありません。心の底にある一種のさげすみの気持ちから起った行動だと私は 思います。

      

私 は思わず言ってしまいました。「そういう見苦しいマネはしない方がいいんじゃないですか」女性はパッと目を開いて、私に向かって「すみません、すみませ ん」と二、三度連発しました。これもおかしい。日本人の私に謝るものでもないでしょう。そして、床にひざまづいてハンケチを出して、ズックの汚れを拭き始 めました。私は思わず深いため息をついてしまいました。

      

この女性は、私の一言で、自分のしている事がとがめられていると気がついていたのですから、本当は良くない事だと理解していた。しかし、韓国だから構わない。そういう意識があった事は間違いありません。

      

嬌声を上げながらホテルの中をガッチャンバッタンのサンダルで走り回る娘さん達にしても同様です。果たしてフランスのホテルで同じ事をするでしょうか。

      

でも、今の日本人はしないという保証はありません。何しろ、オルセイ美術館にも、あのアホの極みのサンダルを履いて現れるのですから。

      

今、問題になっている小泉首相の靖国神社参拝に賛成という人達が上げる理由の一つ、「他国に何も言われる必要はない」という他国は、韓国と中国であり、これらの国に対して、今指摘した感情が私達日本人の心の底にあるからではないでしょうか。

(2005.10.24記)

第21回 何でもある日本。でも何でも中途半端な日本。

今年もドゥニ・リュッフェルは日本に来て、フランス料理とフランス菓子の技術講習をしました。
      彼 は、フランス・パリの高名なパティスリー(菓子店)のオーナーであり、今年54歳になりますが現役のシェフです。足腰が立たなくならない限り、何歳までで も料理菓子を作り続けるという、かつてのフランスの正当な伝統の中に育った、最後の現役の巨大なパティスィエ・キュイズィニエ(料理人)です。
      彼はキュイズインヌ・クラシックの作り手としての自分に誇りを持っています。クラシックは古典、あるいは昔あったものと言う意味ではありません。昔からあり、そして今も広く流布しているものという意味です。
      彼 は、それぞれの地域に以前から存在している伝統的な料理を、彼の視点で正しく認識し作り続けています。これらの料理は長い年月の中で先人が作り上げてき た、その土地土地の産物を基礎にしたその土地の人々の心と身体の健康の為の料理なのです。決して時代時代の雰囲気によって左右されないで来た、真の価値観 を含んだ食べ物なのです。

      

彼はこのような料理を作る事によって、フランス人が守り続けてきた、食べ物と生き方の本来の意味を頑なに守り続けようとしています。

      

人の心と身体の為の料理、食材、食べ物は、この日本にはとても限られたあまりにも小さな範囲にしか存在しません。そしてそれを享受できる人々も、あまりにも少数の人に限られています。そしてそれが様々の疾病不幸を生んでいます

      

食の領域で、あまりにも真実の欠落してしまったこの国に、彼の、心と身体の健康の為の真実の料理を根づかせることは出来ないかというのが10 年前彼の料理技術講習会をこの日本で始めた動機でした。しかし、初めは全く誰にも相手にされませんでした。何故なら、マスコミにとって、そしてマスコミに よって毒された奇をてらうことに料理の中心を置こうとする日本のフレンチの料理の作り手には、彼の料理は古くさく今さら客を呼べるようなものではないつま らない料理だったからです。
      
      
マスコミは、料理にアクロバット的な要素を求めます。そして、本来の料理を忘れた、マスコミの為の面白おかしい料理がこの国に充満してきました。そして人々は、日々の家庭での料理にまで、この面白おかしさを求めるようになり、日本の食は著しくただれてきました。

      

長い時間が必要でしたが、今ようやく少ない人々が、彼の作る料理に視線を向け始めています。

      

で も彼の食、料理への考え方を、正しくこの日本で再現する為には、素材の点でも多くの困難があるのです。特に料理講習会開始の頃は、それは絶望的になるほど でした。そして、彼の本来のフランス料理を出来るだけ正確に再現しようともがく中で、いかに日本の素材が荒廃しているかを改めて認識することになったので す。ここでは、その中の主なものを記してみようと思います。

      

ま ず日本の農産物、畜産物、乳製品はどうしようもなく味が薄いか、全く無いものが殆どです。日本に住む大多数の人達は、この異常な農産物しか口にする機会が ないのですから、私の言う事に疑問を持ったとしても当たり前です。でも、本当に味わいがありません。料理の味わいが成り立ち得ないのです。最近は少し味わ いのあるトマトが手に入るようになりましたが、10年前料理の講習会の初めのころは、築地中を捜しても味のあるトマトはありませんでした。

      

フランス料理では、じゃがいもをよく使いますが、今年も味のないものばかりでした。地方の農家、あるいは質の高い食材を看板にしているところも含めて、十カ所近く取り寄せましたが、本当においしいものは一つもありませんでした。

      

人参は、今年は3カ所ほど良いものがありましたが、例年は、歯触りゴリゴリの、味わい、香りの薄いものばかりでした。フランス料理のfond(出 汁)には、セロリを使いますが、味も香りもしない形だけのセロリしか、この日本にはないと思っていました。本当にあちこち探しましたが、長年見つけること が出来ませんでした。やっと去年、セロリらしい味わいのものを1つだけ見つけることができました。他は本当に加えても加えなくても同じようなものばかりな のです。
      
      
ナスにしても、スカスカの味のしないものばかりです。10ヶ所近く取って、そこで一番ましなものを選びます。「しょうがない」そんな気持ちでしか選べないのです。

      

日本のほうれん草では、渋いやら、味が全くないやら、料理の味わいが全く成り立ちません。フランスからの冷凍のものの方がずっとましなのも悲しくなってしまいます。

      

 キャベツも同様です。昔のような豊かな味わいはありません。ニュージーランドからのキャベツを使いました。

      

去 年の講習会では、野菜のテリーヌにバルサミコ酢を使いました。これもびっくり大仰天でした。味の薄いもの、変質してしまったもの、あげくの果てには、焼き 鳥のタレではないかと思ってしまう、間違いなく日本人の為にアレンジされたとんでもなく甘いバルサミコもありました。4、5種類の中で、一本だけ何とか使 えるものがありました。

      

ポトフなどに添える粒マスタードや、普通のマスタードもフランス産のものであっても、古いため保存状態の悪さのために全てのものの気が抜け、味わいが劣化していました。

      

又、今年はポトフに似た伝統的な農民の煮込み料理である、フランス・オーベルニュ地方の“ポテ”が作られました。

      

こ れに使われた二種類のソーセージ、国産のものは全てダメでした。国産の牛、豚肉は油が異常に多く、著しく味わいが希薄なのですから無理もありません。歯触 りもはっきりしません。そして、希薄な味わいを補う為に、調味料、その多種類の添加物が加えられています。甘ったるい不自然な味のものばかりです。ドイツ 人が日本で作る、あるいはドイツで勉強された方が作るハムでも全く同じ事です。素材が悪くては、どうにもなりません。塩漬(ベーコン)の胸肉とて同じで す。あまりにも油が多すぎ、添加物が入っています。とても気味悪い味わいです。昨年までは、フランスから輸入されたものを使っていましたが、今はもう売ら れていません。多分、国産の砂糖、調味料の入ったものと、フランス産の本来のものとの違いも分からない人が多いのでしょう。味わいは希薄で、油もとても多 すぎ???、添加物の加えられていないものを見つけました。これを使うしかありません。

      

ソースに使うシェリー酒も、4本取ってみて、やっと1 本だけ本当になんとか使えるかなといったものしかありません。殆どが気が抜け、また味わいが変質しているのです。シェリー酒をソースに使うのは、2年に一 回位ですが、赤白のワインはフランス料理では頻繁に使われ欠かせません。ドゥ二・リュッフェルは、魚のソースには辛口のサンセールの白ワインを使います。 肉料理のソースには、赤ワインがひんぱんに使われます。

      

きっと皆さんは「嘘だろう?」と言われるでしょうが、これは真実です。

      

ワ インは日本に来ると、すぐにビンの中に高温多湿の日本の空気中に棲息する腐敗菌が侵入し、異常発酵がはじまります。3・4ヶ月を過ぎると、その変化は少し づつ顕著になってきます。そして、やがて赤ワインは多くのワイン愛好家が良い熟成と讃える「レンガ色」と言われる状態にまで行きついてしまいます。これは もうワインではありません。ワインにしょうゆを混ぜたような極めて不快な味わいになってしまいます。私は、こういうワインはどんな良い銘柄であっても飲め ません。銘柄につられて2・3杯飲んだ翌日には、言いようのない鈍重な不快感に包まれてしまいます。白ワインはそれぞれ産地の特徴的な香りは殆ど失われて います。気が抜けると同時に、原産地で飲めば感じることのない不快な甘味が舌をついてきます。アルザスのとても??辛口なリスリングがこの日本では甘口の 白ワインで売られています。これらのワインでは、人の心を動かす素晴らしいソースを作ることは決してできません。

      

この日本でのワインの劣化の事実を認識されている方は、殆どおられないように思えます。この日本のレストランで、心を動かされるようなソースには、なかなかめぐりあうことはできません。
      
      ワインは、長い船旅の後では、確かに味も色もにごっています。3ヶ月休ませてやっとこのにごりが収まりはじめます。でもその頃にはどこに保存しようと、この日本では侵入した腐敗菌によって容易に劣化し始めるのです。

      
ワインブームにあおられて、沢山のワインが輸入され、そして貯蔵されています。店頭に並ぶワインやワインセラーの殆どのワインが、もう既にどうしようもな い味わいに劣化しているという事実にあの熱狂を演出した有名なソムリエの方達は、どのように責任をとられるというのでしょう。

      

私は、最近はスーパーやコンビにでしかワインを買いません。それも、1000円ほどかそれ以下の値段、新しい銘柄が入ってきて一ヶ月ほどだけです。この様に回転の早いものは、良い状態にあるものに当たる確率が幾らか高いのです。でも初めて買っておいしくても、1ヶ月~1ヶ月半もすれば、すぐにしょうゆ色に変化していきます。高い値のものほど、日本に来て時間がたつほど、殆どどこにおいてもこの劣化は進みます。
      
今回も、ソースに赤ワインを使いました。あちこちから1~2000円ほどのものを買ってきて、10本目に何とか使えそうな、色と味わいが澄んでいるものが 見つかりました。白ワインは3本目で本当にギリギリのものが見つかりました。これらのその時良かったものも、一ヶ月後には使えないものに変わっています。 勿論これらのワインは多くの皆さんが名前を知っている、こんなおかしなワインなどを買っているはずのない何軒かの有名なワイン専門の店から買ってきたもの です。

      

国産の肉は、豚も牛もどうしようもなく味が希薄で、脂肪が多すぎ、水っぽいのです。昨年はようやくそれほど悪くない豚肉を売っている肉屋さんを、恥ずかしながら韓国の知人に教えられ探し当てました。

      

皆さんは、国産の牛肉がおいしいと思われていますが、それは間違いです。アメリカでしたら、BSEが怖いとか、遺伝子組み換えの穀物資料が使われているのではないかと言う心配とかはありますが、アメリカのものでも、味わいは日本のものよりずっとましです。また、今はカナダ、オーストラリアから入ってきていますし、そちらの方がずっとおいしいのです。
      
実はこればかりは私も意外だったのですが、魚も例外ではありません。でもこれは、私たちが手をかけて異常な形にしてきた陸上の産物とは違い、その魚が生き る海の潮の中に含まれる成分による、自然条件によるものですから魚に罪はありません。フランスで水揚げされるノルマンディ産の魚介類、地中海のもの、いず れも日本で摂られるものに比べると味わいに大きな違いがあります。フランスのものには、とても豊かな香りと味わいがあります。そして肉質もむっちりとして います。少し加熱したとしてもパサパサにはなりません。本当においしいんです。去年の冬、スペインのサンチャゴ・コンポステラで食べた魚介類の数々も、忘 れ得ぬ味わいのものばかりでした。心も身体も食べるごとにで戦闘的になってしまうのです。「ん~ん~」と唸りながら食べている自分に気づきます。日本の魚 介類の味わいが薄い由に、刺身に一番向いていたことも事実でしょうし、あっさりと醤油で短時間で煮上げるのが、栄養素を壊されず良いのかも知れません。

      

タラなどは、日本の味の薄いものでは味が成り立たず、フランス産の冷凍のものを使うことがありますが、できるだけ日本で水揚げされるものを使います。

      

今 年はタイを使いました。勿論夏はタイのシーズンではなく、味わいも薄くなっています。あるところのものが届きましたが、殆ど味わいがありません。瀬戸内産 のものを頼んで取り寄せました。勿論、季節的には最上ではありませんが、一つ目のものよりは、ずっと味わいがありました。

      

私 は、総じて瀬戸内の魚が一番おいしいと思っています。魚の味は、潮の流れの速さで決まるのではありません。海水中の成分の豊かさによってつくられるので す。内海は、周りの地表から流れ来る、より豊かな微量成分が貯えられることによって水質は豊になります。フランスでも、大西洋の魚よりも地中海の魚の方が おいしいといわれています。これも同じ理由によるものです。

      

私 たちの魚の選び方は偏っていると思います。新鮮さと、ただシコシコした歯触りだけが大事にされては、魚が持つ味わいはどうでも良くなってしまいます。以 前、ここで取り上げた「春」さんが選ぶ魚は、豊かな歯触りと、それに負けない豊かな味わいとのバランスが素晴らしい。だから、おいしい。

      

日 本には世界中から珍しいもの、本来はおいしいものが限りなく集められます。でもそれらの殆どは、この日本で私達の無知さ由にどうしようもない味わい品質に 劣化しているのです。折角人の心を揺り動かすような素晴らしい味わいのワインであっても、この日本でその素晴らしさは失われてしまいます。それを丹精をこ めて作り上げた人達に私は心から申し訳なく、そして恥ずかしく思います。そして、この国の産物は私が子供の頃の豊かな味わいを殆どのものが失っています。

      

こ の国で本当のフランスの味わいを再現する為には、作り手の様々な面での強い意志が必要なのです。日本には、様々な外国の方々が料理を作るレストランが数多 くあります。いくらその国の人達がその国の料理を作ったとしても、ほぼ日本で産出される素材だけで作れば、決してお世辞にもおいしいと言えない料理ができ てしまいます。ドゥニ・リュッフェルの料理を正しく再現することを旨とするイル・プル料理教室の椎名は、何度か韓国に行っています。そして帰国時にはトラ ンクの中に様々な野菜や料理を隠し持ってきます。そして皆で食べます。どれを食べても本当においしい。彼女はよく次のように言います。「韓国の素材なら、 間違いなくもっと簡単にドゥニ・リュッフェルの料理を再現できる」と。
(2005.9.7記)

第20回 私は今、フランスへ向かう機中にいます。

私は今、フランスへ向かう機中にいます。45時 間の眠りの後、私の頭の中は「ごはんとおかずのルネッサンス」の出版以来、常に私の心を駆り立てていた何かから解き放たれ、ようやく冷静さを取り戻したよ うに思えます。常に何かが私の後を押し続けていたのです。久しぶりの安らかな気持ちです。機中の読書のライトが、これほど頼もしく凛とした明るさを持って いる、不思議な安らかさです。そして、何か確かな力が、心と身体に静かにみなぎっているのです。
      
もちろんこれは、私が住む「食」という領域での体験なのですが、それにしても、「ごはんとおかずのルネッサンス」という一冊の本が、この国を形作るもの の、その根底と、その上に積み重ねられた一つ一つのもの殆ど全てが嘘であることを無惨にも明らかにしてしまったのです。そしてこの嘘の積み重ねという構図 は、この国の他の全ての領域に於いても、ほぼ共通のものでないかという疑いさえもってしまいます。しかしこれは、今の日本人としての特質ではありません。

      日本人であれ、その他の国の人々であれ、一度、そこに入ってしまうと、誰かが気づかぬうちに陥ってしまう、「日本」という組織の問題なのです。私達がいるこの日本という組織が、私達に嘘を与え続け、嘘を強要し、私達を真実から遠ざけてしまうのです。
      
日本の「食」の領域の嘘を、部分的にではあっても、取り除き真実を垣間見せてくれたのは、「ごはんとおかずのルネッサンス」の料理を食べて、今まで経験し たことのない、心と身体を熱く嬉しく包むおいしさに驚き、自分の心と身体を取り戻した方達でした。そして、その中の少なくない方々が、「ごはんとおかずの ルネッサンス」の料理のおいしさと、その後の身体と心の変化を手紙で知らせて下さいました。その内容は、私はある程度は予想していましたが、私の予想を大 きく大きく超えるものでした。

      
      私 達は、この日本というシステムの中で自分達の身体を破壊する為に、物を食べているのです。又医療は私達の身体を破壊する為にもあるのです。身体を治すため の薬は、多くの場合実は身体を破壊する為に与えられているのです。そこにあるのは、このホームページでのテーマである「生命からの搾取」そのものなので す。今まで何度も述べてきましたが、もうこのシステムの中では、「生命」は少しの価値も持ちません。それどころか、もて遊ばれ、傷つけられても悪ではあり ません。むしろ、その過程で経済的価値・金を生み出せば、それは至上のものであり、真実なのです。全てがこの流れにあるのです。そしてこの絶え間ない嘘の 再生産のシステムを、強固に支えているのは、マスメディアなのです。
      
      こ の国には、真実を知り、真実を伝えようとするマスメディアは、私の目には時には皆無に近いようにさえ思えます。そして「食」というものの本来の与えられた 意味を見つめようとする人は、あまりにも限られた小数の人達でしかありません。「食」とは、マスメディアの領域で知る人々にとって彼らの経済的活動で偶然 にそこにあった一つの材料にすぎないのです。つまり、経済的価値を作り出す為の手段にすぎません。しかし、極く例外的に、メディアの中にも【今の「食」】 を見直そうとする人は確かにあります。でも、深い冷静な視点で、このシステムの中の「食」を見ようとしているのは、更にとても限られたものでしかありませ ん。より多くの方は、そのような姿勢を装うとはします。しかし、そこで見られる思考法は、今までと少しも代わり映えのしない、決して真実を見せることなど 出来はしない、浅はかな取り組みがほぼ全てです。このシステムは、全てが完全に腐りきり、息も絶え絶えとなり、崩れかけた肉をカラスについばまれるまで は、その愚かさを止める事も出来ないでしょう。
      
      そ れにしても、「医」と「食」がこれほどまでに乖離し、「食」が「医」に足げにされ、さげすさまれているところは世界のどこを探しても日本とアメリカ以外に はどこにも無いと断言さえ出来ます。「医」は身体と心を治療するところではありません。「医」は医薬品メーカーの代弁者であり、販売総代理店なのです。部 分主義に陥った「医」は本来の意味を忘れ、メーカーが次から次に作り出す薬に翻弄され、それらの薬に治療法を規制され、しばられ、医者としての想像力は剥 ぎ取られています。薬品メーカーが作り出す指示がなければ、彼らの治療の形は成り立たないのです。そして多くの薬は、確実に身体を更に痛めつけます。そし て彼らの「食」に対する無知は相乗効果をもって、患者の心と身体を更に破壊していきます。
      
      彼 らは最も大事な真実を完全に忘れてしまいました。充分で豊かな微量栄養素が人間の細胞・組織・器官を作るのです。人間の健康な状態を作るのです。今日本を 覆っている様々のアレルギー疾患は、この微量栄養素の欠落から来るのです。細胞に必要な建築資材がないから、組織・器官の本来の機能が持てないことから来 る失調なのです。今、医療費の膨張が問題となっていますがこの国民の食に微量栄養素が充分に与えられれば、この国の病気の半分以上はすぐに減少するように さえ、私には思われます。しかしこの医療費の膨張は医師と製薬メーカーの思惑によってなされたのだと思います。
      
      又、充分な微量栄養素によって築かれた組織・細胞は、当然、免疫力なども強くなり、外からのビールスなどの侵入にも強い抵抗力を持ちますし、遺伝的な欠陥も強く抑えられると思います。むしろ、表面に出ないで一生を終わる方が多いとも思えます。

      
      又、 病気になった時の薬の効果も期待できると思います。薬は両刃の剣なのです。ある部分は改善しても、他のある部分はより大きく破壊するものと考えなければな りません。薬を使用する時は、その薬に対する抵抗力が身体になければ、すぐに薬は大きな破壊をもたらします。つまり、薬を使用する前提として、豊かな微量 栄養素に支えられた力を、器官や組織が持っていなければならないのです。ところが、全ての国民が微量栄養素の欠落した食に喘ぎ、脆弱な器官しか持ち得ないところに、薬が追い打ちをかけ私達の健康を傷つけているのが、今の日本の不幸なのです。
      
      「医」 の「食」に対する考えが、端的に示されているのが病院の食事です。決して食べる人に嬉しさや力を与えはしない、無表情な寒々とした食べ物です。盲目的に、 安易さの極みの「カロリー計算」のみによる献立。血管を通して微量栄養素を送り込み、器官に力を与えるという考え方、つまり、「医食同源」などという発想 はみじんもありません。長期的な入院では、確実に身体は破壊され、更に病状が悪化するか、回復が遅れます。又、このように血管を通しての微量栄養素の補給 を受けなかった患部は、薬による表面上の一時的な改善は見られても、治療をやめれば、病状はすぐに前に戻ります。又、より長期的にこのような状態での治療 が続けば、確実に器官は破壊され、病状は取り返しのつかないものになります。
      
      それにしても、病気を治すのは薬であり、病気を引き起こすのは遺伝子であり、遺伝子がその人の一生を決める。その決められた一生を変えうるのは、最先端の遺伝子治療などと考えるのは、生命と人間が生きることへの尊大で下劣な考え方としか言えません。
      
      この国の「医」には「食」という最も基本的で大事な前提が全く欠落しているのです。「病」を改善するのは「食」であり、「食」の力を高めるために「薬」はあるのです。

(2005.7.19記)

第19回 「ほんとうに子供達の幸せと健康を願うのであれば私達は今、もう一度私達の料理を見直さなければなりません。」


今回が一連の「命を傷つける日本の家庭料理」に異議を唱えるキャペーンの最後となります。
私が新しい視点からの「心と身体に本当の喜びを与える家庭料理」の発刊を思い立たせた、最も重い動機となった今度の本のパートナーでもある椎名の次の新しい本から、そのまま引用した、母としての言葉を御覧下さい。

私どものフランス菓子・料理教室ではさまざまな社内の行事のたびに、スタッフと一緒に社員のために家庭料理を作る機会がよくあります。そのような折に、以前から弓田に私の料理の仕方は本来の料理の作り方とは違うこと、あく抜きや下茹でなどはする必要がなく、してはいけない工程であるとたびたび指摘されました。私にははじめは何を言われているのか分らず、ほんとうの意味を理解するまでには長い時間が必要でした。
私はもともと料理が好きで、短大の栄養科を卒業後、実家のある甲府の料理学校(東日本料理協会に所属)に助手として就職し、私自身の勉強のため、また仕事の上でもその頃活躍されていた先生方の教室に通ったり、講習会にもたびたび参加して教えを受けました。
料理の本を読むのも楽しみで学生時代からの愛読書『栄養と料理』(女子栄養大学出版部)、『暮らしの手帖』(暮らしの手帖社)、『きょうの料理』(NHK出版)などが身近なテキストでした。
主婦になってからも、娘の小さい頃は特に食事には気をつけていました。私なりに栄養が偏らないようにと気を配り、食卓の楽しみにパンを焼いたり、保存食作りにも励みました。1日の家事の中でいちばん多くの時間をかけ、家族のために手をかけて食事を作ることは私にとって大きな楽しみでもありました。
ところが今回の家庭料理の試作では、私が今まで一所懸命にしてきたこと、しなければならないと思ってしてきたすべてのことが否定されたのです。
3年前から弓田の考えに従い、砂糖を使わないおせち料理作りをはじめさせられました。これは私にとって青天の霹靂でした。なぜ砂糖を使ってはいけないのか、いくら考えても分かりませんでした。
確かに料理店などで出される料理や売られているお惣菜は甘過ぎるものが多いと思います。
でも、一切砂糖やみりんを使わないでおいしい料理ができるのでしょうか。その頃の私には、どのように考えても可能とは考えられませんでした。
1年目はどのようにしてもまったく味が成り立ちませんでした。なぜこのようなものを無理してまで作り、わざわざお正月に食べなければならないのかというのが、私や他のスタッフの正直な感想だったと思います。
2年目、昆布巻きだけがなんとか味らしきものになりました。やっと3年目に、お雑煮も煮物も私にとっては予想外にほんとうにおいしくできました。心も身体も温まる力に満ちた料理でした。
今まで私のしてきた料理、家族のためにと思ってきた料理は間違っていたのだということを少しは認めざるを得ませんでした。確かに砂糖は素材の持つほんとうの味を消してしまうのです。
おせち料理のいくばくかの結果に力を得、今やらなければという弓田の狂気にも似た使命感のようなものに引っ張られて、スタッフ共々教室が終わってから夜遅くまで、毎日のご飯作りが4ヶ月間続きました。
今度こそ徹底的に本来の料理というものを追及していこうとする弓田と一緒に料理を作ることは、私にとっては今まで習って身に染みついていることをひとつひとつ捨て去る作業でもありました。
確かに私が今までしてきた調理の下ごしらえのあく抜きや下茹では不合理であり、ほんとうはしてはいけない作業だったのです。
私も以前は栄養学の勉強もし、今までも料理やお菓子を作る仕事を通して、あるいは栄養士の仕事に就いている友人の話からも、食べ物、特に野菜の栄養素が昔に比べて極端に減ってきていることは充分に知っていました。
味も香りも栄養も昔とまったく異なってしまった野菜、そんな野菜にあく抜きなどはまったく必要がないこと、下茹ではさらに栄養を取り去る作業でしかないことは少し考えれば分かるはずのことでした。フランス料理や中華料理ではしない下処理なのに、日本料理だけをことさら区別して、何の疑いもなく、以前学んだ栄養学や調理法を一方では否定しながらも実際はいまだに引きずり、家のご飯を作ってきたことを今大きく悔いています。
でもこれらの間違いとされる料理法は、私に限らず少し料理を習ったことのある方であれば、だれもが今でも行っているごく当たり前の工程です。
ごぼうを酢水にさらしたり、煮干しは頭とはらわたを取ってだしを取り、こんにゃくは下茹でするなどなどです。
私は今はっきりと言えます。これらはしてはいけないことなのです。試作の合間に40年ほど前の料理の本から最近の本まで何冊かに目を通してみました。
昔はあく抜きも下茹でもここまで過剰ではなかったのです。今よりずっと味わいのしっかりしていた昔の野菜なのにです。
私は愕然としました。先達の料理の先生方、また料理に携わる人々のどなたかひとりでも、それに気がついて歯止めをかけておられたのなら、ここまで異常な調理法にエスカレートすることはなかったのではと思います。
してはいけない調理法は今も家庭の中で普通に行われています。
今、私達の周りを見渡してみると、病弱なあるいは重大な疾病に苦しむ若者が昔より確実に増えています。
私どもの職場でも近年そのように感じることが多くなりました。
私の娘も同様で、母親としての責任の重さに押し潰されそうになることもあります。
考えもなく、もともとないに等しいあくを抜いたり、苦味やぬめりを取ったりなどしてこなければ、少なくとも娘はもっと健康な身体に育ったと思います。家族のために心を込めて作ってきた料理が、精一杯心を込めて作り、食卓にのせていた食べ物が、私の考えとは反対に家族の身体を傷つけていたとは、私とてどのようにしても考えたくはありませんでした。
でも同時にこの本のような料理をもっと早く自分も作ることができていたらと思えてなりません。
私の娘だけでなく、最近特に増えている難病にかかっている若者や、病弱な人々にぜひこれらの料理を今すぐ作って、そして今すぐ食べていただきたいと思います。
この本の中で使われている食材は今日本で手に入るごく普通のものですが、少しでも多く素材の持つ栄養やミネラルを身体に取り入れるため、できるだけ逃さないように、そして何より余分な手順はひとつもないように考えたご飯やおかずばかりです。
でき上がった70品目の、いりこ、昆布、アーモンドなどの基本的な栄養素に支えられた料理は、いずれも温かく、そして味わいのしっかりした、食べた人皆の心と身体を満ち足りた気持ちにさせるものです。
試作後、スタッフと一緒に食べた新しくそして豊かな味わいの晩ご飯は、誰もが歓声を上げながら、ほんとうにうれしそうに頬ばっていました。とても楽しい時間でした。
この本の料理で皆様が少しでも元気になられることを、病をかかえた娘の親として心から願ってます。
私は次のように考えます。
これからの日本のあるべき家庭料理を考えるには、次のような様々な視点から考え、そしてそれを一つの総体として有機的に組み立てなければならないと思います。

①まず、まだ望ましい状態にあった以前の素材を正しく質的に推測できること。
そして、今の素材の同じ質、つまり旨味、微量栄養の状態を、より豊かな幅の広い経験に基いて、実感を持って判断することです。
つまり、以前の日本の素材と今の素材の微量栄養の幅と量を実感を持って察知することです。
②以前行われていた自然で簡単な料理法を知ること、そして、今現在行われている料理法の本質的な意味を理解することです。
つまり、以前の正しかった料理は極めて単純明快な作り方でした。今の料理の手法は、かなり複雑なものになっている。そしてその複雑さは本来は全くそうする意味も必要もないものです。そしてこれは料理研究家やマスメディアによって作られた形式的な虚構であるということです。
③次に①、②を正しく認識し、新しい視点で料理を立て直す為になくてはならない、料理の本質と技術を理解できるかということです。
今の素材には、全く以前の旨味、微量栄養素が欠落しています。新しい料理法を最初に示そうとする人には、素材の料理の特性をより厳密に理解し、厳密に組み立てたものを提示しなければなりません。
例えば、加熱の意味、切り方などを厳密に理解し、最大限に微量栄養の幅と量を高める術を知っているかということです。
④次に大事なことは栄養学的な考えも持ち得るということです。
いえ、栄養学という言葉はふさわしくありません。
学校で教える栄養学や、テレビで述べられる狭隘なものではありません。何かを吸収する為には何を食べなくてはならないなどという、単なる言葉の遊びのような、あまりにもたわいのない栄養学ではありません。
むしろ、今のとても偏った栄養学の、枠にはまっていない広い意味での様々な体験に導き出された全体像です。
つまり、今日本の微量栄養素の欠落した素材、そしてそれを更に決定的なものにする料理法が、どのような結果を人間の細胞、組織、機関にもたらすかを実感として感じる為の感覚です。
そして素材、料理をどのようにすれば人間の身体が確実に成長、発展していくか、重い状態が改善されるかを推測できるかです。
今、特に日本の陸の産物と料理法は人間の身体を傷つける方向に流れています。この流れを、命を育む流れに変えるには、素材をどのように扱い、どのように料理しなければならないかを知る力です。
そして素材に含まれている微量栄養をどのように駆使して豊かにするかを知る力です。
又、今私達が持っている素材への誤った考えを、経験の中から、可能な限りの情報を持って正しく判断する力です。
もともと微量栄養の乏しいアメリカ産のコーンを過度に精製したサラダオイルは確かに身体に溜まります。身体によくありません。
しかし、地中海地方の人々は平均寿命が長く、その大きな要因は頻繁に取られるオリーブオイルにあるといわれます。確かに滋味豊かな土地で取れた精製の度合いの浅いエクストラ・バージンオリーブオイルは身体に溜まりません。身体に力を与えてくれます。真っ黒で香りの強い胡麻油だってそうです。
これらは命を次に繋ぐためのものですから、正しく扱えば身体に悪い訳がありません。
NaClは決して恐れてはいけない。豊かな微量栄養があれば、NaClはより多量に取らなければならない。それがエネルギッシュな身体を作り上げる。料理の基本となる、本当の鰹節は魚の一部であり、幅の狭い微量栄養素しか取ることができないなどです。
これらのことを実感として理解できるかということです。

⑤次は最も大事な点です。
つまり、味覚が客観的であるかということです。現在のマスメディア、料理研究家、メーカーによって作り上げられた偽りのおいしさを自分の舌から取り除くことができるかということです。この本来のおいしさはDNAに蓄積された膨大な情報に基いたあるべき習慣なのです。決してここ何十年かで作り上げられた狭隘な栄養学とは全く異なります。
①~④は、断片的な情報なのです。これを正しく有機的に繋ぎ合わせることができるものは、この本来的なおいしさを理解できる感覚だけなのです。これだけが人間のあるべき食を正しく立体的に示すことができるのです。
次の「ごはんとおかずのルネサンス」に出てくる料理は、全て私の身体と心が本当においしく感じるか、私の持つ言葉以上の感覚が共鳴して振るえるものがあるかによって、最終的に作り上げられました。
もちろん、全てがそのような程度まで突き詰めることができた訳ではありませんが、いずれもかなりの満足の行くものばかりです。


この5つの資質を持たない人が家庭料理を論ずれば、必ずそれは一面的なものになり、結果として人の命を傷つけるだけのものになってしまいます。
今まで私が名指しで非難してきた、柳原一成氏、故土井勝氏の御二人は、この①~⑤の資質の一つも持ち合わせてはおられません。
ただ自分達の立場を守り抜こうとする執念と惰性だけです。
辰巳芳子氏は②の中での幾ばくかの料理を作る為の技術は持ち合わせておられます。しかし、その技術は極めて偏ったものであり、又、正しい方法を理解されていません。
その他の①、②、④、⑤についてはいささかの資質も認められません。
幕内氏は③に幾らかの理解はされています。しかし、実感を伴った理解ではありません。幕内氏が存在する周囲も諸条件とのつながりの中で、できたものではありません。日本人としての小さな心情の中に生まれた考えです。
もちろん、①、②、④、⑤についてはいささかの資質も認められません。

私は、フランス菓子を自分なりに追及する中で、様々なことを得ることができました。自分の足と舌で、フランス・スペインなどの素材を捜し歩く中で、日本とフランスの素材の著しい違いを知ることができました。
そして、フランス・スペインの微量栄養素に溢れた素材、料理、お菓子を食べる中で私の記憶に埋もれていた、私が子供の頃のより豊かな滋味を持った素材の記憶を蘇えさせることができました。
自分なりのフランス的なものの追求の中で、かえって私は自分が住む日本と、その食を強烈に映し出すことができました。
時代に惑わされない料理を作りつづける、親友ドゥニ・リュッフェルの精神と技の中に人間としてのあるべき食を知ることができました。
そして、正しい食の目的とはフランスのもの、スペインのもの、日本のもの全てが同じであることも知りました。
幸だったかどうかは分かりませんが、私には、心臓の手術、肺炎、腰椎分離症による長期の入院、そして痔とヘルニアの手術、その他の病気で医療との接触がかなりあり、健康への希求の中に、医療、そしてその為の食を意識してきたこともあると思います。
フランス菓子作りの中で素材は豊かな表情をそして四季の機微を持ち、作り手の考え、心、熱情にどのように応えてくれるかを知りました。
菓子作りも料理作りも日本も西洋も食の為の技術の目的と意味は少しも違いません。
そして、フランス的な味わいを追い求めるということは、実は人類全てにふさわしいおいしさを見つけることだと、自覚し始めたのはついこの7~8年でした。


(2003.10.25記)

第18回 「粗食のすすめ」の正しい理解

幕内秀夫氏の「粗食のすすめ」シリーズは、私が手にしているもので、既に160万部も売れたとありますから、本当にすごいなあと、私は今はある種の感慨を持って新ためてこの事実を受けとめています。
料理研究家や懐石料理の宗派の方々のように、自分達の立場を優位に保つ為に形式的な技法を野放図に築き上げたものとは、氏の提唱される料理はもちろん違うはずです。
病人の為の食事を提案することを主な仕事とされているわけですから、前述の方々のような、「命と心を傷つけている」とんでもない料理法ではないことは当然なはずです。
又、今、私の手元にある、東洋経済新聞社発行の「粗食のすすめ」と「プチ粗食のすすめ」を読む限り、私が同感できる点も数多くあり、幕内氏自身も今まで私がくどくどと批評を続けてきた偽りの日本料理法を、あってはならないものと認識し、それとは異なる、あるべき料理法を述べているように思われます。
しかし、大方はもっともな主張であると思われるこの2冊の著書の中でも、氏の今の日本の食材に対しての、そして、料理法、栄養的視点に対しても、オヤッと思うことは数多くあります。しかし、自分の目が意地悪過ぎるのかなと少し反省させられる論理的な記述もあります。
でも、この幾つかの疑念は、「粗食のすすめ 冬のレシピ」において決定的なものに広がります。つまり、程度の差はあっても、料理評論家の方々の命を傷つける料理とは本質的には変わらないということです。
それでは何故、氏の「粗食のすすめ」シリーズはこのように、多くの日本人の注目を得たのでしょうか。
一口で言えば、幕内氏の唱える、単純極まりない考えに立つ料理法でも、それが輝かしい真実に見えてしまうほど、私達の日々の料理法と、それによって作られる料理と食の環境は極限まで病み果てているということなのでしょう。

つまり、故土井氏、柳原氏、辰巳氏らを中核とする全てが偽りの料理と、本質には少しも変わらないのですが、これらの偽りに満ちた料理を、幾らか程度の浅い偽りの料理で洗い流したとも言えるのでしょう。
私達の意識は、奥底で、私達の日々は偽りの連続のみをあることを薄々気付いてはいます。
でも、全くの真実で持って、それらを全て洗い流されるのは恐ろしい。私達の日々の生活の根底を覆さぬほどに、幾らか真実らしきものを求めたような気がします。
そのような、日本人の不安な猜疑心の中に、幾ばくかの決して過激ではない、真実らしきものを持つように見える「粗食」という言葉がずっとものの見事に滑り込みました。
でも、幕内氏の作る料理と、それへの考え方は、本質的には命を傷つける料理とは少しも変わりません。日本の食の現状に対して一番大事な冷徹に凝視する視点が欠けていると思います。
つまり、実態と実効の伴わない「力のない復古主義」に陥っているのではないかと思います。
氏は、日本の国土、そして素材を産出する土地、それによってできる素材、その素材を使ってできる、様々な調味料、料理法、そして最終的に出来上がる料理が含む栄養素、味わい、人と料理との関わり合いを理解されておられないと思います。
私の目から見れば、短絡的に過ぎる氏の考えでは、少しだけ見た目の状態を改善することはできても、今、この国が抱えている、子供たちが背負っている過酷な最悪の状況を本質的に取り除くことはできないと思います。
しかし、幾ばくかの同意できる点はあります。
それは次の事柄です。
今の栄養学では分かっていないことの方が、分かっていることよりずっと多い。
しかし、この程度については、考えに違いがあります。
私達の先祖が長い年月をかけて培ってきた、米を中心とした食の習慣は正しい。
②脂肪、糖分、炭水化物などのエネルギーを燃やすとは、空気としての微量栄養素が必要となる。
しかし、この程度とこれらのエネルギー源を燃焼する為のストーブを強くするものは何かということについては納得できません。
スナック、缶ジュースは良くない。
これは当り前です。
発酵を大事にする。
日本の食を考える時、発酵を避けて通ることはできない。
しかし、充分な発酵は日本にはない。

さて、それぞれの項目を一つずつ述べていきたいと思います。
今の栄養学では分かっていないことの方が、分かっていることよりもずっと多い。
これは全く同感です。
栄養学の常識は面白いほどに、恥ずかしいほどに、たわいなく日々違います。
つい最近までは問題視されていた、「中性脂肪」、今はこれが低下すると癌になりやすいとまで言われています。
蛋白質を効率よく吸収するには、何を多く含んだものを食べなければならないとか、毎日の暇を持て余す人々の為に今日もテレビでは、もったいを付けた講義がなされています。
微量栄養素の種類だって、まだまだあまりにも多くのものが知られていないと思います。まだ認められていないあまりにも膨大な様々なものと複雑、立体的に絡み合って生命の為の化学反応は行われているのです。
やれ、ポリフェノールだ、カテキンだと騒いで、そんなものを多く含んでいるものを、集中的に取っても、もちろん何の意味もありません。それで身体が健康になり、重大な病気までもが治ると考えるのはあまりにも情けなく寂しい考えです。
今、私達が手にしている、医学や栄養学に関する知識は琵琶湖の広さほどの、あるいはそれ以上の広がりの中の、針の先ほどの知識でしかないのです。
しかし、幕内氏にはこの認識はありません。
次の言葉には少なくても病気との関係の中で生きている、食を扱う人の言葉と耳を凝りたくなります。
「‘1日に30種類以上の食材を取る’などということを考える必要はない」
私は、‘1日に30種類以上’この言葉はやはり重要な意味を含んだ基本的にとても大事なことだと思います。
私達の生命活動は、今しがた述べたように、私達の知らない膨大な数の要素が複雑に絡み合った相関関係によって成り立っています。この反応は私達の常識をはるかに超えているのです。
ですから、この複雑な反応に呼応するには、より多くの食材を体内に取り入れなければならないのです。そして、以前から比べれば著しく微量栄養素の欠落した今の日本の素材であれば、30種以上の、できるだけ多くの素材を体内に取り入れなければ私達の身体が欲している微量栄養素を充分に整えることはできないのです。そのような中で、私達の身体にとって何が一番正しい指標になるかといえば、氏が述べているようにそれは私達の祖先が長い年月をかけて培ってきた食の習慣しかありえないことは、間違いありません。
しかし、あまりにも唐突であっけらかんとした「30種類ということを考えなくて良い」という考えは、氏も、自身の狭隘な栄養学に陥っているという証しであると思います。

私達の祖先の長い年月をかけて培ってきた食の習慣は正しい。これに立ち返らなければならない。
前述のように、これは全く同感できる事柄です。
これらの長い時間によって自然発生的に築き上げられてきた私達の祖先の食の習慣は、「狭隘な栄養学」によって短期間にいびつに築き上げられてきたものではありません。
本当に長い時間の中での、無限とも言える経験の集積の中で、必然的に私達の身体が望ましいものと認識した経験の蓄積なのです。
特に戦後、西洋のものを望ましいものとして、自らの辿り来た道筋を壊し、又、アメリカの経済的強要の下に、私達のもとよりの食の習慣を捨ててきたことに、今の重大な結果があることは間違いありません。
確かに、最も望ましい食の形は、つい何十年か前のご飯を主として形にあるのです。
しかし、日本の陸の産物は、農薬漬けの土地、生産効率だけの生産法、間違った価値観による味覚などにより、その実質的な含まれる栄養素は、あまりにも欠落しているのです。
短絡的に単純な復古的感傷のもとに以前の習慣の真似をしても何の本質的な解決にはなりません。
今、新たな視点を持った、料理と料理法を築き上げなければならないのです。
氏は「栄養素のことは考えなくても良い、昔の人は栄養のことなんか考えずに食べていた。それで元気だった。」と言われます。確かに、以前、食材の数は限られていました。しかし、一つの食材の中に、今のものとは比べ物にならないほどの幅の広い微量栄養素が豊かに含まれていました。
しかし、今私達はかっての人達がいた、豊かなミネラルの循環の中にはいないことを理解しなければなりません。
脂肪、糖分、炭水化物などエネルギーを燃やすには、空気としての微量栄養素が必要である。
「ストーブに入れられた燃料たるエネルギーを燃やすとは、空気たる微量栄養素が必要である」
これは同感というよりも、通常の常識を持ち方にとっては、全く当たり前のことです。
しかし、氏は今の日本の、特に陸の産物にどれだけ微量栄養素が欠落しているかを理解されていない、そしてこの欠落がどれほど深刻な状況をもたらしているかを少しも理解されていません。
確かに、微量栄養素が欠落すれば、エネルギー源たる脂肪、糖分、炭水化物などは燃焼されずに体内に溜まる。これは間違いありません。このことに限っていえば、これは今からでも微量栄養素を補給すれば、身体の状態は改善されるでしょう。
しかし、その燃料を燃やす、ストーブそのものが、高い熱や耐用年数においても強固でなければ駄目なのです。このストーブを強固なものに作り上げるのに必要なものは紛れもなく微量栄養素なのです。
母の胎内にいるとき、あるいは、乳幼児、小児期に充分で幅の広い微量栄養素が補給されなければ、強固で本来の機能をしっかり持った組織、器官は作られません。
著しく脆弱な組織、器官になってしまいます。これが、アトピー、喘息などのアレルギー、潰瘍性大腸炎、その他の低年齢層まで広がりを見せている重大な疾病と私は考えます。
以前とは質的に全くかけ離れた素材で持って、機械的に以前の料理法による料理に戻っても、成長に必要な充分な微量栄養素は得られません。
しかし、氏の論調の中で微量栄養素をより多く含む、玄米を強く勧められている点は納得できます。
しかし、最終的に諸手を挙げて同意できるのは、正にこの一点だけです。



私は初めて氏の本を読んだ時に、料理評論家の方々の命を傷つける料理をあってはならないものと認識されて、本を書かれているのかとも思いました。
しかし、「粗食のすすめ 冬のレシピ」では、してはならないごぼうのあく抜き、下茹で、大豆の下煮、高野豆腐、ひじきの戻し汁を捨てる、こんにゃくを下茹でするなどの愚かにも自らの意志で栄養素を捨て去る料理法を踏襲されています。評論家の方々のような気違いじみた執拗さではないが、微量栄養素の本質的役目と大事さを本質的に理解していない点においては何ら変わるところはありません。
又、油脂についての認識も同様に疑念を持ちざるを得ません。
油脂はいけないものであると、できるだけ少ない摂取量にしなければいけないと断じています。
もちろん、数と量をいかにして効率よく生産するかという一点において作られたアメリカ産の少しも微量栄養素を含まないコーンから、さらに過度に精製したオイルは確かに身体に溜まるでしょう。できるだけ取るべきではありません。
しかし、浅めの精製の、豊かなミネラルを含むスペインの地で取れたオリーブオイルや、真黒で香りも味わいも強い胡麻油は決して身体に溜まりません。
私達の生命活動に絶対必要な微量栄養素が豊かに含まれています。
その他の素材の消化、吸収を効率よく後押ししてくれます。
何故なら、これらは、人間が勝手な手を加えなければ、生命を次代にたくし、繋ぐものですから身体に悪いわけがないのです。
又、他の料理研究家の方々と同様に幕内氏も多くの料理に砂糖を加えます。
幾らか精製の浅い三温糖を使われていますが、砂糖は砂糖です。決して無節操に砂糖を加えてはいけません。
氏は、日本人は砂糖の取り過ぎであり、それが様々な疾病の大きな要因となっていると言われています。
そして、お菓子をやり玉に挙げられます。これはおかしい。
砂糖が悪ければどうして御自分の料理から砂糖を一掃しないのでしょうか。
料理とお菓子の本来的な意味を理解されていません。
料理はまず、身体の細胞、組織、器官」を築き上げ維持する為の建築資材たる微量栄養素を揃える為の行為なのです。
例え少量であっても、砂糖が入り込む必然はないのです。
お菓子は、身体の成長維持に必要な微量栄養素を正しい料理によってしっかりと補給した後に行われる、エネルギー源の補給であり、特に頭に精神的なおいしさを与える行為なのです。
では、何故、幕内氏は料理に砂糖を加えるのか。
つまり、今の素材の力では本当においしい料理が成り立たない。それをごまかしてとりあえずのおいしさを作り出す為に加えるのです。どのように考えても、「甘い味覚」の正しい意味も、又砂糖を使わずに充分なおいしさ、豊かな栄養素を持った料理を実現する術を持ち合わせていません。
又、故土井氏らの手法によるように、素材の旨みを骨抜きにして、何の味わいもなくなったものを作り、慌てて砂糖で補いをつける、全く同じことが行われています。
今まで論じてきた方々と同様に微量栄養素に関する客観的な認識が欠如していることを明確に示すものは、料理のだしについてです。
今まで何度も言っているように、鰹節による、一番だし、二番だしという考え方は本来のだしという考え方には反するものです。又、鰹節も鰹の一部分の間であり、私達の身体に必要な幅の広い微量栄養素は持ち合わせていません。
幅の広い微量栄養素を揃えることができるのは煮干しだけであると述べてきました。
しかし、煮干しによるだしも、もし丁寧に作るのであれば頭と腸を取り除くと示されています。
もちろん、一匹全てを加えるところに煮干しのだしの意味があります。
このように、幕内氏の微量栄養素に関する認識は定見のないもののように思えます。

④スナック、缶ジュースはよくない。
これはどうしようもなく当たり前のことです。
これらはメーカーの、ただ自らのより大きな利益を得る為だけの私達の生命からの搾取の最たるものです。
でもこれこそ、飢餓感によって与えられた習慣です。本当に身体と心を満たす食べ物や料理がないから、私達は常に不安な飢餓感にさらされている。こういう精神状態が、砂糖と薬入りの缶入り清涼飲料水に走らせていると思います。
常に身体と心が満たされるものを食べていれば、ミネラルウォーター以外にそんなに飲みたくはならないと思います。
心と身体が望む本当に微量栄養の豊かなおいしいものを食べていれば、これらの缶入り飲料の異常さを身体が知り、受けつけなくなるはずです。
しかし、幕内氏が良いと言われる、今でている玄米酒、本格焼酎にしても、国産の原料の米や麦などで作られ、しかも自然の摂理からかけ離れた過度に精製されたものが殆どという状態では、これらのものが、缶入りジュースなどとそれほど変わるとは思えません。

⑤発酵を大事にする、乾物を多く摂る
日本の食を語る時にこの発酵をさけては通れません。
発酵は高温多湿な日本の気候の中で、食べ物の保存性を高め、又、地理的気候的に微量栄養素が乏しくなりがちな食材を、発酵によってその幅を広げ新たに身体の為に必要なものを作り出すことが必要であったと思います。
また乳酸菌を漬物などと共に腸内に取り入れることによって、腸の働き、食べたものの消化、吸収をより望ましいものにするなど、必然的理由があった訳です。確かに、今、私達はこの発酵を謙虚に見直さなければならないのです。
しかし、今この日本で、本当に身体に良い発酵食品は日常的に手易く手に入るのでしょうか。
スーパーで売っている白菜漬けはただ塩水に浅く漬けただけで、発酵のおいしさなど少しもありません。
味噌、醤油にしても、上滑りな薄味を目指した水のような味わいのものばかりです。納豆にしても、匂いの弱い納豆などが大手を振って現れる始末です。
そう、もうこうなれば、自分で望ましい発酵によって作られた、味噌、醤油などを自分の力で捜さなければなりません。幕内氏は「良い発酵をしたもの」を使うと言われますが、その判断基準は示されていません。一体どのようなものが良い発酵のものなのでしょうか。是非詳しく話しを聞きたいです。
もう漬物も自分でしっかり発酵させたものを作らねばなりません。でも、今の微量栄養素の著しく欠落した野菜などで、望ましい充分な発酵が得られるのでしょうか。
いえ、決して得ることはできません。
微量栄養素の欠落した素材でも、充分な発酵ができるように新しい視点で考え直さなければならないのです。そのような対応は微塵もみられません。

この「粗食のすすめ 冬のレシピ」には6種類の漬物が出てきます。
「大根のしょうちゅう漬け」
大根500gに対して、しょうちゅう3/4カップ、三温糖大さじ4~5、塩大さじ11/
「かぶのゆず風味漬け」
かぶ3個、昆布5cm、ゆず皮少々、赤唐辛子1~2本、漬ける汁(水1/2カップ、三温糖大さじ4、酢大さじ3、塩小さじ1/3)
「白菜の芯の甘酢漬け」
白菜の芯300g、塩小さじ1強、赤唐辛子少々、甘酢(昆布だし1/2カップ、三温糖大さじ4、酢大さじ3、塩小さじ1/3)

他に漬物についての項がありませんので、多分これが氏の考える望ましい発酵をもたらす漬物なんだと思います。
これだけ、多量の砂糖を加え、しかもこの短い時間で、充分な乳酸発酵が行われる道理はありません。又、どうしてこんなに多量の砂糖を加えるのでしょう。氏は、あるべき漬物の味わいを少しも理解されていません。これらの漬物は形式の為のおいしさなのです。
「ごぼうとにんじんのみそ漬け」
びっくりするのは、ごぼう、人参とも5分ほど茹でて、旨み、微量栄養素を捨ててから味噌に漬けるのです。正に、料理研究家の方々の形式の為の料理法です。

「大根の柿漬け」
これには塩の量が記載されていません。文中には少々とあります。
これらの5種類の漬物に共通していることは塩があまりにも少な過ぎることです。氏は漬物における塩の意味を少しも理解されていません。
塩はある一定量加えることによって、腐敗菌の活動を抑えてくれます。そして発酵に必要な乳酸菌を生かしてくれます。
塩の量を増やせば、もちろん、乳酸菌の活動も同時に弱まりますが、より長期に深い発酵を可能にしてくれます。
一晩ほどでは充分な発酵は得られません。得る方法はありますが、この本の作り方では不可能です。
又、塩を加えるということはNaClのみを加えるということではありません。
海塩、岩塩などに含まれるNaCl以外の微量栄養素はもちろん人間にとっても必須のものですが、乳酸菌、酵母菌にとっても必要な食べ物なのです。これらの菌が微量栄養素を食べ、そしてそれを排泄することによって、栄養素が変化し幅が広げられるのです。
もちろん良い塩を選ばなければなりません。NaClの化学精製塩だけではだめなのです。
このような微量栄養素を充分に含んだものは私達の身体にダメージを与えることはありません。
「漬物」の大事さを言われるくらいなら、塩の質について詳しく言及してほしいと思います。
又、添加物のない漬物は、自然食品店で選ぶとありますが、これも実に容易な考えです。
56ページに示されている写真のパック入りの漬物が充分に発酵したものとは思えません。そして、長期間保存の為にきっと多量の砂糖が使われていると想像しながら、早速4種類を買ってきて食べてみました。「ごぼうのたまり漬け」、とにかくしょっぱ過ぎます。その陰に砂糖のかなりの甘さが隠れています。醤油の味が少しします。「しば漬け」、酸味は少しあっても弱々しい味わいです。「白いたくあん」、とにかく甘い。コリコリという歯ざわりと甘さだけです。「茶色のたくあん」、味醂の甘さですって。コリコリだけです。これら4種類とも身体の為に良い発酵がなされているとは少しも思えません。ちゃんとした発酵による漬物はこんな薄っぺらな味わいではありません。別にこれを食べても、それほど身体が元気になるとは思えません。ご飯を食べる時、何も香の物がなくては淋しい。何もないよりは、このコリコリ、カリカリの歯ざわりだけでもあれば、そんな程度の本来のものからは程遠い漬物だと思います。
こんなものは漬物ではありません。
本当に、新しい考え方に立って自分で漬けるしかこの日本には残された道はないのです。
私共の新しい本では、もちろん、この点についても充分に考え抜き、そして試作を重ねました。

干物を多く使用する。
これも私も心から賛同できます。
干物はただ保存の為に乾燥されただけではありません。
ある一定期間に、かなりの成分変化、つまり栄養素の幅の広がりがあり、旨味も増しているのです。これも漬物と同じように先人達の経験からの知恵なのです。
高野豆腐、干しひじき、切り干し大根などは、生のものとはかなり、香り、味わいが異なります。それほどに、私達の想像以上に豊かな熟成が行われています。そして氏も、これらのものを頻繁に使われています。それは良いかと思います。
しかし、その使い方が評論家の方々と同じであれば、これらのものを使う意味はありません。
ひじきは洗って水で戻し、水気を絞ります。
高野豆腐も水で戻し、水気を絞ります。
しらす干しはざるにいれて熱湯を回しかけ、水気を切る。
大豆も一晩水につけて水を切る。
切り干し大根はヒタヒタの水にしばらく浸して戻し、水気をぎゅっと絞ります。又、昆布ももちろん乾物です。成分が熟成して、うまく微量成分が結晶し、表面に白い粉となって出てきます。
この昆布の表面を他の方々のように、サッと抜いて使います。
つまり、これらの行為は、熟成によって豊かに幅を広げた、私達の身体が渇望している最も大事な部分を、意識的に取り除く形式の為の料理法の中核をなすものです。

これまで述べてきたような論理的矛盾を最も端的に示したものが、「プチ粗食のすすめ」P123の『こんなに簡単!新“ご飯”生活』であり、“「カタカナ食品」をやめて「ひらがな食品」を食べよう”です。
この項目ではまず次の2点を指摘したいと思います。
ひらがな料理の為の素材も、料理も非常に悪い。
②カタカナ料理が既に何十年も存在している事実を無視している。

パン‐ご飯から、ブランデー‐焼酎
まで20組ほどが比較対称されています。この中には私も同意できるものが幾つかあります。
 しかし、ここでも幕内氏はあいまいさを保とうとしています。
「もちろんカタカナ食品のすべてが悪いわけではありません。しかし、カタカナ食品を減らすという一つの目安をもてば、面倒なことを考えなくても、簡単に食生活改善ができるのです。」食べたいんなら食べていい。できるだけ食べるなということでしょう。しかし、これらのカタカナ食品の全てを好ましくないものではないと言うことはとてもおかしい。以下反論していきます。
左のカタカタ食品、なるほど一見悪者のみを揃えたような気がします。でも右のひらがなで書かれた氏が言われる善玉食品や料理群は、今私達の身体が必要としているものを殆ど不充分にしか持っていない空ろな食べ物の勢揃いにしか、私の目には映りません。
そして幕内氏はあまりにも食や料理のことを知らな過ぎると思います。
悪玉とするカタカナ食品にも氏が知っているものよりも、もっともっと素晴らしい可能性があることを知っていません。

(パン‐ご飯)
今、日本人がおいしいと思っている、フニャフニャの柔らかさ以外に、栄養素も歯ざわりも味わいもないパンに対しては私も同意できます。しかし、幕内氏が最良のものと思っている日本の米の玄米ご飯よりもずっと私達の身体に良いパンが幾らでもあることを、又、それは全く手易くできることを著者は知りません。
これはすぐにでも明らかにするつもりです。
イーストを加えずに糠床にたまる野菜の汁でだってパンは作れます。これをライ麦の全粒粉に加えてパンを作れば玄米のご飯以上に身体に良いものができます。しかし、パンよりも手抜き薬漬け農法で著しく微量栄養素の欠落した玄米が最良であると機械的に考えるのはあまりに短絡的であると思います。

(ラーメン‐そば)
この関係は比較的うなずけます。油ギトギトのラーメンに対して、私の大好きな出雲そばのようなそばの実の外側も充分に入った黒いそばなら私もとてもおいしいと思うし、毎日食べてもいい。しかし、砂糖たっぷりのそばつゆには何も述べられていません。甘いそばつゆはごめんです。
また、今流行になっている、噛んでも噛んでも噛み切れない味わいを異常に単純化したそばなんか食べない方が良いと思います。
でも、ラーメン嫌いなんていやしませんよ。私だってたまには食べたい。やっぱりラーメンはおいしい。しかし、どこのラーメンを食べても、浴びるが如くのギトギトの油は身体に良い訳はありません。これだって日本に来てから私達の手によっておかしくなってきたように思えます。いずれにしてももっとおいしいラーメンを作ろうと考えています。

(スパゲティ‐うどん)
私はこれは承服できません。
今、日本のうどんそのものには、何の味も香りもありません。ただ過度に精製された小麦粉をただ練り上げただけの、無味乾燥した味わいとしか表現できないものであり、そのような麺の中に充分な微量栄養素などある訳がありません。
イタリアから輸入されたスパゲティの麺なら、少なくとも日本のうどんよりはより充実した微量栄養素を含んでいます。
スパゲティは良くても、それに使われる油などが良くないと氏は言われます。日本の油のように過度に精製されていない、エクストラバージンオリーブオイルを使えば、日本の食材には欠落した微量栄養素を補うことができます。特に今の食の現状にいる日本人は、大きな元気を与えることを私は自信を持って言えます。過度に精製された真っ白な小麦粉、味のない野菜、手抜きの醤油、あるいは甘い味噌味のうどんのどこがおいしく、又身体に良いのでしょうか。黒い出雲そばのように小麦の全てを使った全粒粉で作ったうどんだったらおいしいだろうと思います。でもそんなのはどこに行っても見当たりません。

(ピザ‐お好み焼き)
これもすぐには納得できません。
何の栄養もない小麦粉に水に、これまた何の栄養もない肉や野菜を加え、国産の過度に精製されたサラダ油を使ってその上に30%が水飴というような気違いじみた日本のソースを塗ってお好み焼きのどこが健康に良いのでしょうか。
私は著者が考えているものより、もっとおいしいピザを作れます。しかし、私の嫌いな宅配のアメリカンピザと比較しても、お好み焼きがそれほど優れるとも思えません。どちらもおかしい。
確かに宅配のピザは視覚だけはおいしそうです。しかし幾ら食べても少しも満足感が湧いてきません。ただ機械的に口に入れる、まるでアサヒスーパードライのような味わいです。食べ終わってから、ただ身体の中にかき込んだという以外に何の印象も残らない空しさを、私は心と身体に感じます。でも、むな空しい味わいはお好み焼きのそれと少しも変わるものではありません。日本の味わいのない素材で作れば、元々まずいアメリカンピザは、益々まずくなることを氏は知っておられるのでしょうか。

(サンドイッチ‐おにぎり)
これは素直に同意できます。フニャフニャの歯にまとわりつく何の味わいもないサンドイッチのパンを食べるよりは確かにおにぎりはましです。
しかし、小麦の全てを使った全粒粉による、歯ざわり味わい香りのしっかりしたパンに、しっかりした具を挟めば、本当に身体と心の喜ぶサンドイッチができます。
そして「うん、食べたぞ」というしっかりした印象が、しっかりと心と頭に残ります。

(カレーライス‐ざるそば)
これは大体比較の対象とすることがおかしいではないでしょうか。カレーライスとざるそばにどこに似かよったところがあるのでしょうか。よく分かりません。
又、カレーライスを悪者に仕立て上げることには同意できません。恐らく氏は、どこかの駅辺りのそば屋なんかがついでに出している、粉の味わいだけしかしないカレーしか知らないのでしょうか。
私はカレーライスを悪玉にしてしまう著者の考えが理解できません。ちゃんとしたカレーは実に豊かな野菜の旨み、栄養素がじっくりと煮込まれ、そこに肉、エクストラバージンオリーブオイルの栄養素が渾渾と豊かに結合したものです。身体に悪い訳がありません。
香辛料は単に辛さではありません。様々の成分をより消化、吸収しやすい形に変えてくれる働きがあると思います。
私の本の中にあるようなカレーなら、一週間に一度は作って何度か食べて欲しい。
そして、本当においしく滋味豊かなカレーのような印象の強い食べ物は、玄米や、タイ米などと実に素晴らしくおいしさを競い合います。本当に信じられないほどのとてつもなく心にも身体にもおいしいカレーができます。

(ピラフ-焼き飯)
これも良く分からない組み合わせです。大体どっちも同じようなもんだろうと思います。どこがどう違うのでしょうか。
ひらがなの焼き飯が日本の米で、カタカナのピラフがタイ米で作られたら、明らかにひらがなが負けてしまいます。それくらい日本の米はまずく栄養素がなくなってしまいました。この2つのご飯の間に違いがあるとしたら、炊けたご飯を炒めるか、初めから油を加えて炊くかの違いでしょう。そんなことはどうだっていいんです。
私の本の中にある炒飯を食べたら、幕内氏だって考え変わると思います。大事なことはカタカナ、ひらがなじゃない。どのように料理を作り上げるかなんです。

(スープ-味噌汁)
スープって言ったって、いろいろあります。自動販売機から出てくるやつとか飛行機で出てくるやつとか、とにかく原価を安く、あるいはおいしさなんてどうでもいいという考えで作られる、病院で出てくるやつとかばかりがスープじゃありません。確かに、どうしようもないスープもあるけど、ろくでもない流行だけの正しい発酵もしていない味噌、そしてそれを使って鰹の一番だしとかを使った水みたいな、具もあるかないかに少ない味噌汁なんかはろくでもないスープと変わりはしません。
確かに味噌汁は大事だと思います。私も大好きです。私は1日、朝昼晩3度以上欲しい。次の本でも私達は味噌汁を本当に大事に取り上げています。
でもろくでもないスープよりもろくでもない味噌汁ばかりだから、私は次の本を出します。

(ハンバーグ‐がんもどき)
果たして氏は、豆腐のもととなる国産の大豆にどれだけの微量栄養素が含まれていて、そして、それで作られた豆腐や油揚げ、がんもどきがどれだけ憐れな味わいと栄養素しか持たないかということを知っておられるのでしょうか。
ハンバーグって、単純に挽肉にちょっと玉葱かなんかを少し入れて丸めて焼いた物だってくらいしか、氏は分かっておられないと思う。
ハンバーグだってちょっと工夫すれば本当に身体にいいものができるんです。
それにしても、この2つの比較の組み合わせも少しも分かりません。どこに類似点があるのでしょうか。今日はハンバーグが食べたいと思って、でも作る時間がない、作れない。じゃ、代わりにがんもどきなんて誰が思うのでしょう。なんか悪ふざけが過ぎます。どちらも蛋白質源として考えるなら、植物である大豆で作るがんもどきの方が良いということなのでしょうけど、まあ以前のような大豆であり、豆腐だったら半分は同意できますが今の大豆では。

(ムニエル‐焼き魚)
この組み合わせは、ムニエルはたっぷりの油で焼く、こっちの方が油っこくて何となく身体に悪そうですけど、これは使う油だと思います。日本の味も香りもしない、異常なほどに精度の高い油脂は確かに身体にたまります。私も食べたくありません。
でもちゃんとした土地の豊かなスペインなどのエクストラバージンオリーブオイルは身体には溜まりません。様々な成分を分解する力がとても強い。それにオリーブなどの油は命を次代に繋ぐ為のものなのですから、日本人が下らない手をかけなければ、人間の命に必要なものをいっぱい含んでいます。
皆さんは知らないと思いますが、私達が口にする魚はヨーロッパの大西洋とか地中海産のものから比べれば本当に味わいが劣るんです。
全てに微量栄養素の欠けた今だからこそしっかりと微量栄養素を持っているオリーブオイルなどで、更に魚に豊かな味わいを与えることが必要だと思います。

(ハム‐ちくわ)
まあ国産のハムはたまに気分を紛らす時以外は食べない方が良いでしょう。手抜き、抗生剤たっぷり投与で飼育された、肉には何の味わいも栄養もありません。言語同断です。
それをごまかす為に、砂糖、化学調味料、発色剤など様々のものが加えられています。
でもたまには、外国のちゃんとしたハムを機会があれば食べるべきです。それらには日本の食材には失われてしまった微量栄養素が豊かに含まれています。
でも折角、スペインから来たようなハムも大抵どこで食べても古くなり過ぎ、かなり味わいが変わってしまってしまっているのはとても残念です。これはチーズなんかも同じです。

(チーズ‐豆腐)
これは諸手を挙げて反論します。
チーズは動物性の脂肪であり、蛋白質であるから取らないようにすると単純に言ってしまってはいけないと思います。
チーズは日本の正しく漬けられた漬物と同じものです。単なる動物性のものではありません。乳酸菌や酵母菌によって発酵し、更にその微量栄養素の形と幅を変えたものです。私達の身体が待ち望んでいるもの、そしてこの日本では得られなくなってしまったものを豊かに含んでいます。
頻繁に食べる必要はありません。でも週に2回くらいは少量でよいから食べるべきです。
でも国産の石鹸のようなチーズは私も死んでも食べたくありません。
豆腐、どこに行っても当たり前になってしまった、ただ歯にも感じないほどの歯ざわり、滑らかさだけが取り柄の豆腐なんて、私達が持っている健康食品のイメージ通りの役割なんか果たさないことを知らなければなりません。
舌先の圧力だけで形を失う絹ごしなんて、本当におかしいと思います。あまりにも淋しい日本人の味覚です。豆腐を感じないように豆腐を食べる、本当におかしな国になってしまいました。まあ、アサヒスーパードライ始め日本のビールも向いている方向は皆同じです。

(サラダ‐お浸し)
(ドレッシング‐三杯酢)

この2つは一緒に言ってしまいます。
氏は野菜はあまり食べるべきでないと言われていますから、ここで槍玉に挙げられているのはサラダって野菜サラダのことなんでしょうけど、やっぱり週に2、3回は食べたいですよ。野菜が新鮮で、ドレッシングがおいしければやっぱり生野菜っておいしいんです。
もちろん、ドレッシングの油は国産の精製油では駄目です。
そしてどこでも必ず甘いのです。決して砂糖なんか入れては駄目です。
生野菜と色んなものを一緒に取ればやっぱり身体にいいんです。
幕内氏はサラダっていうと、ただレタスなんかの葉っぱをキューピーマヨネーズとかをたっぷり付けたり、砂糖のシロップのようなドレッシングをつけてバリバリ食べるくらいしか知らないのではないのでしょうか。
サラダっていろんなサラダがあります。香り、味わい、歯ざわりの変化に富んだおいしさは、それを食べる人の心をやっぱり嬉しく豊かにしてくれます。
ところでお浸しって、氏はどんなものを食べられるのでしょうか。
三つ葉?春菊?ほうれん草?とんでもない、これらの野菜はもう人間や動物の食べることのできるものではありません。こんなのを食べれば必ず人間の心は歪んでしまいます。口のひん曲がるような異常な味わい、少しの栄養素もありません。ただ氏の知らないものまでひっくるめて「サラダ」なんて何となく大まかに書くもんではないと思います。ここでもやっぱり氏の食べ物の経験の小ささには少し疑問を感じます。

(ソース‐醤油)
本当に人を馬鹿にした、30%の水飴が入っているカゴメのウスターソースなら分かります。もちろんこんなものは決して買うもんじゃありません。でも、それから比べるなら醤油が幾らかましだってことだけです。今度の一連の試作であちこちから醤油を買ってきて使ってみましたけど、薄口、濃口、その他もったいぶった能書きの醤油とか、どれをとってもおいしくないんです。もちろん、試した醤油の数は限られてますけど、何の為に醤油を使わなきゃいけないんだろうと疑問を感じさせるものばかりでした。こんな味わいにちゃんとした以前のような栄養素がないのは全く明らかです。本当に理屈なしにおいしいと感じるものは一つしか見当たりませんでした。それは当たり前です。手抜きの農薬で爛れた農地で作られた、著しく微量栄養素の欠けた大豆でおいしい醤油ができる訳がありません。おまけにタンクの中で温度調節など人工的に四季を与え、酵母菌などを騙して発酵させようという訳ですから、以前のような醤油なんてできる訳がないんです。でもウスターソースでも、見よう見まねでも家庭で作ればちゃんとしたものができます。
でも何かおかしい組み合わせですよね、ソースと醤油。使う用途が違うんじゃないんでしょうか。
まあ無理すればコロッケにソースと醤油でいいでしょうけど、白菜漬けに醤油の変わりにソースかけるなんて人は、絶対いないと思います。

(ピクルス‐ぬか漬け)
これも比較の組み合わせとして的を得ていないと思います。
ピクルスだったら、らっきょうなんかじゃないのでしょうか。
何の味わいもなくなったらっきょうと比べるならちゃんと栽培された外国のピクルスとちゃんと作られた酢の方がずっと身体にいいですよ。
国産の変に甘ったるく、上品ぶった味わいの酢なんかいりません。私は日本の酢の代わりに、外国産の赤ワインビネガーを使います。こっちの方がずっと味わいが豊かですし、料理の味わいをも新鮮にしてくれます。
米にもう以前の栄養素がないのですから。ぬか漬けにしても、以前のような大きな力はありません。でもぬか漬けはやっぱりおいしいし、日本人にとっても大事な食べ物です。ぬか漬けは大事に伝えなければなりません。大胆な発想で私達は以前の、あるいはそれ以上のぬか漬けを次の本で提示します。皆さんの持っているぬか漬けの常識がことごとく打ち破られます。

(ミルク‐豆乳)
皆さんは多分分からないと思うのですが、日本の原乳って水っぽ過ぎて本当においしくありません。
フランスやスペインでのものとは天と地ほどの違いがあります。
まずいということは、充分な微量栄養素が牛乳の中に含まれていないということです。そして、大企業の勝手によって、日本でしか行われていない、超高温殺菌で僅かながらの乏しい栄養素さえもことごとく破壊されてしまいます。こういうロングライフ牛乳から比べれば、豆乳はいくらかましか知れません。
でも、例え日本のまずい牛乳であっても、低温殺菌の未だ栄養素の破壊されていない牛乳と豆乳どちらが良いかと言えば、私はまだ牛乳の方がましだと思いますよ。人間と牛の種による差と、それによって両方の乳に含まれる栄養素の差はあるといっても、どちらの乳も動物の初期の生命ははぐくむ為にあるのは同じですから、共通する動物としての必要なものはより含まれていると思います。
国産の大豆は微量栄養素が極端に欠落していますし、今の豆乳はそれから更に繊維その他の大事なものを取り除いたただ白さだけが豆乳らしきものですし、まだ牛乳の方が少しは旨いと思います。

(アイスクリーム‐かき氷)
これもよく分かりません。
両方とも凍っているただそれだけのことで対比させるだけの共通のことがあるとも思いません。
私は両方大好きです。特に子供の頃はそうでした。
でもかき氷にはいちご水、メロン水、何の栄養もありませんよ。ただ冷たさだけなんです。
アイスクリームには動物性の脂肪がたっぷり入っているから良くないって言うことなんでしょうが、でもどっちも頻繁に食べるものでもないでしょう。いいんじゃないですか。週に1、2度ならアイスクリーム食べても。
かき氷はただ単純な冷たさだけです。本当においしいアイスクリームには人の心の中に入っていくとても印象的な多様性がありますよ。人の心の小さな空間を形作る多様性があるんです。たまに食べるアイスクリームの脂肪よりもこの国の全ての領域の料理に加えられるたっぷりの砂糖が責められるべきではないのでしょうか。
もちろん、何の味もしない、餅の歯ざわりだけの雪見大福はアイスクリームではありません。

(ケーキ‐まんじゅう)
ここまでくると、氏は肝心な食の現状にはかなりうとく、自分の狭い経験の領域から抜け出すことができずに憶測でものを言われているのではないかという疑問に疲れを感じてしまいます。
私はケーキ屋です。ケーキにも実に様々のものがあります。どのようなケーキが悪いのでしょうか。まんじゅうにも様々なものがあります。豊かなあずきの味、香り、歯ざわりのある粒あん、そしてしっかりとしたごつごつとした歯ざわりの皮、この2つが力強く口に感じられるまんじゅうなら私もこの上なく大好きです。
でもこんなまんじゅうはこの国にはどこに行っても殆どありません。
どこに行っても歯にまとわりつく変に柔らかいだけの皮、何度も水をかえて、栄養素を捨て去り、更に何度も水を捨てながら煮た、滑らかなカスカスの舌ざわりしかないあずきが詰まった、空ろな味わいとしか言いようのないまんじゅうしかありません。本当にあずきには何の味わいも栄養素もありません。
私はそんなまんじゅうを食べたいと思いません。
ケーキにもただ卵と乳脂肪だけの塊といったものもありますし、私共のケーキのように日本の食材には全く欠落した微量栄養素を豊かに含んだ、スペインのアーモンドや果物や、ナッツを使ったものもあります。必ずそれを食べた人に元気を与えます。
お母さんなんかが私共の教室に通い始めてしばらくすると、生徒さんの子供達は、決して他の店のケーキは食べなくなります。子供は経験がないので不確かなところがありますが、今自分が口にしているものが自分の身体に必要なものを充分に持っているかどうかを本能的にかぎ分ける力は、大人よりずっと確かに持っています。そして子供はそのような自分の身体に良いものを充分に持っているものに素直においしさを感じます。
大人は殆どの場合、何の真実も持たない実態のない情報によって偽りの味わいを、おいしさと感じます。

(クッキー - せんべい)
この組み合わせも安易であると思います。
クッキーはバター、マーガリン、動物性の脂肪が入っているからあるいは脂肪がたっぷりだからなんでしょうが、クッキーにも色んなのがあるんです。
本当に豊かな微量栄養素を含んだスペインのアーモンドパウダーを加えたもの、やはり滋味豊かなフランスのくるみ、それに黒糖を加えたもの、実に多彩なんです。豊かな微量栄養素は少しの余分な脂肪なんか分解してくれますし、何よりも子供の発育期に必要なものを充分に持っているんです。
でも日本のもち米にはそんな栄養素は本当に少ない、そして割って断面を見ると真っ白な味も香りもない柔らかいだけのせんべいばかりです。
例え、澱粉であっても、微量栄養素の欠落したものは身体にたまり易くなってしまいます。
せんべいを食べさせればいい、それはあまりにも無責任な放言とも言うべきものだと思います。

(スイートポテト- 焼きいも)
まあ、私もたまにはやきいも食べたいと思います。
でもスイートポテトを食べたいなんて全然思いません。
今は普通の人でももらったら仕方なく食べるってところでしょう。私はもらっても食べません。そのようなものをどうしてここで取り上げなきゃいけないのでしょうか。

(ゼリー‐寒天)
別にゼリーを食べる必要もないし、寒天をことさら食べる必要もないと思います。

(ジュース‐麦茶)
ジュースってどんなのを指しているんでしょうか。
コーラとかファンタとか、合成物質をたっぷり使った、自動販売機から出てくるジュース類でしょうか。
もちろん、それらは飲む為の身体を直接的に蝕んでいく、正に「毒」以外の何ものでもありません。
飲んではいけない。
でも、国産の麦で作った麦茶もおいしくなく、味、香りのとても淋しいものだということも事実です。
喉が乾いた時には、まあ、毒ジュースよりはましだという程度のように思えます。
でも私は朝出かける前に早歩きで汗を流し、100%の無添加ジュースを飲んでいます。
フレッシュジュースのようにはいかなくても、日本の食材に失われた微量栄養素をより幅広く摂取するという意味では麦茶よりは良いと思います。
まあジュースを飲んで麦茶を飲むこともありますが、麦茶だけってのはやっぱり身体が淋しく思えます。
いずれにしても、ギンギンの冷たさで飲むことは必ず消化器系を破壊してしまうことだけは忘れないで下さい。でも冷たいものの取り過ぎがどれだけ恐い結果をもたらすかというはっきりとした認識は持たれていないのではないでしょうか。そんな指摘は少しもありません。
冷やしても10℃以上が、味わいもしっかりと感じることができます。

(コーヒー‐緑茶)
まあ、朝はやっぱり、眠気冷ましとかいうこともあってやっぱりコーヒーを飲んでしまいます。
でもコーヒーが全て悪いのかどうかは私にはまだ分かりません。
もちろん、砂糖たっぷりの缶コーヒーはいけません。そして日本人の愚かさが作り出した、殆ど全ての成分が炭化してしまった腹にドカーンとくる炭火焼きのコーヒーが身体に良い訳がありません。正しくこれも「毒」です。でも缶コーヒー、レストランでもこんな「毒」コーヒーばかりが溢れています。まあ物事の判断がテレビからの情報によってしかできない国民だからこそまかり通る、正に異常な味わいのコーヒーです。
でも香り豊かに焙煎されたものはおいしいと思います。
コーヒー豆とて次代に命を繋ぐ為にあるものですから。
でも私はコーヒーよりも本当は緑茶が好きなんです。でも今、おいしいと思える緑茶なんて本当にありませんよ。
根から人工的に吸収させたクロロフォルムの鮮やかな緑色だけのお茶ばかりです。お茶の栽培にはとてつもない量の強力な農薬が振り掛けられ、土も木ももう完全に衰弱しきっています。
とにかく飲む気がしない、死んだ味わいのお茶ばかりなのです。
こんなお茶だったら、毒としか言えない缶コーヒーや炭火焼コーヒーよりは幾らか毒性の弱い飲み物になりうるという程度じゃないでしょうか。
特に茶葉は手抜き栽培の為にとんでもない量の強力な農薬が浴びせられているか知っていますか。

(ウイスキー‐日本酒)
(ブランデー‐焼酎)
ウイスキーとブランデーの区別の意味も、それに対比する日本酒、焼酎の区別の意味も良く分かりません。
これだけは私は声を大にして言いたい。
拙著「狂った食の実態を暴く 破滅の淵の裸の王様」で詳しく述べているように、豊かな発酵を嫌い単純な発酵を良しとし、更に最終的に様々の旨み、微量成分をフィルターで取り除かれた今の日本酒や、焼酎に残るのはアルコ-ル分だけであり、これは私達の身体に直接的にダメージを与えます。
また、このように自然から無理やりに引き離した醸造法と、こじつけの味わいを目指して作られた日本酒や焼酎は飲む人の心に豊かさを与えてはくれません。
ただ惰性による酔だけしか与えてくれません。
皆さんがおいしいと思われている日本酒などの味わいは、実は実態のない思い込みの産物なのです。利き酒と称して口の中で長いことゴロゴロやらなきゃ分からない味はおいしさではありません。単なる低劣なこじつけです。本当の旨さとは、口に入れた途端に、思わず「旨い!!」という言葉が出るものを言います。考えなければ分からないものはそれはおいしさではありません。
でも、日本酒や焼酎はつまみなどを食べながら食事の時に飲むんでしょう。
ウイスキー、ブランデーはもともと食事が終わってから飲むものなんですよ。水割りにしても、他の食べ物と合う訳がありません。
少しは味の分かる人間だという自負があったら、ウイスキーやブランデーの水割りを食事中に飲むもんではありません。
対比自体がおかしいと思います。
日本酒だってもっと自然にかえした醸造法で豊かに作り上げれば豊かな味わいのものが出来上がります。
私は、食事中のアルコールは沖縄の泡盛のお湯割り、中華料理では紀興酒を飲みます。
味も香りもない、味の素のような薄ら甘い味わいのギンギンに冷やしたビールは私はどうしようもない時以外はほぼ飲みません。確実に飲む人の消化器系を傷つけますし、心から味わいに対する感覚を消し去ります。
全ての食事により豊かなおいしさを与えてくれるのは、国産以外のワインです。単にポリフェノールがどうのこうのではありません。
日本の土地には希薄になった微量栄養素を豊かに含んだぶどうの果汁が発酵と熟成によって、更にその旨みの形と幅を変えているからです。ワインには今の私達日本人の身体に不足しているものが無限に含まれています。
但し、日本についたワインは3ヶ月頃から腐り始めることは知っておいてください。完全に腐ったワインは私も飲みたくありません。あまりにもまず過ぎますし、翌日本当に耐え難い二日酔いになります。
よく売れている酒屋さんで、千円ちょっとの値段で、一番最近入荷したものをと聞いてください。50%の確率で腐っていないワインに当たります。高いものほどどうしようもなく腐っている場合がより多くなります。

以上、一つ一つ大人げなくムキになって反論しました。
左のカタカナ食品群を見ますと、動物性の脂肪、蛋白質を含んでいるものが殆どです。右側のひらがな食品群は、殆ど動物性のものを含まない、日本の以前からのものであることは分かります。

そして、今まで述べてきたように、ひらがな食品群の食材や料理は様々の理由で以前のようなおいしさ、微量栄養素を持っていないものばかりであることも分かりました。
つまり例え以前と同じ食材や料理の種類に単純に立ち戻ったとしても今の若者達の身体は私達の年代までのように元気に成り得ないということも示しました。

私はそばも大好きですがラーメンも大好きです。
いつもは我慢していますが、やっぱりたまには食べたい。確かにスープに浮くギラギラの油、あれは良くありません。でもそれがおいしいと作り手も食べ手も思っている。ラーメンが悪いんじゃありません。今の私達がおかしいんです。だからラーメンを正しい形に直せば少しも問題はないんです。
豚カツも大好物です。
もちろん、豚カツを毎日食べることには無理があるでしょう。でもたまに食べたってどうってことありません。
今急がねばならないことは日頃から、脂肪や糖分などを効率よく燃焼できる身体にしておくことが大事なのです。
つまり、今の日本の食材を駆使して、微量栄養素を常に充分に供給し、私達の細胞、器官の働きを正常に力強くすることなのです。決して、何を食べるなではありません。どのようにして食べるかが今問われているのです。又、この本には、韓国では学校や街の食卓には必ず昔からの基本の食の形である「漬物~ご飯」のメニューがあると述べています。
しかし、韓国の食材は過去の味わいと今の食材との間に、含まれる微量栄養素の差は日本におけるほどは生まれていないと思います。もちろん、私も何度か食べましたが、全ての野菜、肉などが日本のものとは全く違っておいしいのです。つまり以前として正常なあるべき姿なのです。本当においしい。
ですから、以前のおいしさに誰もが満足しているのです。そして彼ら韓国人の身体つきは本当にしっかりしていますし、エネルギーの強さが今の日本人とは全く異なります。
自分達の食の現実を理解することなく、他の事象の自分に都合の良いところだけをつまみ食いしてはいけないと思います。
今、私達は以前の食の習慣に立ち戻ったとしても、食材は全く変わりはて、おいしさと身体が欲する微量栄養素は含まれていないのです。

私達は、今私達が手にする微量栄養素の欠落した素材を見つめて私達の身体と心が求める形に料理を変えていかなければならないのです。
それが今、私と椎名が作ろうとしている「日本の為の家庭料理」なのです。

素材の真実の状況と料理の素晴らしさと可能性、心と身体が喜ぶ本当のおいしさを理解できぬ人達に、人に料理を説き、栄養学を語ることはできません。
この何十年間かに、無責任なパーシャリスト達によってバラバラに破壊されてしまった食を、再びより望ましい形にする為には、舌、五感を通し、心と身体の喜ぶおいしさを知りうる人の正しい感覚をこの領域に導き入れなければ不可能であると思います。

断言します。私の舌と五感は、今私達が口にする国産の食材には、私達の身体が必要としているものは、私達が想像する以上にあまりにも著しく欠落していることを感知しています。
氏の著書の中にある、氏の食事指導によって病状が改善したといわれる人達の多くは、どの日本人の目から見てもおかしい不必要なダイエット、ポテトチップス、自動販売機の缶ジュースなどを多量に取るなど、好ましくないあるいは異常な食習慣にある人達が、それよりはましな玄米食や規則正しい食事によって、どうしようもない状態よりは多少改善されたということだけではないのでしょうか。
ただ氏が主張するように日本の玄米や、野菜、イモ類を主として食事内容に切り替えたとしても、単純にそれだけではこの日本を覆い尽くす、もっと深い根を持つ、アレルギー、潰瘍性大腸炎、子宮内膜症、その他の病気、そしてその国に住む者のよりエネルギッシュな健康の回復が可能になることは決してありません。日本人の上に重くのしかかる生命の尊厳を凌辱しようとする流れを変えることはできません。
しかし、幕内氏は、決定的に日本の食材にこの微量栄養素が既に大きく欠落してしまったことに気付いていません。
それは無理もありません。他の栄養学者から比べれば少しは広い視野から食べ物を見られているように思えますが、食べ物に含まれている栄養素を舌で分析する力は他の方々と同様に持っておられないからです。

そして、食事指導を業としている人として、最も大事なところが、他の100%の栄養指導と学者と同じように分かっておられません。
日本の今の食材が昔の食材から比べれば、微量栄養素が少しは減少していると氏は気付かれているでしょう。しかし、その認識の程度は前述のように氏にとっては、それほど問題にしなくて良いほどに少しなのです。著しくではないのです。
次に氏は、その微量栄養素の欠落した食材がどのように調理されているかを少しも理解していません。
今までのエッセイで明らかにしたように、主にマスコミの主導の元に作り上げられた頭でっかちの、形式的な、上品な澄んだおいしさの為に微量栄養素が更に素材から捨て去られていることを少しも理解していません。
これは家庭料理法の中にまで深く浸透しています。又、氏が勤める手作りのおかずを出す居酒屋の料理にも、人気のある定番の煮物を揃えている駅弁にもこの料理法は貫徹されています。
そしてこれらのどの料理にも異常な量の砂糖が使われています。
文中で今、日本人は砂糖を多く取り過ぎているとあり、スナック菓子や缶ジュースだけを問題にしていますが、もっと問題なのは料理に加える砂糖ではないのでしょうか。確かに氏の本にあるメニューでは、他の先生方から見れば料理によっては砂糖、みりんは少なめです。しかし一般の家庭で作られている家庭料理では驚くほどの量の砂糖が使われています。
どうしてそれを大きな声で指摘されないのでしょうか。
以前の食生活に戻らなければならないと説かれますが、以前は一般の家野料理には砂糖などは加えられなかったのです。それとも精製度の低い三温糖や黒糖を使えば大丈夫とでも言うのでしょうか。砂糖の取り過ぎはどちらも同じことです。これらのことは、氏が本質的な食べ物の持つ役割を理解していないことによります。
そして同時に食べ物のおいしさの意味を理解していません。
しかし、これは他の方々も同様です。この日本に生まれ、住み育った人達はこの20~30年の間に本当のおいしさとおいしさの意味を忘れてしまったのです。
私はフランス・スペインなどと日本を行き来する中で、本当の日本古来の料理のおいしさに薄っすらとは気付いていました。しかし、それを更に実感し、確信したのは、この半年近くに渡る一連の試作を通してでした。
以前のエッセイでも述べましたが、今、この国にはパーシャリストのみが大手を振って歩いています。全てを総体として有機的に捉え得る人がどの分野においてもあまりに希少であると思います。

人間の心と身体の幸の為の栄養学と料理法は、その中に含まれる無限の要素を一つの結びつきの総体として捉えることができる、味覚、五感を中心に考えなければと思うのです。少なくても氏が述べるように、又私も考えるように今の栄養学は何一つとして確固とした情報を与えることはできないのですから、この五感による分析に、幾点かは重きをおかないといけないと思います。
本当のおいしさとは、人間が初期の生命から進化してきた中で私達の生命維持にとって必要な微量栄養素を、充分に含んだ食べ物に対しての感覚なのです。遺伝子の中に集積された必要な栄養素の情報に多くのものが合致する時においしさを感じるのです。
つまり、今、目の前にある、あるいは口にする食べ物が、望ましい食べ物としての遺伝子に集積されている情報に大きく共鳴した時に「望ましい食べ物」としての本来のおいしさを感じるのだと思います。

しかし、今の微量栄養素の欠落した素材では、このおいしさを感じることはできません。
そこで、今、このおいしさを感じることのできる素材や料理に私達の手で変えなければなりません。
つまり、私達の身体が望んでいる料理に変えなければならないのです。
確かに今荒み切った食生活を以前の形に戻さなくてはならないという心情は分かります。しかし、機械的に「粗食のすすめ」のように以前の献立に戻そうとするならそれはあまりにも短絡に過ぎるように思えます。


私は1日のうちで夜飲んで食べている時が一番幸せな時です。人間が食べ物を口に入れるということは単に必要なエネルギー源を摂取するというだけではありません。食べ物の中に作り手の想いや、自然の機微と、自然との繋がりを知るのです。
そして何よりも人間は全ての行動の中により大きな多様性を見い出そうとします。
人と人との関係の中に、己の人生の空間の中に、そして食べるという行為の中にも多様性を求め続けるのです。


この30~40年間に、多くの人が考えるように穀類、野菜主体の食生活から肉類を多く取るようになったことが、今の日本人の様々な健康上の問題を起こしていると他の多くの方々と同じように幕内氏は述べています。
確かに、それは否定できない側面でしょう。しかし、私はそのことが最も中心となる要因だとは考えません。そのように新しくより多く食べるようになった肉類を始め、以前からある穀類などにも以前のような充分な微量栄養素がなくなっていることに起因していると思います。
その肉類、穀類どちらにも私達の身体の細胞や組織、器官をあるべき形と機能を持ったものに、作り上げる為の建築資材となるべき必要不可欠な微量栄養素が欠落しているのです。
肉類の量を減らし、穀類を多く食べるようにしても、若干の状況の改善はあっても、より本質的な改善を導くことは不可能であると私は確信します。

又、既に、私達は、30~40年というかなりの期間、肉類を食べるという歴史を築いてしまったのです。そしてそのおいしさも知ってしまったのです。それを否定的なものとする自己抑制的な食事を提示して何の意味があるのでしょうか。
幕内氏のもとに訪れた患者さんには、そう忠告されれば良いでしょう。
しかし、問題はこの日本の住人のより多くの不特定多数の人々が受け入れられるものでなくてはならないと思います。
もう、私達は豚肉や牛肉の旨さを知ってしまったのですから、それらを食べる喜びや嬉しさをもっと多く完璧に補完するということによって、それらを私達の身により有効なものにしなければならないと思うのです。

この本を通じて思うことは、とてもあいまいな点が多くあることです。「口のできる限り~のものを取るようにしよう」というところです。「できる限り~」と言うのはそれぞれどの程度のものを指すのでしょうか。

とてもあいまいです。著者はそれぞれの食べ物のこれだったら大丈夫というあるべき望ましい程度を知っているのでしょうか。そして、それが、経済的に余裕のない半数以上の多くの人が手にすることが可能なものであるか理解しているのでしょうか。
そして、この本の決定的な欠陥は、本当のおいしさを知らぬ人が、より大きな意味の食べ物の全容を見極められぬままに、食べ物を全てを知り尽くしたように論じていることです。
氏は、私達のこの国で生産される食材そして、それを使った料理やお菓子の真の姿を理解していません。
そして、幕内氏が良くないと断じる素材や料理などについても、幕内氏が肯定的に述べているものよりもより私達の身体が必要としているものを充分に持った、素晴らしいものがたくさんあることを知りません。

(2003.10.19)

第17回 「時代の雰囲気とそれに媚びる食」


 6月30日、10月発刊の日本の家庭料理の本の為の70種類の家庭料理の試作と撮影が終わり、一口で言えば、私の心と身体はかなり気が抜けてしまったようです。

とにかくよく椎名、スタッフと共に作り続けました。食べ続けました。試作の日々は新しい発見の連続でした。久しぶりの充実した日々でした。

それにしても情けなく淋しいことは、その発見の一つ一つが、如何に日本というシステムは虚構の塔であり、そこに住む日本人の意識の表面からは皆無に近いほどに真実が消え去ってしまったかということを思い知らせてくれました。
私が関わりを持ち、そして私の視線が少しは行き渡る、少なくとも「食の領域」では正にこの国の枠組みは嘘の連続なのです。嘘が集まり、一つの大きな力と組織性を持ち、私達の意識の中に最も真実らしきものとして居座っているのです。

勿論私達日本人には真実を見据えるなんて力も習慣もありはしないのだけれど、でも心のどこかで、今私達は嘘の塊の上で生きているということはおぼろげながら気付いています。でも余計なことは考えないで、例え自分の子供であってもとにかく今の自分以外のことは、その行く末なんか知らん振りして今に浸り切ろうとしています。でもこれも本当のことなんです。私達は今、自分以外の人間は例え自分の子供であってもどうなってもいいんです。本当に自分の子供のことを考えるなら、水道の水やお湯さえも出し放しにはしません。水道の水は川に流れ、塩素がトリハロメタンという発癌物質を、お湯はガスを燃焼させCO2を発生させ、地球温暖化を早めます。無造作に豪快に伸ばしたラップも、いずれは子供達にかえってくる大きな無駄なのです。
でも自分だけが良ければいいと開き直っても何か不安です。やっぱり言い知れない不安が心の奥底で私達を見つめています。
そんな時、必ずこずるく時代の雰囲気を突っついてしたり顔をする、時代へのすばしっこさを持った太鼓持ちが現れます。そして真実と呼べるものなど何もない、時代への太鼓持ちへの、更なる太鼓持ちになることをいささかの恥とも思わない最たる嘘つきはマスメディアです。テレビや本の編集者もその真実の全貌など捉えることなどできはしないのに、とにかく金儲けの為に、その時代のすばしっこさにのみ才ある者と共にこの日本に嘘を撒き散らし、意地汚くそのおすそ分けに預かろうとします。

さて、本題に入ります。
前回の故土井勝氏の料理についてのエッセイに対しては、即座に否定的な感想が2つありました。又、薄々彼らの料理法は間違いであるとは感じてはいたが、口にする自信はなかったという感想も2つありました。
きっと多くの方が、否定的な感想をもたれたのだろうと思います。
しかし、私は執拗に論を進めていきます。
今回は「辰巳芳子氏の料理法」です。
今回も多分、高齢の方に対しての全く人非人の所業であると多くの方はうんざりされるかもしれません。

私は初めて、辰巳氏の「味覚日乗」という本を読み、感銘を受けた一人です。これほど深く日本の食の、しかも伝統的なものを大事にされている方がいるということに深い尊敬の念とほっとするものを感じました。
この「味覚日乗」には辰巳氏の女性としての細やかな感性による、季節とともにたたずむ自然の恵みへの深い憧れと喜びが感じられます。私のような半端者の心にさえも、私たちの祖先が感じた、自然への敬いと自然との優しい繋がりが一筋流れていくのを覚えます。
 確かに、このような感性は、失えばもうどこにも取り戻すことが出来ない日本の心かもしれません。
 この本を読んでから、何とか辰巳氏と御会いして、この本の言葉につながる深い余韻をこの身に受けたいと、何人かの方々に御会いできる機会はないものかとお願いしました。
 そのような中で、私は高まる感情を持って、辰巳氏の2冊の実践の本を取り寄せ、読みました。
 しかし、そこには、「味覚日乗」とは異なる、料理観と料理法が示されていたのです。
 私は愕然とし、大きな理解できぬ混乱を感じました。確認のために幾らかの料理も実際に作り食べました。
後日、改めて「味覚日乗」を読んでみました。
 私などが生まれ育った環境での料理は、その日の空腹を補う為のものであり、身体の飢餓感を充足させることがすべてでした。家族の誰もが、日々の忙しさの中で限られた時間と、限られた季節の素材の中で季節とその味わいを感じていたのです。もう一度読み返すことによって、辰巳氏の麗美な食の考え方に田舎者の私は、圧倒されていたことを知りました。

確かに辰巳氏の御家族が作られてきた料理は、日本文化のある一部分ではあるのです。
しかし、それは当時としてはお手伝いさんをおけるほどのところにおられる方の文化なのです。しかし、その下にある最も多数を占める庶民の実際の姿ではないのです。氏が何度も記されている古き文化を伝えていくということはこの様な見た目に美しい、上の階層の方々の習慣のみを最もあるべき姿として、私達下々のものに押し付けるものではないと思います。

私達にとっての家庭料理とは限られた時間と限られた家計で、限られた素材の種類と量から可能な限りの充分な栄養素と、そして季節を慎ましやかに味わうものだったはずです。
 自然をうれしく共受するということは、辰巳氏の家庭のように、充分な時間的余裕と環境の中で、意識的に心構えを持って自然を受け止めることがすべてではありません。
忙しさに流され日々があり、そこに別に意識などせずに慎ましやかな自然の恵みを得ることなのです。

確かにこの本も辰巳氏だけの世界である限りは何の問題もありません。しかし辰巳氏は社会に何かしかの影響を与ええる立場におられます。

私を失望させた2冊の本は次のものです。
「辰巳芳子の家庭料理の世界」―「手しおにかける食」の提案
「いのちをいつくしむ新家庭料理」
特に「辰巳芳子の家庭料理の世界」の中にある料理は、故土井勝氏の料理の世界と何ら変わることのない、私の目からすれば、決して家庭料理とは相容れない、又家庭の料理に入ってきてはならない、正に料理研究家の皆さん自身の為の「雅」の料理なのです。
その中の基本的な料理を、数種作りました.それは自分の想像以上に異常な、手順をいたずらに複雑にした正に実態のない、「裸の王様」の為の味わいでした。そしてとにかくまず過ぎます。とんでもない、甘さ以外に何もない豆腐の白和えの鈍重な味わいには、心に寒いものを感じます。煮しめにはそれぞれの素材に何の味わいもありません。うま煮、これも素材の何の味わいもなく、ただただ甘いだけなのです。

煮しめ
それぞれを食べた後の全体の印象は、素材の死んだような味わいです。それぞれの素材の味わいは大方取り除かれ、屍のような全く味気のない素材を口に入れる、そんな感じしかありません。
ごぼうの香りも味わいも歯触わりも、里芋の香り、歯触り、味わいも失われ全てが同じ調子です。それぞれの素材の個性が抜き去られているので、違った素材を口にしようが、それぞれの素材感の味わいのコントラストは全くありません。一口で言えば、楽しくありません。つまらない。
それぞれの素材の個性は完全に抜き去られているから、それを食べる人の心に身体が語りかける素材の機微は何もありません。
素材の個性も抜き去れば、もちろん、素材の持つ季節感はことごとく失われています。
これがおいしさなのでしょうか、食べる人の命を慈しむのでしょうか。
例によって驚くのは、あまりにも度を越した素材のあく抜きです。
 水とぬかによるごぼうの下煮で8分ほど柔らかくする。
 こんにゃくは塩で揉んで水で洗い、下茹でする。
 焼き豆腐は、縦二つに切ってから1.cmの斜め切りにして、ヒタヒタの水でぐらぐら茹でて、すを入れ、ざるにあける。
 蓮根は皮をむき、7~8mm厚さの輪切りにして酢を少々つけ、水に浸ける。
 人参は皮を向いて7mm厚さの輪切りにして、水に10分浸けてあく抜きをする。
 鍋に人参と煮汁を入れふたをし、弱めの中火で柔らかく煮る。
 ごぼう、ものの見事にごぼうらしさが消え失せています。やっとごぼうらしさが弱々しく残るただ頼りない生気のない歯触り、味わいです。
 こんにゃくも、本当に間の抜けた、味も匂いもしない物体に変わっています。
 焼き豆腐、正に寒々とした何の味わいもない、舌先と水っぽさしか感じられない、豆腐らしき得体の知れぬ味わいです。
 蓮根、ただしゃりしゃりした淋しい歯触りだけです。
 人参も、本当に悲しいほどに優しく間の抜けた味わいなっています。
 例え、それぞれの素材の煮汁を最終的に完全に含ませてしまうといっても、①~⑥までのものが素材から抜き取られています。
まず、それぞれの下煮などの煮汁の入ったボウルの前に、それぞれの素材を食べて見ます。
改めて、これらの煮汁を一緒に眺めると、いかに大事な栄養素が全く小難しいだけの意味もない工程によって捨て去られているのが良く分かり、それが恐ろしさをも感じさせます。
そして、表情をなくした、味わいをなくした、栄養素をなくした素材で、おびただしい量の砂糖、味醂という、甘味料で味付けをします。
全ての素材が同じような死んだような表情です。
これが素材を手塩にかけるということなのでしょうか。辰巳氏が本の中で述べられている「ものに従う」ということなのでしょうか。あまりにも不条理さに満ちた人の身体と心を傷つける料理法以外の何ものでもありません。

白和え
この白和えに至っては、私はとてつもない異常さを感じてしまいました。
10月下旬に出版される予定の私の家庭料理の本では、白和えは作るべきではない料理に振り分けられました。何故なら、あまりに素材の恵みを無視した料理だからです。
豆腐の製造過程でも、かなりの大豆の栄養素が抜け落ちます。そしてさらにその豆腐を絞って、大豆の旨味、栄養素を含んだ水分を絞り取り、ますます大豆の恵みが希薄になるからです。その様な、過度の繊細さを求めるようなものは作るべきではないと考えるからです。
実は私も白和えは大好きなんです。でも残念ですが、作りません。
しかし、この本の白和えの製法は、ほぼ狂気の沙汰としかいいようのないところまできています。
 豆腐は茹で湯に塩を少し加え、80℃程度を保ち、静かに7分ほど茹でる。これをさらし本綿のふきんで下包みし、更にタオルで包み、板の間などにはさみ、軽い重石をして2時間水切りをする。
 この製法では、更に豆腐から、塩の浸透圧を使ってまで、豆腐の旨味、栄養素をあくと称して抜き去るのです。ますます豆腐は下触りだけのものに変わっていきます。
 でも私が白和えを好きなのは、あの優しいそれなりにある豆腐の少し形をかえた個性的な味わいなるのだと思います。決して、舌ざわりだけにあるのではありません。ところが、その豆腐の味わいを更に取り除こうとするのです。そして驚くことは、これに加えられる砂糖の量とみりんの多さです。あの淡い白和えを感じさせる舌触りまでもが、おびただしい量の甘味料の糖度によってべっとりとした気持ちが悪いとしかいいようのない舌触りになっています。そしてそこにすり胡麻です。べっとりとした舌触りに更にすり胡麻の重い舌触りが重なり、あまりにも鈍重で不快な舌触りになっています。
そして、耐え切れないあまりにも度を越した甘さ、これらの不快な味わいが、その他の素材の表情を消し、足蹴にしています。これは古き時代からの守るべき味わいでは決してありません.。この白和えを口にした時、全ての者が、「え、何これ、食べれない。砂糖の量間違えたんじゃないの?」と口にしました。

うま煮
このうま煮はどこが旨くてうま煮なのでしょうか。
この料理も素材の味わいは消え失せて、ただのっぺら棒な甘さが全ての料理です。
 ぜんまいはヒタヒタの水に一昼夜つけ、水を数回取り替えながらもどし、柔らかく茹でて、4~5cm長さに切り、サラダ油少々で炒める。
 これだけ念入りにぜんまいを痛めつければ、もうぜんまいらしさなんてほとんど残っていません。味わいのなくなってしまったものを、又、余計な工程を持ち込み、サラダ油で炒め、味わいらしきものを作り出します。本当に稚拙な考え方としか言いようがありません。
 このぜんまい80g(乾燥で)に、山盛り大さじ2杯の砂糖で、甘く甘く煮て一晩味を含ませます。
 青菜は熱湯で茹でて流水に取り、3cm長さに切っておく。
 最後に、甘い干し椎茸の含み煮の煮汁とだし汁で全てに味を含ませながら煮ます。
それにしても、ここでもおびただしい砂糖の量、そしてその甘さに驚きます。
砂糖の甘さは、その素材や料理の中に、私達の心と身体を育むために必要な栄養素が欠落していることを隠します。
そしてその素材が持つ季節の息吹や.素材の機微、彩りを消してしまいます。料理の作り手が料理の中に注ぎ込む愛を包み隠しています。
この様な食べ物を食べ続ければ、子供は必ず心と身体を蝕ばれていきます。自然の息吹を人間は絶たれてしまいます。
本当は命を慈しむはずのものが、命を傷つけていきます。
人と人を結びつけるはずの料理が、人と人を離してしまいます。

私の悪口にもううんざりされている方々にしても、これらの料理を口にされれば、私のエッセイ以上にうんざりされると私は思います。
是非一度、作られ、そして食べてみて下さい。これが日本人が大事にしてきた日本人の味であると感じる人は一人もいないでしょう。
私は断言します。辰巳芳子氏の料理は、人の命を傷つけることはあっても、「人の命をいつくしむ」ことはできません。
しかも、下ごしらえ、下煮などあまりに意味のないこじつけの工程が、あまりにも多過ぎます。私達の次の本の作り方の倍以上の時間と労力がかかります。
しかし、できるものは正常な感覚の人間であれば、誰もが決しておいしいとは思わない、というより、とんでもなくまずい料理なのです。
何人かの方々は、もう気付かれたはずです。辰巳氏の「手しおにかける」という料理法は私が第3回目のエッセイで述べた、柳原一成氏と前回の故土井勝氏の作る料理と同質のものなのです。
料理研究家がマスコミの中で、自己顕示欲と自分達の料理の秀逸さを他に知らしめる為に積み上げられた、本来の「命をいつくしむ為の料理」には全く必要のない工程の積み重ねによって作られた料理なのです。
一つの素材を「下茹で」をしてはあく(栄養素)を捨て、更に再び「下茹で」をしてはあく(栄養素)を捨て、それぞれの素材に香りも、歯ざわりも、味わいができるだけ残らないように「手しおにかけ」、そして最後に、たっぷりの砂糖で上品な(異常な)味付けをします。

随所に出てくる「煮干し臭さ」とか「~臭さ」には、この方の料理の考え方が如実に表れています。
煮干しなんて、彼女が考えるようには少しも不快な匂いなんてありませんよ。私共の今度の本には煮干しは必ずどの料理にも使います。少しも気になるような匂いはありません。この煮干しは私達日本人が狂気の如く、喉をかきむしるほどに欲しがる、砂糖の「甘さ」だって与えてくれる最も基本的で大事なものを豊かに含んでいます。
匂いがどのようなものであれ、豊かな匂いは、その素材の料理が充分な栄養素と旨味を持っている証であり、匂いは素材や料理の良し悪しを判断する為の大事な手段であることを知りません。又、何よりも慄然とさせられるのは、料理にとって、とても大事な匂いというものを、自分達のお上品な味わいの為に私物化してもて遊んで良いという傲慢で重大な考え違いをしている。
身体と心が喜ぶ料理には必ず豊かな匂いがあるということを知らない。

「いのちをいつくしむ料理」とありますが、辰巳氏は何の為に料理を食べるのかという、最も基本的な意味を他の料理の先生方と同様理解していません。少しも不快な臭みなどない、煮干しの頭と腸を取り去って使うなどという行為は正に、茶懐石、武家の本膳料理に源を持つ、観念的な彼女達のような特別な領域におられる方々の為の料理法なのです。
彼女の母上は、やはり懐石料理の作り手との交流の中で上品な味わいを作ってこられ、そして辰巳氏もその中で、辰巳氏自身の家庭料理を作ってこられた。それは構いません。その事によってこの御二方は社会的な名声を得られてきて、その料理を自分達で食べられてきたのですから。
しかし、その様な実態のない上流社会の味わいや料理法を、御自分達の更に華やかな社会的立場を得る為に、一般家庭まで、持ち込むべきではありません。
辰巳氏の素材に対する認識には更に決定的な誤りがあります。
今手にする素材は、彼女の母上が生きてこられた、あるいは辰巳氏が幼少の頃のものとは栄養価、つまり含まれる微量栄養素が全く著しく減少しているということです。

確かに女性の社会的進出、間違った意味での男女平等などの考えの中で、家族の食事の為に長い時間を費やすのは下らないことであり、できるだけ手を抜いて、早く食事を終わらせ、テレビの前に座り、下らない番組にうつつを抜かすことが最善の価値のあるものだと考えるようになった時代の愚かさは理解できます。それを憂う気持ちは理解できます。
しかし、私は声を大にして叫びたいのです。その時代の愚かさに手を貸し、そして自分達の寄って立つところの正しさを証明することのみを目的として、いたずらに料理を小難しいものにして、そして何よりも、料理から身体が待ち望んでいる本当のおいしさを奪い、作り手から料理を作る意欲と喜びを奪ってしまったのは貴方達ではないのでしょうか。世の中の多くの人々が手抜き料理へと向かっていく後押しをしたのは貴方達ではないのでしょうか。

どうしてこの国の大多数の人々が日々作る家庭料理に、貴方達が亜プロとして実践してきたような上品な料理を作る為の訓練と気構えが必要なのでしょうか。
本当のプロというものはその料理や技術を作るのに自分がかかった1/3の時間で教えることができて、初めて理解したことになるものです。しかし、この本には、作り手を思いやる気持ちが少しも感じられません。この本を見て、「よし作ってみよう」と思う意欲を持てる人はどれくらいいるのでしょうか。
素材を切って鍋に入れる。ただそれだけなんです。家庭料理に「秘訣」なんてあってはなりません。

又、「辰巳芳子の家庭料理の世界」P118の「異文化を取り入れる」では、辰巳氏の料理に対する考え方が如実に表れています。
鍋の中で、水分(煮汁)の中に様々な素材を一緒に入れ加熱するということは、それぞれの素材の旨みが煮汁の中に抽出され、その旨みが渾然と混ざり合い、それが再び素材に吸収され、更により深く旨みが混ざりあり、更に深くなった渾然とした旨みが煮汁に抽出されと、様々な作用が同じに起こり、一つの深い味わいが連鎖的に出来上がっていく、煮れば必ず大根にごぼうの香りは移り、一緒に加えられた豆腐は様々の野菜の味わいを吸い込む。これは全く当り前のことなのです。そして、一度に素材を煮汁と入れて煮られてきた、私の会津の田舎の作り方もそうでした。
そして、私はそれをとてもおいしいと思っていました。
それを何故に、料理研究家方々の気まぐれで、それぞれの素材の味わいがお互いの味わいを高めあうことを、悪しき味わいとしてわざわざ素材を一つ一つ下茹でし、炒め、油を湯で流すなどと、余計な工程を押し込んで従来の伝えられてきた作り方、味わいを捻じ曲げてしまうのでしょう。
私は本質のところで、このような方が、日本の古くからのものを最も破壊していると思います。彼らは形式の伝統、自分達に都合の良いように伝統を演出しているに過ぎないと思います。
深い味わいの「けんちん」が「旧来の陋習で身動きできないことは、その根源的欠陥を異文化で洗ってみる。洗い方は異文化の表層でなく、やはり根源で洗う。」とあります。どうして深い味わいを持ったこの日本で作られ続けてきたものが、旧来の陋習なのでしょうか。
又、フランスのプロバンスで作られ、ずっと多くの人達が愛しつづけてきた、ブイヤベースを「西欧式の濃厚なフュメ・ドゥ・ポワソンにさらに魚介を投じるのに疑問を持ち」とあります。
私は辰巳氏のこの言葉に典型的な矮小で頑迷な日本人の心根をみます。様々の土地土地の人々が常日頃、ずっと口にしてきたものは、必ずその土地、風土、地理的な固有の条件から生まれてきた必然があるのです。
私もフランス菓子を作る者として、フランス的なものとは多重性と多様性であると理解しています。陸、海を問わずフランス、スペインの産物はとてもしっかりした、日本の産物とは格段の差がある味わい栄養素の豊かさを持っています。ブイヤベースももちろんその一つの料理です。私はニースなどに行くと必ず地元の人が行くレストランでブイヤベースを食べます。本当においしい。食べている時は何も考える必要もありません。本当に心と身体が待っているおいしさです。辰巳氏の料理のように無意味な手間をかけ、作った苦労を自分で想いながら、あるいは食べる人にひけらかしながら、無理においしいと感じさせるおいしさではありません。
多分、辰巳氏は、このブイヤベースには日本人が持つ、繊細さなどは欠片もないと思われるのでしょう。
しかし、私達日本人の舌は繊細ではありません。
フランス、スペインなどから比べれば、以前から地理的、気候的な要因で、日本の土地はとても貧しく痩せているのです。もちろん産物もそうです。
つまり味わいの薄いものを先人もずっと食べてきました。更に最近は狂った生産法が素材の味わいをなくし、更に故土井氏や辰巳氏らが作る、旨みも取り去った間違った料理を食べ続けていくうちに、しっかりした味わい、香り、歯ざわり、味わいがそれぞれこだましあう多重性と多様性は少しも理解できなくなりました。それだけのことなのです。
このような身のほど知らずの無知さで、ブイヤベースをけなし、「異国の都合の悪いところを日本の文化で改善することもある」と言われます。これは私以上に傲慢であり、あまりにも頑迷な精神と言わざると得えません。
又、ジョエル・ロビュッション氏と提携し、東京で「タイユバン・ロビュッション」を経営するジャン・クロード・ヴィリナ氏との誌上対談の中で辰巳氏は次のように言われています。(ジョエル・ロビュッション氏の料理については第6回で述べています)
「私の場合はものに従っているんですね。本質を理解し、食材に従っていく。行き着くところは、ものの世界との向き合い方ではないでしょうか。ものを支配するとか、自分の欲しいままにするのではなく、ものがして欲しいと思っていることを。」
私はこの言葉はとんでもない虚言であると思います。
素材がして欲しいこととは、素材の持つ自然の恵みを、おいしさを全て短絡的に、自分達の「雅な料理の世界」の為に「あく」として、無用なもの有害なものと決めつけこれを執拗に取り除き、そして素材の持つ、季節感、味わいの表情の機微を捨てることを素材に強いることなのでしょうか。
そして私にとっては、悪意に満ちた「足かせ、手かせ」としか思えない鈍重な砂糖の甘さで素材を絞りつけることなのでしょうか。
そして、自然の恵みと、それに従うべき人間との間を切り離し、私達の身体を傷つけることなのでしょうか。
日本に住む人達の心と身体を傷つける虚構の料理法と、それをいささかの定見もなく、ただ自らの営業目的だけの為に、さももったいぶった顔のもとに私達に押し付けるマスコミの、あまりに厚顔無知な考えに、私は絶望的な苛立ちを覚えます。
全てとは言いません。しかし、いくらかの真実は伝えるという、社会的主義性を求められる出版社が、実際はこれもまた完全な虚構の体系を真実であるか如く装いながら、私達に示しているのです。
最後に私はインターネット上で辰巳氏に質問を2つさせて頂きます。
1つ目は、何故和の家庭料理では、これほど執拗に素材からあくを取り除かれながら、西洋料理に於いてなされないのでしょうか。
「いのちをいつくしむ料理」のに出てくる、フライパンにこびりついた焦げた素材の成分を煮汁などで溶き、またこれを料理の中にもどすデグラッサージュはまさに「あくの固まり」ではないのでしょうか。
2つ目は、日本料理と西洋料理は料理を作り、そしてそれを食べるという目的は同じなのでしょうか。それとも異なるのでしょうか。
以上、御答えを御待ちしております。

(2003.9.26)

 

第16回 「私達はこれほどまでに、嘘を真実として手易く受け入れてしまう愚かな国民なのか」


今、私の目の前には日本人の愚かさをものの見事に表した、異常としか表現のしようのない日本の家庭料理の虚構の体系を記した本があります。
それは、故土井勝氏の新版「基礎日本料理」です。
私はこの本を読み進むにつれ、捉えようのない空しさと恐ろしさを感じました。土井氏は正しくかつては日本料理界の中で、ある面では中心的な立場にあり、しばしば全国に自ら赴き、この本に表された料理法をテレビや出版社の大きな力を背景に、マスメディアによって、望ましい日本の家庭料理の絶対的な基礎として広められたようです。
しかし、私はあえて断言します。ここに記されている料理の作り方の体系は、決して本来の、作る人と食べる人の心と身体に喜びを与えるものではなく、料理を作る人には、意味のない、たまらない面倒臭ささを与え、そして料理を作ることの意欲を奪い、食べる人にとっては空虚な実感のないおいしさと、計り知れないほどの健康の破壊をもたらしてきたであろうことを。
正にこの本は、虚構の体系なのです。
この本には料理の最も大事な栄養素については一点の配慮もなされていません。
土井氏も他の料理研究家と同じように料理はそれを食べる人の健康の為にあるとこの本の中で言われています。しかしそれは真っ赤な虚言です。彼の意識の中には食べる人への配慮などは全くありません。この方にとってはそんなことは何の値打ちもないのです。
目指すところは、自分しか作り出し得ない「上品な濁りのない味わい」です。そしてそれを作り出す為に自分は他の人が考え出し得ない様々の素晴らしい技法を編み出してきた。その様々の技法が日本の料理界により望ましい形をもたらしている、と言っています。彼は全くの味覚の分からない人です。最後にできる料理の味わいは彼には何の意味もありません。人のやらない高等な技法を見せることが全てなのです。それだけが彼にとって料理を作ることの唯一の目的であると本の中で断言さえしています。
又、いずれにしてもこの料理法が懐石料理の流れを組み、その考え方を更に無意味な強固さを持ったものにしています。彼は板前さんではありませんでした。あちこちの料理屋さんの技法を寄せ集め、その上に彼独自のあまりにも子供じみた技法を積み重ねていったのでしょう。恐らく当時、他の心ある板前さんは土井氏の度を越した料理法には眉をひそめられたのではないでしょうか。しかし、その子供じみた発想に権威を与えてしまったのは他ならぬマスコミだったのです。
この本において求められているのは正に形式的な実態のないおいしさなのです。最終的に出来上がる料理が問題なのではありません。その複雑極まりない手をかけた過程が他の料理評論家や板前さんたちに誇ることが目的なのです。
野菜その他の持つあくを取り除くというより、素材の個性的な味わいさえも、料理の味わいを汚すものとして徹底的に異常なほどの執念をもって取り除こうとしています。
あまりにも多すぎる不条理な料理法の中の幾つかを例に揚げます。

(里芋の煮しめ)
1.里芋の皮を丁寧にむき、塩を振りかけてこすりながらぬめりを取ります。
2.①を熱湯に入れて火にかけ、再び煮立ったら水の中に取り出しよく洗って更にぬめりを取り、鍋に煮出し汁と共に入れて4~5分煮ます。
●どうして里芋にぬめりがあってはいけないのでしょうか。ぬめりも大事な里芋の味わいであり、そこにも私達の身体の求める栄養素が含まれているのです。塩をかけて、こすり、下煮して、更に洗う。皆さんはこれをあまりにも異常なものとは感じませんか。

(こんにゃくの煮しめ)
1.こんにゃくは塩を振りかけ、すりこ木棒で軽くたたいて洗います。これを1cm厚さの短冊切りにし~熱湯で茹でて水分を切ります。
●こんにゃくをすりこ木棒でたたく、思わず笑ってしまいます。そして下煮です。こんにゃくの匂いも味もしない、豚汁とか煮物、少しも安心感のある暖かい味わいは生まれません。いい匂いじゃないですか、こんにゃくの匂い、皆さん嫌いですか?もし嫌いと言うなら、あなたは日本人としての資格はありません。

(うどの白煮)
1.うどは4~5cm長さに切り、皮を厚めにむいて酢水によくさらし、後に熱湯に酢を入れた中で3~4分茹でて水に取ります。
●うどなんて下煮すれば何の味も歯ざわりもないです。うどらしさのない、うどをどうして食べるんですか。あの香り、味には、私達の身体が必要としているものが含まれています。ましてや栽培のうどなんて、そのまま生で食べても何のくせもありませんよ。私の生まれた会津では爺さんがうどに生で味噌をつけて食べていました。あの苦味こそが春の味わいなのです。洋菜のアンディーブだって苦味があるからこそアンディーブのおいしさです。
(豚肉の生姜焼き)
1.豚肉はそのまま焼くと肉がそってしまうので、筋を包丁の先でたたくように数箇所切り、更に肉たたきかビールの空き瓶などで軽くたたきます。
●家庭でしかも、庶民の大好きな豚肉の生姜焼き、縮もうが縮まないとか余計なお世話ですよ。縮んだからって味は少しも変わらない。かえって縮んでいたほうがずっと生姜焼きらしい。
(枝豆)
枝からもぎ取った豆をすり鉢に入れ、少量の塩を振って手にふきんを巻きつけて、とぐようにかき混ぜて、表面のうぶ毛を取り除ききれいに洗います。
●私は土井氏の執念深い愚かさに胸が悪くなってきます。どうして豆の皮に産毛がついていちゃいけないんですか。あの手触りに私は優しい自然を感じますよ。
(昆布)
昆布は固く絞った濡れふきんの汚れを取る。
●どうして昆布の表面の白い粉を取り除かなくてはいけないのでしょう。あれは昆布の成分が熟成変化して、表面に結晶したものでしょう。一番大事なとこなんですよ。少しばかり色が濁るからって、何をたわ言を。
(かんぴょう)
洗ってから塩を振りかけてよく揉み、柔らかくしてぬるま湯につけておきます。又、塩で揉んだものを湯の中で爪でちぎれるほどに柔らかく茹でます。
●かんぴょうなんて味はあってないようなもの。塩をかけもむ必要なんてありません。煮る時間がない時は、30分も水に浸けて煮れば柔らかくなります。ロール・キャベツ等の長く煮るものはそのまま使えば大丈夫、勿論きれいに結べます。(卯の花)
1.卯の花はたっぷりの熱湯の中に入れて、一煮立ちさせた後、ふきんを敷いたざるで水分を切り、少し冷めてから固く絞り、水気を取ります。
(注)卯の花(おから)には味がないので、鰯、鯖、鯵などを煮た後の煮汁で煮るとおいしいです。
●細かく挽かれたおからは表面積が大きいから、一煮立ちであっという間におからの旨味栄養素は流れてしまいます。わざわざ勝手に旨味を捨て去って、おからには味がないのでなんてたわ言は、子供でも言いませんよ。
(たこの柔らか煮)
1.たこに塩少々を振りかけ、よく揉みます。これを更に足をしごくようにして何度も繰り返し、ぬめりを取って水でよく洗います。
2.①のたこをまな板の上に足を揃えておき、大根で気長く全体をたたきます。
3.~重曹を入れて火にかけ
(注)たこをおいしくするには下準備で丁寧にぬめりを取ることとたたくことが大切です。大根でたたくのが一番よく、すりこ木でたたくと身が裂けます。
●どうして、そう何でもかんでも柔らかく、つまり「歯ざわりのあく」まで抜かなきゃいけないのでしょうか。たこは硬くたっていいでしょう。歯の悪い人の為には少し長く煮れば済むことです。大根でたたいて、ぬめりを取って、重曹をいれてまあ茶番としか言いようがありません。
(鰹の角煮)
塩を振り1時間おき、熱湯で4~5分茹で、氷に取り出し水をかえて30~40分さらす。
●何の為に下煮して、30~40分も水にさらすのでしょうか。さっぱり訳が分かりません。

油について
(選び方)
油は悪臭が少なく、色の薄いよく精製された腰の強いものが上質であり、材料を入れると細かい泡がサッと立ってすぐ消えるものがよい。
●ここに土井氏の考え方の本質が表れています。味も香りも、色も何もない方が上質だという考え方です。何の為に上質なのでしょうか。自分の訳の分からぬ繊細さの為です。食べ物は何でもそうですが、精製の程度が上がるほど、私達の身体の必要とする栄養素は失われます。そしてそのような油は私達の身体に血管に脂肪となって溜まります。

酢の物、和え物のコツ P150
◎材料の下ごしらえ
○牡蠣は生で頂くことが多いですが、この場合は生食用の牡蠣を選んでおろし大根の中できれいに洗ってから、更に薄い塩水の中で丁寧に洗い、殻などを取り除いてから使います。
●何の為に大根おろしの中で洗うのですか?殺菌?そんな簡単に牡蠣の内部まで殺菌はできませんよ。牡蠣のぬめり、あくを取る?牡蠣からぬめり、あくを取ったら牡蠣じゃありませんよ。大根をわざわざ下ろして、牡蠣を洗って捨てる、自然の恵みを足蹴にする、とんでもない思い上がった傲慢な料理法ですよ。
○たこ、牡蠣、赤貝、とり貝などの貝類や薄切りにした魚などは酢を大量にかけて洗うようにして混ぜ合わせ、酢をきってから使います。これを酢洗いと言います。
●酢も無駄使いしちゃ駄目ですよ。酢で洗ったって勿論貝の中身まで殺菌できる訳ありません。
○青菜(ほうれん草、春菊など)を焼き物の付け合せに用いることがあります。この場合は醤油をサッとかけてから軽く水気を取って用います。これを醤油洗いと言います。
●ここまでくると私は、「何と愚かな」と思わずつぶやいてしまいました。本当に土井氏は食材を手当たり次第に無駄にする人です。私は断言します。素材を大事にしない人には決してよい料理を作ることはできません。日本人は本当に物を大事にすることを忘れてしまいました。でも上品な味わいの為に土井氏は常に大衆の前で「無駄の実践」を示して、そしてそれを美徳であるとしてきたのです。

(さらし鯨とたこの辛子酢味噌)
1.さらし鯨は食べやすく切って湯にくぐらせ、氷水に取り出して冷ました後、ざるに上げて水気を切ってから冷蔵庫に入れて冷やします。
(材料)さらし鯨(茹でたもの)
●もう既に茹でてあるんだから、もう一度茹でる必要なんか、これっぽっちもないでしょう。更に味わいを捨て去るだけでなく、ガス、時間、労力の極めつきの無駄ですよ。
(野菜の白和え)
4.豆腐は巻きすで巻いて中皿4枚をのせ、約10分おいて水気を切る。(後すり鉢でする)
●ふきんで絞ればいいでしょ。どうしてこんなにしなくていい格好をすぐつけるんでしょう。でも私はもう「白和え」なんて思い上がった料理は作りません。
(ひじきの白和え)
(注)少し時間を持たす時は、痛みやすいので豆腐を茹でてから加えます。
●またまた豆腐から味を抜いてしまうんですか。あれだけ砂糖を加えりゃ、結構長くもつような気もしますけど。

(ご飯の炊き方)P166
(牡蠣ご飯)
4.蠣を入れて1分位煮て、ざるに上げておき、煮汁はふきんで濾します。
●牡蠣を一分も煮たら、牡蠣の味わいも何もなくなりますよ。
(ぞうすい(おじや))
どんな場合でも、出来上がりの汁を濁らせないで、味は淡白に仕上げ、しかも口当たりをさらっとさせることが最も大切です。用いるご飯は冷やご飯ですが、糊のようにべとつかせない為に、冷ご飯をざるに入れ、上から水をかけて軽く混ぜながら粘りを取って水気を切ります。(水をかけてさばく)
●誰がそんなこと決めました。出来上がりの汁を濁らせないで、味わい淡白?口当たりをさらっとおまけにご飯に[水をかけてさばく]?おじやは少し煮込んでご飯が柔らかくなって味が染み込んだほうがずっとおいしいですよ。汁も濁っているほうが味わい豊かですよ。初めから終わりまで甘いだけの味のない料理に、最後のご飯も調子を合わせる、ただそれだけのことです。それにしても[水をかけてさばく]馬鹿馬鹿しい稚拙な業界用語です。それとも土井氏のもったいをつけた造語なのでしょうか。
(芋粥)
さつま芋の皮を厚くむき、1cm角のさいの目に切り、水にさらします。
●野菜や果物の皮には大事なミネラル、繊維質が多く含まれています。大事にしなければなりません。必要な時以外は、皮もできるだけ食べるようにしなければなりません。澄んだ味わいの為に、それを無造作に捨て去る。おまけに厚くむいて小さく切って水にさらしてもっともっとさつま芋の旨味と栄養を捨て去ります。
(おもゆ)
米はぬかの匂いがなくなるまでよく洗い、ざるに上げて水気を切ります。
●ぬかの匂い、本当にこの人分かるんでしょうかね。私には分かりません。
(のり)
あぶり方・・のりは2枚を中表に合わせ、両手で対面を持ってくるくると2、3回まわしてあぶり、持ち替えて反対側も同様にあぶります。
●何の為に2枚重ねて焼くんでしょうね。別に火加減に注意すれば1枚ずつでもどうってことありませんよ。
(いなりずし)
油揚げは熱湯に入れて、落としぶたをして1~2分煮て、油抜きをし、落としぶたをおさえたままで汁を捨てます。
(油抜きによって味の含みがよくなります)
●折角豆腐を揚げた油を捨て去ることもないでしょう。おまけに2分も下煮したら、豆腐の旨味がなくなっちゃいますよ。別に油を抜かなくたって、味は充分に染み込んでいきます。

麺類
(生姜)
皮をむいて下ろしますが、あくが強い場合は皮をむいてから水に約10分さらした後下ろすと、少し時間をおいても色が変わりません。
●別に生姜の色が少し変わったってどうってことないでしょう。生姜のあくって何なのですか。辛さが強い生姜だったら、少し加えれば済むことでしょ。別にあく抜きなんてこれっぽっちも必要ありません。
水から煮る鍋もの P216
豆腐は煮過ぎると固くなり、すが立ってまずくなりますから、火加減に注意します。
湯に重曹を加えるとすも立たず、柔らかです。又、煮過ぎてすが立つのを防ぐ為、最初の水に片栗粉の水溶きを小さじ1~2加えてよいです。
●どうして、何でもかんでも重曹を入れなきゃならないんですか。山菜のあくを抜く為にというなら分かりますよ。どうして豆腐にすを立たせない為にまで不自然に加えなければならないのでしょう。少しくらいすが立つくらいに豆腐を煮込んで味が染み込んだほうがずっとおいしいですよ。本当にあきれるだけです。片栗粉なんてこんな所に入れる必要はありません。
(鶏の水炊き)
白菜とほうれん草を茹でて巻く

茹でてから煮る
●鍋物は短時間で煮るから前もって下茹でしておいたほうがいいですって。とんでもない。白菜とほうれん草の旨味は捨てていいんですか。ちゃちな格好をつけてほうれん草を巻いたって、無駄な労力ってもんですよ。
(薄焼き卵)
作り方
1.小さな器にガーゼを2重にして広げ、その中に卵を1個ずつ割り絞ってよく溶き、塩1つまみを加えて混ぜます。
●私は本当にこの方が日本の家庭料理に残した大きな爪痕を愁います。滑らかにする為にガーゼで卵を裏ごしする。何ですかこりゃ?真面目にこんな本を編集した人の顔も是非みたいですよ。


これらはほんの一例です。
これらの全く無意味な手間の数々は、本来はしてはならない嘘の工程であって決しておいしくする為ではありません。こういうやり方を知っている、私はこういう風に普通以上に手をかけている、だから他の料理法より数段優れているという、自己顕示と自己満足から生み出されたものだと思います。
煮物などでは特にこのようにあく抜き、下茹でをして素材の味を抜き、素材を無個性、均一化し、砂糖、みりんによって単純に一つの枠の中に収めようとしています。
これがここで目指している、作り手と食べての身体と心を傷つけ続けてきた「澄んだ上品な味わい」なのです。

私の目には決してすべきでない、無駄であり無意味な工程は、主なところを抜粋しただけで次のようなものがあります。

水に浸けてあくを取る
①するめ(一昼夜) ●ごぼう ●なす ●レバーの血抜き
●大根、うど、きゅうり(刺身のけん) ●栗(渋皮をむいて一晩浸ける)
●さつま芋(皮を厚くむいてから)
●みょうが
●さらし葱(天ぷらの天つゆの薬味)ふきんに包んで水の中で揉みぬめりを取る●くわい

水に浸けて茹であくを取る
①ひじき ②かんぴょう(前もってに塩で揉む) ●わらび(前もってに木灰に浸ける)
●里芋(前もって塩でも揉む) ●あずき ●鰹の角煮(塩を振り1時間おき、熱湯で4~5分茹で、水に取り出し水をかえて30~40分さらす)
●金時豆 ●身欠きにしん(米のとぎ汁にたっぷり一昼夜浸け戻す) ●ひじき

酢につけてあく取る
●うど ●蓮根 ●山芋
酢につけて茹であくを取る
●うど ●なす(酢のかわりに焼きミョウバン) ●蓮根
※蓮根やうどなどがずっと白くなければならないなんて何の意味もありません。単なる「お上品そうな見栄え」だけなんです。あなたはこんな愚かな形式のみの美しさと、健康の為の料理どちらを選びますか。

茹でてあくを取る
●ワカメ ●吸い物、白魚、結びきす、三つ葉、貝割れ菜(熱湯に通して)
●卯の花 ●大根のふろ吹き(たっぷりの米のとぎ汁、又はぬかを入れた色よく水で固めに茹で、のち水で洗っておきます)
●ゆり根 ●ふき(沸騰後、強火のまま2~3分)
●大根(米のとぎ汁で) ●じゃがいも(皮のまま固茹でにして厚いうちに皮をむく)
●白滝(熱湯で)

湯をかけて湯引きをする
●揚げ、厚揚げ ●しらす干し ●なまり節(ほぐしてかける
 ひろうす
信じられぬほどの多くの素材から、土井氏の空ろな野望の元に私達の身体が求めている栄養素が葬り去られているのです。
又あまりにも煩雑なこれらの工程が一般の家庭料理の中に浸透してくれば、料理は難しいもの、面倒なものとして敬遠されていきます。又、本当はおいしくとも何ともない実態のないおいしさに作り手も食べても心は疲れてきます。作り手が料理を意欲を持って作ろうと思う為には、料理のおいしさに惹かれ、作り手自身が、その料理を心から食べたいという気持ちを起こさなければなりません。
しかし、このような実態と実感のない、本当のおいしさ、栄養素をものの見事に削ぎ落とした料理に、誰が心からおいしさを感じ、又それを作ろうという意欲を持つでしょうか。
本来の料理は、実に単純なのです。素材を切って鍋に入れる、ただそれだけでよいのです。私が子供の頃の料理というものは、そのような実に単純なものでした。その中にも長い間の先達の知恵があり、素材の持つ栄養素を少しも逃がさないようにとの工夫がありました。意味のないあく抜き、下茹でなど少しも必要ありません。
正に、ここでの料理法は、自己の料理家としての立場に権威を与える為に、奇異をてらった手法を積み上げてきたのです。しかしこれは土井氏だけではありません。これこそが日本の料理界がこぞって目指してきた唯一の目標だと思います。できる料理が問題ではなく、他の人がやらぬことを少しでも多く鼻高々に作り出すことが全てだったのです。
結果として、そのように築き上げられた料理法は、本来の料理のおいしさと喜びを失い、それを食べる人の心、身体を傷つけるものとしてきました。

確かに、女性の社会進出、ご飯の準備はできるだけ手を抜くのが女性の権利であるとする風潮があることは理解できます。
しかし、とにかく今、日本に蔓延する形だけの手抜き料理に世の女性たちを走らせたことの一つの大きな力は、食べることの喜びなど一つももたらさないこのように無意味な、煩雑で空虚な料理法ではなかったのでしょうか。
そしてまた、今、日本人の低年齢層までも覆っている、様々の渡り傷に、このような素材の持つ栄養素を徹底して捨て去る料理法の家庭への浸透が大きな一つの力になっていると思います。
今私達が口にする素材の栄養素が希薄になった為だけでは決してありません。
素材に栄養素とおいしさがなくなってしまった今だからこそ、この様な料理研究家の為にだけある形式的な料理法は断固として拒否しなければなりません。
又、このような実態のない味わいを編み上げる「裸の王様」の中の仕立て屋に、権威を与え、それを育ててきたのはマスコミであり同時に私達日本人そのものなのです。

「死屍に鞭うつ諸行」と皆さんは眉をひそめられるかも知れません。しかし、私達日本人の心と身体を蝕む虚構の料理法は深く私達の日常に浸透し、力を持って生き続けています。
少しでも早く、私達はこのような料理法を完全なる過去の遺物としなければならないのです。

(2003.7.28)

 

第15回 呪われた国民、完膚なきまでにたたきのめされそしてすさみ果てた食材と料理法


 今年の年頭に、今の日本の素材に合った料理法を構築すると約束しました。
今回はその中間報告ともいうべきものです。

イル・プルーのお菓子教室が終わると、休む間もなく包丁を持って料理の試作に没頭しました。休みの日も、何日かは作り続けました。
とにかく、私は今燃えに燃えています。
今までの人生の中でフランス菓子作りを進み、そして私共の椎名と供にフランス料理に挑んできました。
そして今、自分の国の家庭料理に立ち向かっています。
結局、お菓子も料理も、フランスも日本も、食べ物が存在する理由は同じであれ、日本料理であれフランス料理であり、手で料理を作りそれを口にする理由も全て同じなのです。

本質的な存在の理由は同じなのです。ただ、素材がかなり異なり、料理法や味わいの形が異なっても、料理が必要としているものは全ての人類に完全に共通のものなのです。
私がフランス的な食べ物を作り続ける中で、常にそれとの比較の中で日本の食材食べ物を、距離をおいて客観的に見つめ続けられたことが今の私の考えを可能にしたと思います。

しかし私も日本人なのです。今までのフランス的なものとの関りの道のりは、今、日本の素材料理に対峙する為の準備の時間だったように思えます。人生で最も意義ある、自分が生まれ育った、日本に住む人達への最後の恩返しであると思っています。
この事の為に今までの私の人生の全てがあったと思えます。

 日本を救いたい、力いっぱいそう考えています。そして、それはまだどうにか可能だと、この試作を通して実感し始めています。この試作を始めるまでそれまでは料理屋さんや飲み屋さん、そして家庭料理などの、人の手によって作られたものを観察し考え、非難してきました。ここ2ヶ月、自分で包丁を持ち、自分で切り、自分で鍋に入れ、加熱し、そして自分で塩、しょうゆ、味噌などの量を何度も味を見ながら決めてきました。
そこで感じた事は、自分が考えていた以上に栄養素の著しく欠落した、今風の日本的形だけの綺麗さを持った野菜果物や加工品でした。
多くの素材がもはやそれが存在する理由すら失われてしまっているのです。それらの素材が持つ固有の味わい、栄養素が著しく欠落したものが殆どなのです。
例えば、スーパーで売られている、おからです。綺麗にいとも上品にパックされていて、おからの色も真白で、とても清潔で上品な薄味のおからができ上がりそうです。
ラップをとって見ると、何の匂いもありません。豆のあの青くさい匂いは少しもありません。生で口に入れてみます。本当に味がありません。ただの真白な繊維質だけなのです。勿論、この様な素材では私の記憶にある豊かな香りと味わいを持ち懐かしさに溢れたおから料理なんてできる訳がありません。
おいしくないだけではないのです。このおからの中には私達の身体が必要としている栄養素が殆ど含まれていないのです。
私達がおからをおいしいと感じ、日々の生活の中に大事に取り入れてきた理由は一つ、豆腐を絞ったカスとは言え、その中にまだ、充分で豊かな栄養素が残っていたからなのです。そしてそれを無駄にせず食べれば私達の身体が必要とするものは充足されました。
又、豆腐を食べても豆腐全体の全ての栄養素を取ったことにはなりません。おから料理も同時にあるいはより多く食べることによって、以前は大事な蛋白資源であった大豆全体を食べたことになるのです。

しかし、もうその様なものは何もおからの中には残っていません。
多くのメーカーは強力なプレスをかけて、殆どのうまみを絞り取ってしまうと聞きます。あるいはそれを更に水洗いして、上品な味わいのおから料理作りに便利なようにしている。そんなことも考えられる程の無味乾燥な味わいです。勿論、町の小さな豆腐屋さんに行けば、まだ充分に栄養素の残ったおからを手に入れることはできます。又、そうすべきです。
しかし、以前の味わいを知らぬ人達、あるいは多くの都会的な虚構の中に生きている人々にとっては、この何の味わいもない真白な豆腐とおからが、正しいあるべき姿なのです。
そして、この様な考えは更に町の豆腐屋さんのおからを、町の豆腐屋さんを駆逐していくのです。
この様なおからは、大豆からできる限りのうまみを絞り出して、できるだけ多くの豆腐を作ろうという単純な見境のない営利心からでしょう。
しかし、それとは違った、又、とても日本的な動機から加工の過程で栄養素が意識的に抜かれる場合もあります。
例えば、大豆入りのパックです。よく見ると粒の大きさがそろっていてそして、白っぽくカサカサしていて、とりあえずとても綺麗です。勿論砂粒など一つもありません。
 でも、私にすればどうしても不自然なカサカサした白さです。聞けば豆粒の大きさを揃える為に上から絶えず水をかけながらベルトコンベアで流していくようです。しかし、このカサカサした表面からすれば、ちょっとの間ではありません。かなり長い間ベルトコンベアにのせているのか、あるいは後で消費者が上品で澄んだ味わいを作り出す為に、更に水を漬けて豆のあく、つまり栄養素を抜いて捨て去っているのかもしれません。

煮豆を作ろうが、他の料理に混ぜようが、豆のふっくらとした味か皆目見当たらないのです。本当に空ろな味わいなのです。
何の為に、畑の肉などと言われ、大事な良質の蛋白資源として大豆とその料理はこの日本に存在したのでしょうか。
それでもおからは未だ町の豆腐屋さんに行けば手に入ります。
ところが、以前のような洗っていない大豆は、八方手を尽くしましたが、私の店の周辺では見つけることができませんでした。

又、切干大根には私もがく然としました。
色が白いのです。以前の濃い熟成した薄い褐色ではいないのです。パックから出して、鼻を近づけます。あの切干大根を思い起こさせる甘い豊かな熟成香が少しもないのです。あるのは、生の大根のからい薄っぺらな匂いだけです。そのまま生で食べてみても寒々とした、ただの干からびた大根の青臭いからさだけです。
切り方もかなり細いのです。パックには「サっと水に漬けて、サラダ感覚でもお召し上がりになれます」
と記されています。
切干大根を私達が食べ続けてきた理由には、田園の寒風にさらすことによって、大根に含まれている栄養素が少しずつ形をかえ熟成し、栄養素の幅を広げられたものだったからこそ、私達は食べ続けてきたのです。しかし、今の軽はずみな食の雰囲気の中で、切干大根の本質を忘れ、ただ売り易いようにと、恣意的に変質させてしまったのです。
しっかりと熟成したものは、あちこち探しまわった末にやっと一つだけ見つけることができました。

大根や人参などの野菜も、もう以前のものではありません。味わいも香りも、勿論栄養素も全く欠落しています。心から恐ろしさを感じます。底知れぬ恐ろしさを感じます。

おまけに、有機栽培のものも町のスーパーのものと全く変わらないものが殆どです。
生協から取り寄せた野菜の中にましだと言えるものが幾つかありました。それでも私の記憶にあるものとの間にはかなり大きな隔たりがあります。

日本の現状の有機栽培はあまりに短絡的で幼稚にすぎるのではないでしょうか。
多分多くの方々は、栽培者であれ消費者であれ、とにかく化学肥料と農薬をやめて有機肥料を与えればおいしくて身体に良い有機野菜ができると考えているのではないでしょうか。
しかし、日本の農地は、既にどうしようもないほどに農薬によって痛めつけられているのです。
植物はいくら有機肥料をやっても、そのままでは自分の中に取りこむことはできません。これを細かく、細かく分解して無機物(ミネラル)にしてやらなければ吸収できないのです。そしてこの分解する力は植物にはありません。微生物や菌ミミズなどの生き物がこの役目を担うのです。
本来あるべき姿の土壌の中には、小さなスプーン1杯に1万を超える種と10億個の微細な生き物があり、それぞれの食物連鎖の中で有機物を植物が吸収できるように形を変えていくとあります。

しかし、例え今化成肥料を有機肥料に変えようとも、無農薬で栽培しようとも、既に地中には最終的に植物にミネラルが届くまでの食物連鎖が存在しないのです。農協と農業製造メーカーの経済的利益の為と、それらと癒着した行政により、あまりにも法外な量の殺虫剤などの農薬が農地に播かれ、この微細な生物による食物連鎖は完全に消滅したのです。
例えば、世界の米の生産高は世界の生産高の5%にすぎません。
しかし、世界の米栽培の為の農薬の生産高の半分の農薬を、農協と薬メーカーの利益の為に日本の水田にぶち込んできたのです。今もまだ、大きな爪跡を残す、バブル経済期の狂乱のゴルフ場の開発と整備の為に、ベトナム戦争でアメリカ軍が大量に播き、そして後に、多くの奇形児を発生させた枯葉剤とほぼ同じ分子構造の除草剤が際限なくこの国を汚染しました。

又、有機農法であっても、どのような有機物を使うかによって含まれる栄養素と味わいは異なります。
例えば苺です。
より幅の広い、ミネラルのバランスのとれた苺なら苺が本来持つ必要な栄養素とうまみを持ちます。
しかしたとえ一見おいしく思えても、今の日本の消費者に安易に迎合しようとして甘みだけを突出させた、私にすれば不自然な味わいの苺もありました。

ここで一つ考えさせられる大事な点は、この苺を作る生産者は、もしかしたら消費者への迎合というよりも、あるべき苺の味わいを知らないのかもしれません。甘さこそが身体に良い苺だと信じ切っているのかもしれません。
もしそうであれば、むしろこの方が危機的なものをはらんでいます。
つまり苺の作り手が本来のあるべき苺を知らないのです。そして流通過程にも、そして最終消費者にも、あるべき本来の苺の味わいを知っている人がいないのです。
これは苺だけではありません。大根や人参のあるべき姿をおぼろげな記憶の中にしか誰も持たないのです。
やがては町の豆腐屋さんもスーパーの見てくれだけの綺麗な真白い味も香りもない豆腐やおからに負けて姿を消し、私達の記憶から消えていくのです。
 このように料理をする、つまり手にかける前の海の産物以外の素材は、正に誇張ではなく「死の世界」なのです。
何人かの方はそんな素材ばかりではないと言われるかもしれません。
確かに、苺の作り方を守り、味わい溢れるものを作っておられる方はあると思います。でも大事なのは大多数はどうなのか、そしてそのただれた状況の大多数に良心的な少数は呑みこまれていくのではないかということです。

これほどまでに完膚なきまでに素材がたたきのめされているとは予想できませんでした。
およそ、動物が食べるものではないのです。

さて、それではどうしようもない存在の意味すらなくなった素材を、私達の一般の家庭がどのように料理しているのでしょうか。
一口で言えば、栄養素の希薄になった素材から更に栄養素を作り手の手で取り除き、捨て去るという異常な料理法が常識となっているのです。正に狂っているのです。
このような状態に陥った理由としては、茶懐石料理などの本質的に身体の為ではない形式の為の料理が、戦後テレビを筆頭としたマスメディアにより、私達一般の家庭に浸透してきたこと。同時に料理研究家や料理評論家と言われる人達が、マスコミを通して結局は有名料理店の手法を無定見に取り入れ、そこにまた独自の意味のない手法・工程を取り入れることによって自己の正当性を誇ろうとしてきたところにあるようです。
この連続の中で、本来は家庭料理の中に必要のない、考え方・手法・工程がとめどもなく入り、どれが嘘でどれが本当か分からない状況にあるのが今の料理法なのです。
今、一般の家庭で行われている工程の1/3は全く必要の工程であると分かりました。

 とりあえず不要な工程を幾つかを挙げて見ましょう。
 ・米を研ぐ ・豆などをつけた水を何度もかえる、下煮をする ・ひじきを水につけてもどす
 ・かつおの出し、一番、二番出しの考え方と手法 ・煮干しの腹と頭を取る ・煮物のあくを引く
 ・水につけてあくを抜く ・下煮、下茹で ・場合によっては皮もむかなくて良い

これらの工程は、身体と心の為の栄養素を充分に含んだ家庭の為の料理にはしなくても良いと言うよりも、してはならないことなのです。
これらは全て、戦後少しずつ家庭の収入が増え中流意識が芽生えてきた中で、マスコミ主導のより上品な料理への志向の中で生まれてきたことなのです。
でも、身体の為に豊かな栄養素を補給する為の料理に、上品さとか澄んだ味わいなんかを持ち込んではだめなのです。
薄味、これは料理の基本ではありません。時代の軽薄な雰囲気と懐石料理の権威が入り込んだものなのです。
私の子供の頃の私の家の料理の作り方は、ただ素材を切って炊く、これだけだったのです。これがずっと連綿と続いてきた日本の家庭料理のあり方なのです。いりこは初めから、そのまま入れて最後にちゃんと一緒に食べる、これが料理の全てだったのです。
自らの意思で素材の栄養素を捨て去り上品な味わいを作ろうなんて誰も考えはしなかったのです。
それがテレビの料理番組などでより望ましい料理と言うことで、いわゆるプロのあるいはプロの教えを受けた人達の自分の存在を誇示する栄養素を捨て去る上品な味わいが、1億総中流意識の社会的な雰囲気の中で浸透していったのだと思います。
自分は社会の下ではなくて中流にあるのだということをしっかり実感したくて、誰もがゴルフを始めたように。

とにかく料理法もすさんでいます。信じられぬほどにすさんでいます。生きた人間の為の料理ではありません。
ひな壇に並ぶ人形の為の料理なのです。
毎日が発見の連続です。
「あ、これも必要ねえや」「あ、これも形式だわ」と言った、驚きとあきれた調子の声が何度も私の口から発せられます。
もう、既に試作も半ばまで進みました。
ものによっては10回近くの挑戦です。平均で一つの料理を完成するのに5回は試作をしています。
撮影も始まりました。
初めのころは、カメラマンもエディターの方も私達の料理の作り方を少しも信じていませんでした。
「本当に砂糖使わなくて料理できんの」「あく引かなくていいの」「下煮しなくていいの」と私には言いませんが、イル・プルーのスタッフにしょっちゅうぶつくさ言っていたようです。でも無理もありません。
全く今の料理の常識を覆すことばかりですから。

でも、新しいことをしているのではありません。今のどうしようもない素材でもって、ちょっと工夫して昔の味に戻そうとしているだけなのです。
出来上がった料理が完成か充分においしいかを決めるのは私です。
思うものができたと思った時にはその料理の味わいには必ず私の記憶の中にある味わいとピッタリと重なります。
そして、私のDNAの中に記憶されている本質的な食べ物の情報ともピッタリと重なり合います。
私は、日本人としての味わいとフランス的なものの味わいの習慣常識を、意識を持って取り払い、人間として共通の味わいに反応できるように自分を訓練してきました。
私の五感がどう感じるかによって料理は作られていきます。

本当においしいのです。豊かな香りと、味わいがまるで舌にピッタリと吸い付いているような、理屈抜きの食べている時は、他の事を完全に忘れてしまうほどのおいしさなんです。
心と身体がとても暖かくなります。めちゃくちゃに腹に詰めこまなくても、適量で充分満足します。次の日おなかはとってもすっきりしています。
まずかなりの量食べても身体に残りません。太りません。

そう、夢のような料理です。というよりも、いかに今の日本の家庭料理が常軌を逸していて、心と身体を蝕み劣化させているかの証でもあります。

砂糖は決して使いません。やっぱり誰もが砂糖とみりんを少しも使わないで料理を作ることに驚かれます。

常々、砂糖は希薄になった素材の味わいを隠す為、出しを取る為の手間を省く為の手抜きの為のものであると言ってきました。
現在、砂糖が使われる理由は正にこのことのみです。
ここに至った経緯は、私の考えとは少し違っていたようです。

戦後間もない頃の著名な料理家の本でも、砂糖、みりんは使われています。一人だけ辻留さんの本ではみりんだけが使われていました。しかし、砂糖もみりんも質的には全く同じものなのです。
甘みでもって不足している味を補う、この為に使われたのです。
料理に流派があるという特異な状況の中で、自己派の流儀に正当性を持たせる為に、下茹でなどの手の込んだ形式的な技法が入り込んでくる。そういう技法が入るほど、素材から味わいが、抜けて水っぽくなる。それを覆い隠すには、一応味わいには深みと香りがあるみりんは至極最適だったのでしょう。
でも、みりんでなくても強い香りを持つ上白糖でも同じ効果は得られます。

私の子供の頃、台所には砂糖のつぼがありました。でも何でもかんでも砂糖を加えるということはありませんでした。
少しずつ、砂糖やみりんを使うのが上品な料理ということで浸透していき、同時に野菜などの味わいの希薄化が進み、より多量の砂糖が使われ、そしてそれを誰もが当たり前と思うようになった。
たった4~50年間という極めて短い時間の流れの中で進んできたことなのです。

試作の中で得た大きな発見を幾つか述べてみます。
皆さんは料理の初めに「出し」を取ることの意味をどう考えますか。
多分殆どの人は狭義のうまみ、つまりイノシン酸とかグルタミン酸ソーダなどの成分を与え、料理をおいしくする為だと考えられているでしょう。これは間違っています。「出し」は人間の細胞、組織、器官の維持、育成の為に必要な無機(ミネラル)、有機の微量栄養素をしっかりと揃えることなのです。
生命の発生以来、人類は周囲にある多くのミネラルと無限とも言える有機的な栄養素を取り込んで、この精緻な組織を作り上げてきました。決してこれだけあれば何とかなると言われる必須ミネラルだけでこの組織が築かれているのではありません。
つまり、可能な限りの幅の広い微量栄養素をそろえることが「出し」を取ることの意味なのです。
普通、和食ではかつお節、昆布、しいたけなどで出しを取りますが、これらは本当の意味での出しになり得ないのです。これらは単なる味を調える調味料なのです。
これらのものは私達にうまみを感じさせるイノシン酸、グルタミン酸ソーダなどは多量に含んでいますが、充分な幅の広い微量栄養素は含んでいません。
かつお節は魚をカビなどの力で醗酵熟成などし、うまみの幅は広げていますが、その幅はとても狭いのです。
何故ならかつお節はかつお一匹全体の一部分であり、そこに含まれる微量栄養素は限りがあります。
「出し」となり得るのは一匹全ての部分を食べる煮干し以外には、有効なものはないのです。
例え、煮干しの身体は小さくても、それぞれの部位、器官には、それぞれの固有の微量栄養素群が含まれています。人間の全ての器官に含まれる栄養素に匹敵する幅の栄養素群が含まれているのです。

煮干しを更に補強するために、昆布、かつお節を加えるのは分かります。
しかし、その他のもの単独での出しは全く意味がありません。
ましてや、狭い幅の栄養素しか持たぬかつお節を一番出し、二番出しに分けて、より栄養素の幅を広くする料理法、そして澄んだ味わいの為に煮干しの頭、腹を取って加える、などはあまりにも気違いじみた行為としか言いようがありません。しかもまだかなりの栄養素が残っているものを引き上げて食べないで捨てるとあっては言葉がありません。
正に形式が全てなのです。正に狂った料理法なのです。人間性を喪失した退廃の料理法なのです。

この様な考え方から、殆ど全ての料理に煮干しを加えます。
これも皆さん驚かれるでしょう。でも魚臭さは気になりません。


次の大きな発見と言うか、実地での再確認というか、印象的なことがありました。

肉じゃがにも手こずりました。
肉じゃがにもいりこを加えます。昆布の甘みのある味わいは肉じゃがには合わないので加えません。
じゃがいも、肉、人参はオリーブオイルでこんがりとキツネ色がつくように強火でしっかりと炒め、スペインのオリーブオイルの中に含まれる、日本の産物には乏しくなった栄養素を補給します。更に加熱によって成分変化をさせ、うまみの幅を広げます。糸こんにゃくは匂いのあるものを見つけ、それが漬かっていた水も加えます。この漬かっていた水は汚いものでも、アクが出たものでもありません。こんにゃくのうまみがとけこんだ大事なものです。基本的な作り方はこのようなものです。
何度もそれぞれの素材の割合を変えたり、炒め具合を変えたり、日本酒の代わりに泡盛を加えたりしても、しっくりとした甘みのある味わいに仕上がらずにどうにも水っぽいのです。
勿論呆れるほどに肉の味わいは少しもありません。そこでブイヨンを加え、ベーコンをオリーブオイルでキツネ色に炒めて加え煮込みました。
やっと甘さを持ったしっかりした味わいが得られました。
でも甘みのある味わいと言っても砂糖の甘みではありません。
本当に様々のうまみ栄養素が作り上げた暖かい、それでいて舌にまとわりつかない、爽快で暖かい甘さなのです。
知らず知らずのうちにつゆは全部飲んでしまいます。とにかく、はずむような暖かい甘みなのです。

一時はさすがに肉じゃがだけは砂糖を加えなければ、記憶の中にある味には仕上がらないのかなと思ったこともありました。
でも、私達の肉じゃがへの甘い味わいのイメージは砂糖による味つけへの記憶ではなく。そのずっと以前の野菜にも肉にもしょうゆにもしっかりした味わいがあった頃の豊かな栄養素に支えられた、豊かな香りと味わいの記憶だったのです。
牛肉・糸こんにゃく・じゃがいも・人参・たまねぎを、どこから手に入れてきても何も考えるでなく、鍋に入れ、しょうゆを入れて煮れば得られる味わいだったのです。
これ程までに、今の日本の素材からはうまみ栄養素が欠落しているのです。
まだまだ御知らせしたいことが沢山あります。

完成したものは、本当に心と身体が明るく喜ぶおいしさです。
どうしようもない素材でも作り方を変えれば、とりあえず今の危機的な状況は救えるかもしれません。
でも、これはもう一度、日本の料理の素材を再び望ましい形に立て直すそれ迄の応急の手段にすぎません。

更に頑張ります。

 

(2003.4.11)

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