雑感

日本一の旗について

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 日本一とは紛れもなく、日本で一番おいしいお菓子をお出しするということです。
 何かコンクールがあって一番になった訳ではありません。
 菓子屋は一年を通しての仕事です。一年中どれだけおいしいお菓子を安定的に精度高くお客様にお出しできるかということが全てです。
 イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子は間違いなく、日本で、いや世界で一番おいしいと言って下さるお客様は本当に多くおられます。
 又何よりも多くのパティスィエが、それを認めています。私のことなど大嫌いな人も多勢います。でも彼らも内心ではしぶしぶ、それを認めているとしよう。私もそう思っています。
 ある高名な洋画家の方は、昨年の大震災、それに続く福島第一原発事故の後、フランスの友人から次のような手紙を貰ったそうです。
「早く危険な日本を離れて、フランスにくるように。」
 強いお誘いを受けましたが、日本にはフランスよりおいしいイル・プルー・シュル・ラ・セーヌのフランス菓子があるので、日本にとどまることにしたのだと、仰っていただきました。とても嬉しく、有難い言葉です。

 私はホームページの中で、私以上においしいお菓子を作れるパティスィエは少なくともこの日本にはいないと広言しています。この言葉に異論があるならば、その方々とどんな形であるにせよ、ちゃんと受けて立つとも広言しています。
 でも誰も挑戦しようとはしません。

 イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子のおいしさとは実は2つのものがあります。
 その1つは実際に私が作り出すお菓子のおいしさです。これにはどんなパティスィエが逆立ちしてもどうにもなりません。私の作るフランス菓子は他のパティスィエの作るお菓子とは全く違う次元のおいしさなのです。
 次に店に並ぶお菓子です。これは私が実際に作る訳ではありません。
 私のおいしさがあって、それを他の人間に作らせる訳です。実はこっちの方が、私にとってはずっと難しい。
 まず私のお菓子に対する考え方、熱情、技術、そして私が作り出す味わいを五感全てで受け止め、理解してくれるシェフが必要です。そしてこのシェフには彼が抱いているお菓子のイメージを実現する為に、彼の数名の部下たるパティスィエを使いこなし彼らの意識を結集しまければなりません。
 過去においてある時期では、イル・プルーのお菓子はかなりまずいものになってしまったこともありました。しかし今はまあ、私も昔より人を使うことにも少しは成長してきました。そして何よりも、私の考えを理解しようとするシェフが続きました。
 そして今、イル・プルーで初めてお菓子を作り、ずっと私と触れ合ってきて、その後私の生涯の友、フランス・パリの高名なるパティスリーミエのシェフ、ドゥニ・リュッフェルの下で勉強してきた福田君が新シェフとなりました。私は今自信を持って、店に並ぶお菓子は他の追随を許さない旨いお菓子であると絶対的な自信を持っています。
 私は毎年四月お菓子教室に入学される生徒さんに初めての授業で必ずこう伝えます。
「どんなに遅くても夏が過ぎて少し涼しくなり、感覚が冷静になってくると、ここに入学するまであれ程おいしいと思っていた、有名シェフや有名店のお菓子が全く物足らないものになってしまい、もう食べる気はしなくなります。」と。
 イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子の味わいを知って教室に来られた方はそう思って入学されたので、ニコッとしながら頷かれる方もおられます。
 でも、そうでない方は「このおじさんは調子のいいことを言って、こんなところへ入って大丈夫かなぁ」と疑わしさいっぱいの表情をなされます。
 でも早ければ2~3ヶ月で多くの方がそう思われるようです。そして卒業の頃になると実に多くの方が「先生の言われたことは全くその通りでした」と言われます。
 又、ある方は卒業の折りのクラス全員での寄せ書きの中に「イル・プルーのお菓子は衝撃の連続でした。おいしさということを通り越して、これ程までに食べ物が食べる人に感動を与えるものかという驚きの連続でもありました。」と書いてくださいました。こんな風に思って頂いて、私も心から嬉しいし、菓子屋として幸を感じます。

 ついでにフランス、その他の国で行われるお菓子のコンテストについてです。大きなコンテストで、世界で一番の賞をとったというと、何かお菓子作りの全てで世界一かと殆どの方が考えられるでしょう。
 そうではありません。
 コンテストの中心となるものは、砂糖を溶かした飴で花やその他のオブジェを作るなどの、日々の菓子屋の仕事 では殆ど関係のない特殊な狭い領域の技術の見せ比べなのです。
 お菓子のおいしさも大事な審査の対象となるなどと言いますが、これは形だけのことです。
 菓子屋にとって一番大事なことは日々の精一杯おいしいお菓子作りに全てを注ぎ込むことです。
 しかしコンテストで競われるのはおいしさではありません。
 果してコンテストで良い成績を得た人のお菓子がおいしいのかどうかはもう、皆さんが自分の舌で判断しなければなりません。
 とにかく、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子の味わいを一度知ればそのことは自然に分かるようになります。
 私達イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのパティスィエ達にとっては、毎日がコンクールなのです。

新しい復刻メニューについて

4月初旬より、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌOBであり、パリのドゥニ・リュッフェル氏の下で勉強しました福田健太郎が新しいシェフとして参りました。

これを機に、月々のお菓子メニューを一新しまして、より多くのお菓子を皆様に紹介して参りたいと思います。

今年の私の新作発表会、<イル・プルー・シュル・ラ・セーヌの1>より、更に今年の27回目を迎える<ドゥニ・リュッフェル氏の講習会>からの新作を多数折りこみながらから、毎月10種の生菓子、そして数種のタルトゥやその他のお菓子が次々と入れ代ります。

どれもこれも私共自信作のおいしさのものばかりです。それでもイル・プルー・シュル・ラ・セーヌには御伝えできないお菓子が数多くあります。

ずっとこのペースで、できる限り多くのお菓子を作っていくつもりです。更なる味わいの高みを目指して、新シェフ以下頑張って参ります。

どうかご期待ください。

ただいまお出ししている復刻メニューです。

【5月・6月のメニュー】http://www.ilpleut.co.jp/gateaux/menu_1205.html

 

宮城調理師学園に一度来てみてください

 この学校には食の領域でのパティスィエとしての人生にとって大事なものを与えてくれます。少しでも良い授業をと先生たちも頑張っています。そして他の学校にはない、おいしいフランス菓子のための技術とレシピがあります。そして他の学校では味わえないおいしさと、お菓子を学び作り、食べます。

 一度実習室を見てください。楽しく、明るく、好奇心に満ちたたくさんの顔があります。

宮城調理製菓専門学校HP

 

今、全国にはかなりの数の製菓・料理のプロフェッショナルを目指す若者たちの専門学校があります。これからは若い世代の著しい減少により、新入学生の獲得競争はさらに激しくなっています。この激化する競争の中で、私の眼には本来の食の領域としての職業教育が大きくゆがめられてきているように思えます。

 

(本来の正しい目標のための職業教育)

 

○菓子作り、料理作りの喜びを教える

それぞれの領域の職業教育は、それぞれの領域でやがて実際にプロフェッショナルとして働くための基本的心構え、基礎的知識、そして技術が教えられ、訓練されるべきです。そしてこれはどこの学校でも理念として掲げています。

 私もフランス菓子を作るパティスィエとして、実際の仕事場としての私のパティスリーに入ってくる前に、これだけは是非しっかり学校で教えてほしいことがいくつかあります。

 まず最も大事なことは、本当においしいお菓子や料理を食べた時の、心と身体にいっぱいに沸き上がる嬉しさと幸せな気持ちです。この感動なくしては、一生の仕事として菓子作りや料理作りをやりがいのあるものとして、意欲を持って続けていくことは出来ません。

 そして自分が作った本当においしいお菓子を、他の人が食べた時の喜びの表情です。これによって得られる確かな誇りが、パティスィエとして、キュイズィニエとしての人生を力強く歩んでいく力を与えてくれるのです。人に喜びと幸せを与えるために、自分の仕事はあるんだと知った時、食の領域にある者は一番大きな人生の力を得られるのです。

 

○パティスィエ、キュイズィニエとしての芯の喜びを与えるためには

 それぞれの専門学校が「食」の本質と使命を認識しなければなりません。食べ物はその中に含まれる成分がやがて形を変え、人の細胞、組織、器官を作り上げ、そしてそれを健全に動かし、人の心までをも形成する人間の営みの本質的な部分を担うものであることをしっかり認識しなければなりません。人の心と身体を幸せにも健康にも不幸せにもし、さらには疾病をもたらすものであることをもう一度知らなければなりません。そして、その認識の上に心と身体に健康をもたらす食をそれぞれに模索しなければなりません。そして真の健康をもたらすお菓子や料理こそが、真のおいしさを持っていることを自ら知り、生徒達に教えなければなりません。これは食の領域にある者は全て、特に若者たちを教育する立場にある人たちが決して忘れてはならない最も基本的な視点なのです。しかしこのことが今の食の専門学校に致命的に欠けているのです。

 

○理念より経営が全てに優先される

 これは至極当然なことです。経営的に成り立たなくては、学校を維持することも生徒達に勉強のためのよい環境を整えることも出来ません。経営を成り立たせるためには、毎年安定した一定数の新入生がなければなりません。ましてやこれからは若者の数が減少していくのですから新しい生徒獲得のために競争は一段と激しくなり、様々の手を考え出さなければすぐにでも淘汰されてしまいます。

 しかし理念や生徒の幸せなどは二の次で、学校経営のすべてが正に生徒を獲得するためのなりふり構わぬ手段を考え実行する、この一点にあるようになっているのです。

 つまり学校の教育内容、教員の質、そんなものはどうでもよく、学校がどれだけ素晴らしいか、この学校に入ればもう皆さんは立派なパティスィエやキュイズィニエになれ、社会に出ても輝く未来が待っているという表面的なイメージを作り上げることに全力を注ぎ、それ以外には少しも力を注がれません。

 

○有名料理人やパティスィエの名前で学校を飾る

 最も多く見られるのはテレビなどで名の売れている有名パティスィエやキュイズィニエを年に一度だけ、出来るだけ数多く来てもらい、形だけのデモンストレーションをさせ、彼らの名前で学校を飾り、「これだけ有名な先生たちが来る学校なんだから、そこの授業内容もすべてが素晴らしいに違いない」と一般の人に思い込ませるのです。また、ある関西の専門学校では謝礼だけを渡して学校案内のパンフレットに有名人の写真を数多く載せ、実際の授業は一度もないというところもあります。これらのパティスィエやキュイズィニエの中には相当の見識と技術を持っている人もいるかもしれませんが、それらの方が授業内容に影響を与えることはありません。学校の表面的な見栄えだけは有名人の名前や顔で派手にはなりますが、学校が日頃生徒に対して与える授業は少しも変わることなく、それこそ形だけの稚拙な授業が続けられます。

 

○デコレーションで賞を取る

 次に考えられることは、お菓子のデコレーションに最大限の授業時間をあて、マジパン細工で花や人形を作ることや、飴細工などを駆使した大きなオブジェを作ることに最大限の力を注ぎ、様々のコンテストで賞を取り、その学校の名を広めることです。しかしその日々の実際のお菓子・料理作りの技術などは旧態依然でほったらかしておいてです。でもこのデコレーションの技術はほとんどの生徒にとっては将来のための利益にはほとんどならない無用の長物なのです。

 学校に入学してくる若者たちの中には、将来は独立して自分の店を持つことを夢とする子が多くいます。しかしこんな時、砂糖でオブジェを作るという特化された卓越した技術などは全く意味を持たないのです。コンクール用のデコレーションは日々のお菓子作りとは繋がりのない分野なのです。

 

○日々のお菓子作りには全く関係のないコンクールの技術

 かつてある日本人パティスィエがフランスで行われた技術コンクールで世界一になったことが大きな注目を浴びました。この世界一という言葉が先行し、このパティスィエがお菓子作りの全てにおいて世界一のセンスと技術を持ち、世界一の素晴らしくおいしいお菓子を作るかのような虚像を作り上げました。

 確かにいくつかのコンクールでは、お菓子の味わいも評価されますがそれはとても小さな部分で、ピエス・モンテと呼ばれる飴細工などの大きなオブジェのコンクールなのです。これは日々のお菓子作りの仕事とは殆ど関係のない特殊な技能なのです。このピエス・モンテに秀でているからと言っておいしいお菓子が作れるわけではありません。むしろ多くの場合、ピエス・モンテに重きを置いているパティスィエは、お世辞にもおいしいと言えないお菓子を作ります。味わいについての考え、技術は持っていません。菓子屋にとって一番大事なことは、日々一生懸命おいしいお菓子を作り、お客様に喜んでもらうことなのです。

 さすがに世界一の賞獲得と言うことで長く大きな注目を浴び、これ以後コンクールで賞を取ったり、ピエス・モンテなどに秀でることが菓子作りの最も大事な部分であるという雰囲気がこの業界に満ちてきたことは事実です。しかしデコレーションやピエス・モンテは、そのパティスィエのお菓子作りの技量を表すものではありません。

 

○私の生涯の友、ドゥニ・リュッフェルにとっては毎日がコンクール

 私がフランスのかつての正統な伝統の中で育った最後の巨人と考える、私が研修したフランス・パリのパティスリー・ミエのオーナーシェフ、ドゥニ・リュッフェルはよくこう言います。

 彼の師であり、やはりフランスのガストロノミー界に長くその名を残したジャン・ミエ氏は彼にコンクールに出るなと常々言っていたそうです。そして「パティスィエやキュイズィニエにとって日々が大事なコンクールであり、私たちの役目は自分の作ったものを食べてくれる人のために技術を磨き、時間、エネルギーを可能な限り注ぎこんで、旨い料理とお菓子を作り、出来るだけ大きな喜びを感じてもらうことだ」と言い続けたと言います。

 

○巷の希望者にはその学校の正しい評価は分からない

 でも普通の家庭では子どもがパティスィエになりたいと思っても、どんな学校が本当においしいお菓子や料理を教えてくれるか、あるいは将来有効な心構えや技術を教えてくれるかなど、分かる訳がありません。テレビでの評判や、雑誌での評価などで専門学校を決めざるをえません。つまり理念や授業内容などはどうでもよく、派手に有名人を呼んだりデコレーションで賞を取るなどに力を注いでいるところに行ってしまうのです。多くの場合、このような表面的な派手さは入学してくる若者たちにこの人生に有益なものを与えることを保証するものではありません。

 しかし新しい生徒を獲得するために派手なことを絶対にしてはならないということは言いません。大事なことはデコレーションの技術だけでなく、おいしいお菓子を作るためのしっかりした技術も確立して生徒を受け入れてほしいと思うのです。それは教育の場として当たり前の、最低限度の責任であると思うのです。

 

○生徒達に食の大事さと興味を引き起こす授業をしなくてはならない

 これはしょうがないことなのですが、製菓や料理の学校がお菓子や料理への強い思いを持った子たちだけが来るのではないのです。大学受験に失敗したからとか、高校だけでは格好がつかないから専門学校にでもやろうか、行ってみようかと言う、とても食に低い意識しかない子どもたちが少なくないのです。

 しかし学校がとにかく入学させればあとはいいと考えるのであれば、このような子どもたちは全く無為の1~2年間を過ごしてしまうのです。学校に入ってくる動機は何でもいい。とにかく入ってきたら子全部にお菓子や料理作りの素晴らしさを教えるような授業にしなければならないと思います。その基本はやはり誰が食べてもおいしいと感じられるお菓子や料理を作ることなのです。

 しかし現実はそうではありません。それまでそれぞれの学校がやってきた旧態依然の、まったく停滞した味わいのお菓子や料理が教えられています。私の店にもいくつかの製菓学校を卒業した若者が来ますが、その中に、専門学校に在学中はお菓子というものは少しもおいしいものではないと思っていたと少なくない若者が言います。これはこの子たちにとって大きな不幸です。自分が作るお菓子や料理を旨いと感じられないのでは、仕事に自分なりの喜びを見つけることも出来ないし、これからの長い人生の中で仕事の中でぶつかる困難にも勇気を持って向かっていくことは出来ません。製菓や料理の専門学校は、製菓衛生士とかのちゃちな資格だけを得るためだけのものであってはなりません。確かにこれまでやってきた授業内容を大きく変えることはとても困難でしょう。その学校が全ての面で変わらなければならないからです。しかし若者たちのために変わらなければならないのです。

 

○私が月に2日、お菓子を教えに行っている宮城調理師学園

 私がこの宮城調理師学園にフランス菓子の指導に伺うようになったのは6年前からです。初めの頃は学校の方でも私がどのような考えと技術でフランス菓子を作るかということは全体的には把握されておらず、不安な面もあったと思います。しかし1年2年と続けていく中で学校としても将来に渡って私のフランス菓子に対する考え方、技術を学校に根付かせたいという考えを頂きました。私もこれは心底うれしい申し出でした。私がパティスィエ人生の中で築いてきたものを、これからパティスィエになろうとする若者たちの初期の技術、精神形成の時期に、その糧としていきたいと言って頂けたのです。教室の多くの実習時間を私のオリジナルレシピによるお菓子に当てられ、全面的に弓田イズムを取り入れようとされています。そこにはただ単に新しい生徒を集めるために人寄せパンダとして私を呼ばれたのではなく、生徒たちに「食の大事さ」と共にフランス菓子の本質的なおいしさ、素晴らしさを伝えたいという思いにあふれているからです。そしてまた他校に対して誇りを持てる教育校にしたいという強い思いが感じらたからです。

 

○私の授業はパティスィエ人生の根幹を形成するものにしたい

 私は月に一度、デモンストレーション、デモンストレーションのみの授業と、生徒たちの実習による授業があります。私は自分の授業がただ時間を費やすためだけのものではいけないと常に言い聞かせています。授業を通して、食の作り手として、パティスィエとして、基本となる考え方、技術と共に、お菓子に使う素材の物理的科学的特性を出来る限り詳しく説明し、フランス菓子の簡単な歴史、その他の話を交えながら、単に手の動きとかの技術的なことばかりでなく、多くのことを与えてやらなければと考えています。

 やがて卒業して実社会に出ても、可能な限り幅の広い知識やお菓子への興味があれば、一人でも多くの若者がそれを乗り越えていけるようにしたいのです。一生お菓子作りが面白いものであってほしいからです。

 

○校長先生からの「よりアカデミックに」という言葉に私は大きな力を貰いました

 この学校の授業を進めるにあたり、私ももう一度自分の技術、考え方を見直し、あやふやだった点を再確認し、この学校のためのテキストを作りました。これも年々手を加えています。このようなお菓子作りの理念、基本的な考え方、技術、科学的な考え方に裏打ちされたテキストは他のどの日本の製菓専門学校でも見つけることは出来ません。彼らにより正しくイメージにとんだ技術を伝えたいという思いで築き上げてきました。ただ私としてはこんな授業方針を学校ではどのように思っているのか不安な点はありましたが、3年前、校長先生に「よりアカデミックな授業に」という言葉を聞いて、私のこれまでの考えをさらに進めていけばよいと確信が持てました。そして、これ以来、私も生徒への指導をもっと踏み込んでいかなくてはと自分に言い聞かせました。実習の授業では生徒たちの間を足しげく見て回り、まめに声をかけることを心がけています。

 初めはどうも私に対して人見知りしている子も、こちらから声をかけるようにしていると、やがて少しずつ生地の状態をきいてくるようになると、本当に嬉しくなります。私の教え方が未熟だったこともあるのでしょうが、ムラング・イタリエンヌを実際に彼らの目の前で作り、すぐに実習させても、なかなか全員が旨くはいきませんでしたが、二年前からは皆本当によいムラング・イタリエンヌを作るようになりました。「おお、いいムラングだぞ」一言声をかけると、とても嬉しそうな笑顔を見せてくれます。月々の学校の授業を私もとても楽しみにしています。

 

○卒業生の寄せ書き

 去年と今年の卒業生から全員の寄せ書きと、皆での記念写真を送ってもらいました。本当に嬉しいことです。何と言っても一番嬉しいのは「先生のお菓子はとてもおいしく、楽しい授業だった」というものです。私はこう感じてほしいがために、そう感じてもらえることが、私の授業の一番の目的であり義務であると考えていることは既に述べました。そう、これが「食」の分野の、そして製菓の教育の中核なのです。それにしても前に述べたように、ある学校にいる間は、お菓子とはおいしいものではないと考えていた若者たちはあまりに可哀そうです。

 写真を見ていると、もちろんほとんど名前を思い出せませんが、その時その時の表情が思い出されます。この宮城調理師学園の卒業生の寄せ書きは、私の歩んできたパティスィエとしての人生の中でとても大きな大事な宝です。

 

○私と学校の考えを支える卓越したリーダーと先生

 でも私の技術、考えを一つの場所に根付かせることはそれほど簡単なことではありません。それには学校の考えと私の考えを理解し得る優れたリーダーとなる先生、そしてスタッフがいなければ、これは叶いません。ここにはおられるのです。このリーダーとなる先生はこれまでパティスィエとしての相当の経験と技術を持っておられます。自分なりのものを既に持っておられます。でも彼は、私のお菓子の考え方、技術、例えば木べらやホイッパーの混ぜ方一つでも、私のやり方を理解され取り入れられているのです。これも本当に嬉しいことですし、また頭の下がるところです。日頃の先生たちの創意工夫があるからこそ、なかなかうまくできなかったムラング・イタリエンヌができるようになった。お菓子の出来具合が安定してきているのです。

 教える側全体が同じ意識を持ち、よりよい学生たちの授業にしようとしているのです。

 

宮城調理師学園に一度来てみてください

 この学校には食の領域でのパティスィエと人生のとって大事なものを与えてくれます。少しでも良い授業をと先生たちも頑張っています。そして他の学校にはない、おいしいフランス菓子のための技術とレシピがあります。そして他の学校では味わえないおいしさと、お菓子を学び作り、食べます。

 一度実習室を見てください。楽しく、明るく、好奇心に満ちたたくさんの顔があります。


宮城調理製菓専門学校HP

3.11から一年が過ぎて――弓田亨

2011311日から1年が過ぎました。この1年間、誰もが「絆」といった言葉をずっと目にし、耳にしてきました。でも絆といっても様々の絆があります。特に被災地の方々の家族の絆、地域の絆は私には想像出来ぬほどに深いものとなったのでしょう。でも被災地の方々とそこから遠く離れた私達の絆は、そして日本人同士としての絆はどう変わってきたのでしょうか。

大きな天変地異の前で人間の存在などとても小さなものかもしれません。今、多くの人が感じる絆は、再び訪れるかもしれない大きな天変地異への不安を持つ者同士のものなのかもしれません。

確かに電車の中でも、以前から比べればお年寄りなどに席を譲る光景はたまに見るようになりました。

でも日本という国を支えるべき本当の絆とは、力のある者は自分より弱者のために心と身体を使い、経済的活動にある人々が野放図に金を儲けることを戒め、自分の能力の80%を自分のために、残り20%を社会的弱者のためにささげることを潔しと皆が考え、行動することからしか生まれません。

バブル経済以降、日本では経済的価値を持たないものは少しの値打もないものになってしまいました。また経済的価値を生み出すためには人の尊厳を傷つけても構わないという風潮が生まれてきました。

しかしあの大震災は、人間には金以上にもっと大事なものがあるということを、私達日本人に教えました。私達はお金の価値だけが至上のものではなく、もっと大事なものがあることを人間の自覚としてもう一度確認しなければなりません。そうでなければあまりにも大きく重い経験の中で少し芽生えたかに見える他の人への思いやりも、殆どの日本人はすぐに忘れてしまうでしょう。

 

 

新年に寄せて

アップが遅れましたが、イルプルー新聞に掲載した新年への意気込みを、
改めてこちらにも掲載します。

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新しい年の雑感です。
思い出しても胸が痛み、心が深く沈む2011年3月11日の東日本大震災、それ以後の困難。

2012年は大禍なき年であってほしい――誰もがそう願っていると思います。
今も、あの大震災がもたらした不幸に喘ぐ方々も大勢折られると思います。そのことはどんなことがあっても、心のどこかに留めておかなければなりません。そんな大変な一年でしたが、私共イル・プルー・シュル・ラ・セーヌは皆様のお力添えのおかげで、無事新年を迎えることが出来ました。心より御礼申し上げます。

こんな大変な一年のあとに迎えた新年だからこそ、私は、2012年という年は、いつもの年よりも、光り輝く一年にしたいのです。自分が精一杯生きて、ささやかであっても光り輝き、こぼれる光の粉を散りばめて、この日本を素敵にしたいのです。

そして日本の「食」に正義をもたらすためにも、私にはまだまだやらなければならないことがあります。2012年も突き進みます。

イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ 弓田亨

(2011.12月発行 イル・プルー新聞第9号より)

平成正義の会のコンテストにて。

 去る9月27日、私の参加している平成正義の会の「味を主体としたお菓子作りのコンテスト」がありました。
 私は今回の全体のお菓子の作風はきっと元気のないものになるだろうと予測していました。結果は全くその通りでした。

 作り手の意志の感じられない、しまりのない、何か不安げにうろうろしているような、頼りない味わいのお菓子がほとんどでした。食べ物、特に人間の精神性が深く入りやすいお菓子の味わいは、その時の世相、経済的情勢、雰囲気に大きく影響を受けます。

 3月11日の大震災以来、想像以上に今も日本人の心は力なく、萎えているようです。そしてこの雰囲気は、日々の様々な行動に影響を与えます。これまでで一番、頼りないお菓子が作られたコンテストでした。その中で私がまぁこれとこれくらいは少しよいかなと思ったものは、他の人にはよい評価は得られません。

 特に一般の見学者の投票による評価では、私が「気が滅入る味わい」あるいは全体のバランスが全くバラバラのお菓子が1、2、3位を得たのは本当に驚きました。

 こう言っては何ですが、これが日本の大衆というものだろうかと本当に驚いてしまいました。こういう心の底に重い圧迫感が潜んでいる雰囲気の中では、大衆はますます自分を失うのだろうかと思ってしまいました。(弓田亨)

現在発行のイルプルー新聞NO.8より。
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仙台の被災地を訪ねて

私は430日、私も会員である私の出身校明治大学のあるOBの会のお二人の会員の方を訪ね、大震災の地、仙台に行ってきました。会員からのお見舞いをお渡しするために、他の4人の会員の方々に同行しました。新幹線が仙台市内に近づくにつれ、屋根瓦の修復のための、あるいは雨漏りを防ぐための青いテントが屋根にかけられている家がいくらか見られるようになりました。それを見ていると、何か身体の芯から熱くなるような興奮を感じ始めました。

久しぶりの仙台でした。私は仙台のある調理師学校で月に2日ずつお菓子作りを教えていて、震災の前の33日も授業をしたばかりでした。

311日の地震時は、私が教えていた製菓科はちょうど実習の時でしたが、屋外に避難し、幸いけが人は誰もいなかったとのことでした。しかしテーブルの上に会った卓上ミキサーなどは殆ど激しく落下し、大きく損傷し、また新築の校舎の壁にもひびが入り、校舎が陥没したとのことでした。以後一ヵ月遅れの5月の入学式までは職員の方々の大変な苦労があったようです。

また、私のお菓子・料理教室関係の方々が14名ほど被災地におられましたが皆さんとりあえず身体だけは無事でした。

そのような経緯の中での仙台でした。

仙台駅では会員の一人の方が車で迎えに来ておられました。全員が車に乗り、まず向かったのは私共イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ出身でプルミエールという小さなお菓子屋をやっているOGのところです。店はまだ開いていませんでしたが、裏口へまわってちょうど出てきた彼女と出会った時、やはり熱いものがこみあげてきました。そしてホッとしました。負けてなるものかと震災三日目からお菓子を作り営業を始めたとのこと。しかし食べるものさえない状態の元で、こんな時にお菓子なんか作っていいのだろうかととても悩みながらの再会とのことでした。でも食べるものが全く不自由な中で、彼女の作るお菓子は多くの方から、心から喜んでいただけたそうです。自分の店にかつていた子が、逆境の中でこんなにも頑張っているのを見て、本当に私も誇らしい気持ちを感じました。私達は先を急ぐので、10分ほどの後、彼女のところを去りました。被災の激しかった若林地区に案内されました。

まず着いたのは、道の狭い住宅地で、家がずっと縦横に立ち並んでいました。しかし家の中は柱と部分的な仕切りを残して素通しでした。何もないのです。そして家の周りには、いわゆる「瓦礫」の山ですが、「瓦礫」というよりも、柱であったと思われる太くて長い材木と、そして無数の木片、ふすまなどであったと思われるビラビラした紙のようなものが、道路と、家の周りに12mほどに積まれていました。もう言葉は出ません。私は、「アー、アー、アー」とずっと喉から声を出し続けていました。テレビや新聞で見ていた物と同じ光景が、大きく広く、強烈な実感と共にずっと続いている。暫くすると、私はしめつけられるようなのどの渇きを感じてきました。私は実際にこの仙台の地に今居るということが何か信じられませんでした。私のこれまでの人生の中で、見たことも考えたこともない光景の中に私はいるのです。たまに瓦礫の片づけをしている方を見ます。何か本当に心がホッとします。でも今、私達とこの方々との心の間には、理解できない隔たりがあることに気づき、心は沈み込みます。そして大きな通りに添った大きな物流センターの前を進みます。真っ黒くすすけた大きな建物、倉庫群。全く人気のない建物が並んでいました。もう既にかなり片付けられたとのことでしたが、ところどころに波に流された車が点在していました。それらの車の集積場もありました。恐らく2300台以上のこれらの車が、実際に人を乗せて走っていたということも、何故か信じられません。ベコベコに変形しているものが殆どです。

この若林地区では、大きな倉庫や工場で津波が来るとの予報に従って、すぐに車で高台に逃げるように指示があって、多くの人たちが車に乗った。しかし道は大渋滞になり進めず、そこに津波が押し寄せ、多くの方が車ごと流されたという説明を聞きながらの進行でした。まるで私は日常とかけ離れた感覚を失った空間をさまよっているようでした。一時間ほどしてから、もう一人の先輩がおられ、やはり被害が甚大であった多賀城市へ向かいました。

そこで先輩と合流しました。彼は震災後、かなりあちこちを何度も詳細に見て回られたようでした。

これから、多賀城市の被害の大きかった所を通り、松島、奥松島へ案内するとのことでした。まず向かったのは、多賀城市の海っぺたの住宅地でした。ここは家は残っていましたが、まるで23日前に震災があり、全く手が下されていないと思えてしまう生々しい状態でした。家の高さの2/3ほどの高さに積まれた膨大な瓦礫が家と周りと道の脇にありました。胸が大きな力で押さえつけられているようで、思うように声が出ません。ここではほぼ無言でずっと周りの光景を車の中から目をこらして見続けました。そしてずっとこのような光景が続き、途切れ、また同じ光景が現れるのです。ホントに延々と、延々と続くのです。ある程度このような光景を見続けると、次第にこの現実離れした光景が実感を失い、感覚の死んでしまった、瞬きさえも忘れてしまった目の前を無感動に機械的に流れていくような感覚に陥ります。暫くこんな時間が流れました。しかし奥松島の被災地に着いた時に、私に視線は、宙を泳ぎました。何か理解の出来ない光景が目の前にあるのです。海岸近くの松林の前から、ずっとずっと奥の方へ、地面の上にめぼしいものの何もない空き地が、だだっ広く広がっています。かなり片付けられたのでしょうが、瓦礫は2030cmの高さでところどころあるくらいです。しかし地面を見ると、家の土台がいくつもあり、それが無数に奥の方へ、何百メートルも、そして横も、ちょっと目測できぬほどに、広く続いているのです。何もないのです。私には未だ理解できません。仙台の方が言われました。

「ここにはずっと家があったんですよ。完全に流されました」

私は少し理解しました。しかし実感がわかないのです。あまりにも広大過ぎて、そこに多くの家があったと言われても、私はそれを見ていないので、震災前と後の変化を比較することが出来ないのです。たまに流されずに残った家がポツンとあります。家の中には何もありません。カーテンが風にふかれ、以前の光景を暗示することもなく乾いて無表情にフルル、フルル、フルルと揺れ続けていました。

そこはもう水は引き、乾き、311日を伝える重い空気は四月の末日の晴れの日の爽やかさによってかき消され、私達被災地から説く離れていた者にも感じられる311日の痕跡はほぼなくなっていました。災害の地を訪れても、結局私は実際の被害に遭われた方々の筆舌に尽くしがたい慟哭の心情を少しでも感じることは出来ていないのです。私はここで様々の想いが巡り来ました。

 

311日の震災以来、私は何を感じ、何をしてきたのだろうか。あの日は私は東京の私の経営するお菓子教室にいました。8人ほどの生徒さんが家に帰ることが出来ず、教室に生徒さんと一緒に段ボールの上で寝ました。毛布もなかったけれど、暖房は最強にして、寒くはありませんでした。そして暖かい味噌汁とご飯も、皆一緒に食べることが出来ました。そして翌日からは教室の生徒さんが授業に来られず、一週間ほどはずっとその対応に追われました。こういう状態になると普段は表に現れない様々のことが出てきます。会社内の人間同士の不信感、そして翌日からは売店のお菓子の売上は一週間ほどは1/5以下に落ち込みました。お菓子・料理教室の生徒さんの新入学の申し込みはほぼ止まってしまいました。このままでは会社そのものの存続が危うくなるとの危惧が出てきました。以後、ずっと緊急の対策の日々でした。その中で震災直後から被災地の惨状を憂い、被災者の皆さんへ私なりに心を砕いてきたつもりでした。食べ物、お菓子などの発送はささやかでしたが続けてきました。それはそれでよしと私は思っていました。

 

でも、その奥松島の、何もない更地同然の状態を見て、私は本当に被災者の方々の苦しみや慟哭を知ろうとしたのだろうか、私は結局彼らの苦しみの100万分の一も分からなかったし、分かろうともしていなかった。日々の自分の困難さの対応にのみ没頭してきただけだった。日本の同胞の艱難辛苦には目をそむけていたのではないかという、恥ずかしい無力感に捉われました。

 

その後、先輩の後に戻り、遅めの昼食を頂きました。同じ多賀城市でも、高台にある先輩の家の周囲は津波の被害はなかったそうですが、ライフラインは寸断され、水もままならぬ状態となりました。先輩は「俺は70歳だけど身体だけは元気だから、水汲みにも来れない一人暮らしのばあちゃんやじいちゃんに水を汲んでもっていってやったよ」と言われました。私は、「先輩って本当に、本当に凄いなぁ」と思いました。

 

そして、仙台へ戻る時間となりました。彼は「見舞いに来てくれてありがとう。本当に心から嬉しかった。ありがとう。ありがとう」と言われました。最後に先輩と一人一人握手です。先輩の雰囲気から少しは予想していましたが、ビックリするほどの握力の強さ、私は完全に握り負けしました。少し痛く感じたほどでした。沈んでいた私の気持ちはその年の痛さに目を覚ましました。

そうだここには私のちゃちな気持ちでは覆いきれない艱難辛苦の嗚咽の中にいる人もいる。そして前を向いて歩き始めている人もいる。被災された方々の未来へ向けての一歩は多くの人にとって、とんでもなく重く、苦渋なものになるだろう。私はそれはずっと見届けないといけないし、一本があまりに重いものになった時は、その足を後ろから、例え小さすぎる力で会っても、押し続けることを自分に戒めなければならないと思いました。何故か私はかえって仙台の地の先輩に励まされて返ってきたような、最近になくとても長く感じられた一日でした。

帽子

私達イル・プルー・シュル・ラ・セーヌでは、本当に小さな喫茶室ですが、着席し、お菓子をお召し上がられる場合は、帽子などを取って頂いています。これは次のような考えによるものです。

 

日本人は、かつては礼儀正しく、正義を重んずる国民でした。しかし、今の日本人の心と身体は荒廃しています。電車で、しかも優先席で、目の前に老人や妊婦が立っていても、全く無視。席を譲ろうという素振りも気配も感じられません。全く情けない国になってしまいました。

歩いていて自分の持っているバッグが人に強く当たっても知らんふり。朝の電車の中で肉まんを食べるお嬢さん。恥も外聞もなく化粧をしている女性達。食事の時に足を組む人達。一体、かつての日本の心はどこに行ってしまったのでしょうか。

 

どんなに時代は変わっても、失っても、変わってはいけないものがあると思います。

 

昔は日本では、室内に入ればかぶり物は取る、そして座って食べる時は決してかぶり物をつけたままなどということはありませんでした。

最近は寿司屋さんや居酒屋さんでは帽子をかぶったままは当たり前。若い人だけではありません。4060代のおじさんまでが、若ぶってか、若者のすることに理解があるところを見せたいのか、堂々と帽子をかぶったままの食事です。とても嘆かわしい。ここはアメリカではありません。日本なのです。アメリカや他の国の習慣を真似をすることはありません。

日本人がずっと培ってきた「日本の形」というものがあるのです。これすら守れなくて、正義感に富んだ弱者に対して優しい、思いやりのある国民にはなれるはずがありません。私達は戦後、特にバブル経済期には、経済的価値のあるものだけが大事にすべきものであり、それ以外のものは、他人や弱い人への思いやり、優しさ、助け合う心など、日本人としての固有のものであっても全く価値を持たないものであり、守る必要のないものだと考えてきました。そして人と人のつながりや正義感、礼儀が失われてきたのです。

 

私達が本当に一生懸命に作ったお菓子が、私達の喫茶室で、帽子をかぶったままで食べられる。これほど私にとって不快なことはありません。私達のお菓子作りの考え方と、日本の心、礼儀を大切にしたいと言う考えは表裏一体なのです。私達のそんな考えを理解して頂ける方々に私達のお菓子を食べて頂ければこれほど嬉しいことはありません。また、私共の考えが理解できない方は、決して私達のお菓子の味わいを深くは理解されることはないと思います。

 

想像も出来なかった東日本大震災が日本を襲いました。この危機が、バラバラになってしまった日本人の心を一つにまとめてくれるだろうと言われています。しかし阪神淡路大震災の時も同じことが言われました。でも日本人の心は少しもまとまらず、益々バラバラになってきました。

日頃から日本のあるべきものを大事にする。自分より弱い人達には気づかう。このような心が常日頃から大事にされていなければ、今、被災者を思う心も、やがて時間と共に希薄になり、元の、人々が疎遠な社会に戻ってしまうように思えてなりません。

 

残したい、守りたい味わいは、作り手と食べ手のお客様のお互いの考え方の理解も無ければ長く保つことは出来ません。私達はそんな思いで日々お菓子を作り続けています。

 


(2013.8.19追記)

ファッションで帽子をかぶっている方は勿論とっていただくことにしておりますが、病気などご事情があって帽子をかぶられている方に関しては、帽子をとることを強制しておりませんので、どうぞご安心してお店にいらしてください。

私共が支援プロジェクトを行っている「会津食のルネッサンス」より

私共が支援プロジェクトを行っている、
「会津食のルネッサンス」の本田勝之助氏が、
風評被害に悩む福島の野菜を購入し、
その野菜で会津の避難所の方々に炊き出しをする
という野菜の詰め合わせセットを販売しています。

同じ「食」の道に有る者同士、
私共も、ささやかながら協力させて頂きました。

以下、pray for Japan 野菜詰め合わせセットの概要です。

被災者の皆さまは毎日カップラーメンなどのレトルト食品や、
おにぎりや菓子パンなど単調な食事が続き体調を崩される方も増えています。
おかずや生ものの要望はあれど、被災地へ送るとなると大変です。
そんな中、弊社では地域の農家様と協力して、原発の影響のないお野菜を避難所の皆さまに届けます。

状況によってお詰めする野菜は異なりますが、3000円相当の野菜を詰め合わせにして、炊き出し可能な避難所へ届けます。

ぜひ、皆様もご協力頂けましたら幸いです。
http://www.keisyoumai.com/?pid=30485329

どぶろくのこと

私の生家は、漆器の会津塗の卸商をやっていました。

暮れにその年の仕事の労をねぎらうための宴会が催されました。漆器は分業制で、板を切り、それを組み立てる職人さんから最後の仕上げの蒔絵師さん達まで、家に呼び、酒食のもてなしをしました。

私は小学校に入る前から酒が好きだと言うことを皆さん知っていたので、私も呼ばれ、じいさんの横にちょこんと座らされ、職人さん達に面白がって小さな猪口に半分くらいついで飲まされました。それがうまく感じられ、嬉しく、数杯以上飲んでいたように思います。私は小学校に入る前からこそっとじいさんと父のために置いてある一升瓶からコップに少しつぎ、時々一人で飲んでいました。

さすがに小学校の23年になると、酒の席には入れてもらえず、たまに親父の酒を少し盗み飲みするくらいでした。そしていつの頃からか、飲まなくなりました。

大学に入ってからは一気に酒飲みになりました。たまにお金がある時は札幌ジャイアントかサントリーレッド、たまには日本酒でした。しかしその頃の日本酒は何となく甘ったるい不自然な飲み口であまり好きではありませんでした。確かに少し余計に飲むと翌日頃、頭が痛くなりました。

大学4年の時、会津の猪苗代湖でボート番のアルバイトをしました。そこの職員の方は、湖の周囲の農家の方々で、毎日交代で当直をされていました。秋になり、稲刈りが終わってしばらくすると、当直の方はそれぞれ自家製のどぶろくを持ってきて、夕食の時に飲まれていました。私もその時初めてどぶろくというものを飲みました。

何度かご馳走になっているうちに、その旨さにやみつきになり、アルバイトを終わってもどぶろく飲みたさによくその事務所に泊まってしまいました。

とにかく楽しく、明るく、豊かに旨い、作る家によって味が大きく異なる。作る人が同じでも作る時期によって味が変化する。少し酸味があったり、苦みがあったり、甘口だったり辛口だったり、いろんな味が豊かに重なり合って、鼻に口にこうじのぽっくりしたふくらみのある新鮮で若々しい香り味わいが溢れる、とにかく旨い、旨い、旨い。

しかし頭の片隅には、いつもどぶろく密造酒を飲むと、毒が含まれていて頭がおかしくなるという意識がありました。最初は本当に恐々飲んでいました。

私の母はずっと以前から、私達子供にそう言って、密造酒は決して飲んではいけないと言い続けてきました。しかし泊まった事務所で度々しこたま飲みましたが、前から悪いからか知りませんが、特に頭が悪くなったとは感じませんでした。

つまり、あの当時は、私の親たちは、戦前の「全てはお上の御意志」という国家の方針の下に学校教育を受けてきましたから、とにかく国の言うことに逆らってはいけないという気持ちが強かったと思います。

「密造酒を飲むと頭がいかれる」ということは、常に上からの徹底した教育の結果であったと思います。

戦前と、戦後かなり経つまで、酒税は主要な税源ですから、密造酒は徹底的に取り締まられました。

ずっと貧しい生活を強いられてきた農家の楽しみと言えば、どぶろくくらいしかなく、新米が取れる頃になると、禁じられているとは分かってもどぶろく作りが始まります。しかし国としたら、ちょっとでもそんなことを認めれば、やがて税源が危うくなります。

取り締まりは苛烈を極めたそうです。次第にどぶろくの隠し方が巧妙になってくる、それでも突然の踏み込み捜査と家探しで見つけられてしまう。それでも作る。母の実家などでは便所の床の下に便器から入れて隠したり、あるいは少し遠い山の中に埋めたりもしたそうです。それでも見つけるとのことでした。そしてたまには見せしめのために警察にしょっぴかれることもあったそうで、どぶろく作っただけとは言え、警察に連れて行かれるなどと言うことはその当時は正に家の大恥。決してあってはならぬことと誰もが考えていたそうです。

私にすれば、現在の日本酒はほぼどれを飲んでも一度に気分が沈みます。頭の先の方が、いっぱい口に入れた途端に重くなるのです。全く楽しいあじわいがない、作り手が人為的に、米の旨味を無理やりねじまげて作り上げ押し付けるような印象です。

私が子供の頃飲んでいたのは当然、原酒にアルコールやぶどう糖、水飴を加えて作るアルコール添加酒または三倍醸造合成酒でした。

でもまだこちらの方が今のものより、少し大らかな楽しさのあった味わいだったような気がします。しかし確かではありません。

あのときのどぶろくは、今の清酒とは全く異なる世界の味わいでした。

とにかく明るく楽しく旨い。たまに今でもどぶろくをもらいますが、あの旨さには程遠い。米もあの頃は今のものよりもっと旨く、そして全く自然まかせの酒造りだったからでしょう。

私はとても不思議なんです。なんで酸味や苦みや様々の味わいがふっくらと豊かに感じられる楽しく旨い酒造りを誰も目指してこなかったのだろうととても不可解に思います。

しかしそんな心から嬉しくなるようなどぶろくの味わいを、旨さとして認めてしまったら、密造酒作りに火に油を注ぐように盛んになってしまう。

だから本当に嬉しく楽しいどぶろくの味わいを抹殺するために、密造酒は毒を含み、身体に害を及ぼすし、しかも本当の日本酒の味わいではないから決して作っても飲んでもいかん、ということを徹底的に知らしめようとしたのではないかと、私は強く考えます。

蔵元が作る、素人にはどんなにあがいても真似のできない研ぎ澄まされた味わいが身体にもよく、真の旨い日本酒であると大衆に思い込ませようとし、同時に、楽しさと嬉しさをもったどぶろくとは違うかなり手を加えた味わいを本当の日本酒の味わいとして大衆におしつけ、市場に流そうという流れがあったのではないかと思います。

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