時事ネタ

ミシュランに物申す(2)

*日本におけるミシュランの星の意味

 いずれにしても日本での今回のミシュランの評価はおかしなことばかりです。なんでフランス人がフランス人の価値観をもって、日本料理や寿司を評価しなければならないのでしょうか。一つ一つおかしなことを指摘してみましょう。

 まず第一点、味の分からない料理を評価する調査員。覆面の調査員があちこち行って、実際に食べて調査評価したとのことですが、その覆面の調査員は、フランス人なのかい?日本人なのかい?まず私はそれが知りたい。

 フランスの様々な食習慣と味わいに対する価値観は、今でも日本とは全く対極にあります。私は今日本で作られている和食は、本来の料理の意味と使命からかけ離れてしまった形式的な味わいしかもたない異常なものだと認識しています。まったくその存在の価値観を認めることはできません。それでもフランスで食べた、ル・ピュイの一ツ星レストランのフランス料理は、懐石料理まがいの器と皿の上の演出だけの失笑しか誘わない実にチャチな料理とはいえない代物でした。このレストランの本店はパリの三ツ星だそうです。こんなことを言えば、今やフランスも日本料理を手本とするようになったのかと喜ぶ人もおられるかもしれません。しかし、それはあまりにチャチなのです。ただ器の多様さとテーブルの上の流れる形式を、まさしく浅はかに真似しているに過ぎないのです。一つの料理のポーションを小さくするとか、ただ訳も分からず憐れな人まねで素材の味を消そうとしているだけなのです。

 日本の和食の作り手は、それぞれの素材の低いトーンを繊細の極致を極めバランスをとろうとしているのです。(私はそれを本来の味わいとは認めませんが)しかし、素材や料理で多様性と多重性のあるものだけを食べ続けてきたフランス人にとって、意識が消えてしまいそうな低いトーンの味わいもバランスも理解することなど到底不可能なことなのです 今、フランスの伝統が生んだ最後の巨人と私が信じるパティシエ、キュイズィニエであるパティスリー・ミエのシェフ、ドゥニ・リュッフェル氏もずっと自分は日本料理の味わいを理解することができなかった、と言います。彼はお菓子と料理の技術講習のために毎年、日本に来るようになって、今年で23年になります。それほどずっと長く日本に来ていても、日本の味わいが少し分かりかけてきたのはここ数年だと言います。これは決しておかしいことではなく、日本人がフランスに何年いたとしても、本当のフランスの味わいを理解して帰ってくる人は今までまったくと言っていいほど存在しなかったことと同じだと思います。それほど自分が生まれ育った場所以外の異国の味わいは理解できないものなのです。

 つまりミシュランが、日本の懐石料理の形式を真似るフランスの料理の作り手を評価するのは、彼らが日本の味わいを理解したからではないのです。ミシュランのガイドそのものが、ただ面白おかしくという話題性が全てのマスコミ本性そのものに成り下がってしまったからに他なりません。

 では日本の味も分からないフランス人が、なぜ何を根拠に評価をするのだ?と思われるでしょう。分かりもしない味わいを、有無を言わさず一方的に私たち日本人の食を傲慢に評価するということは、ミシュランの考え方の底にあるのものが日本人の蔑視であることを表しています。自分達がフランス的な価値観で、味も分からない下劣で稚拙な日本人を少しマシにしてやる、そんな思いあがりです しかも調査員の連中がフランス人であろうが、日本人であろうが、間違いなく料理の味なんか分かりはしません。器や内装など、形だけの季節感しか持たない味わいだとか、彼らには理解しがたい日本的な雰囲気だとか、まったくそれらに対する冷徹な理解など持たず、あたふたと評価したのでしょう。

  第二点、評価の基準が全くわからない、ということ ミシュランの本来の評価は、料理、内装、サービスの総合点。フランスでの「トゥロワグロ」は料理は最悪であり、金をかけた一連の仕掛けだけしか三ツ星をとる要因は見当たりませんでした。 日本での「ローズイエ」まぁ料理はしっかりしている、内装も豪華だし、ギャルソンの慇懃さも、お客に厳かで十分に不躾な重圧感を与えている。ミシュラン好みの風情で三ツ星はまぁ分かる。しかし値段は高い。ここで出されている料理は、すべてフランスから最高の食材を取り寄せて作られています。まともなフランス人の料理人だったら誰でも作れます。私の心をときめかせる作り手の息吹はありませんでした。それにしてもその他多くのフレンチレストランがまずすぎる。その中での評価であるとしか思えません。

 「タイユヴァン・ロビュション」ここは料理もワインの状態もきわめて芳しくなく、日本のどこにでもあるフランス料理とはいえない、寂しいとしかいいようのない代物でした。しかし金ぴかの内装と、お客に対して勝ち誇ったような表情のギャルソンとソムリエの態度は実に印象的でした。

 第三点、高い評価を得たレストランには、フランスの名店の名が多いということ。 「タイユヴァン・ロビュション」「ポール・ボキューズ」が後ろ盾となるレストランが三ツ星、二ツ星に3店も名を連ねています。私は尋ねたい。本当にこれらのレストランは、超グラン・シェフといわれる人たちの後ろ盾がなくても与えられた評価なのですか ミシュランにとって未知の国で事業を広げるには、日本で名の通った、あるいは影響力のあるフランス人の偉大なキュイズィニエにゴマをすり、「トラの威をかりる狐」となって立場を強くしようとしたのは想像にかたくありません。フランス人の名の通った料理人を出せば、日本人はなんとでもなる、という正に日本人を見くびった評価であると思います。この評価は誰が見ても公正さに著しく欠けています。

 第四点、寿司まで評価する無意味さ 三ツ星と評価された「すきや橋次郎」の寿司は、確かに本当にうまかった。十年以上も前のことですが、あのおいしさの印象は今でも忘れることはありません。それ以来訪れていませんので、今の味は分かりませんが、あの親父さんがまだ元気なのですから、多分おいしさは守り続けておられるでしょう私はかつて、和の食の分野で本当に頑張っているのは、寿司屋の親父さん達だけだと書いたことがあります。※詳しくは、裸の王様の戯言 生命からの搾取 第14回「人生までもが天才の輝きを持っていたオヤジサン」へ

 しかし日本の産物は陸のものでも海のものでも、フランスと比べると味わいが薄いため、握り寿司の味わいはフランス料理と比べるとトーンはとても低くなります。比較的単純な工程にしないと素材の特性が失われてしまうため、長時間に込んだり、ワインのような味わいの芳醇なものと煮込んでしまっては、素材の個性が料理の工程に負けてしまいます。そんな中で作り出される握り寿司のあのうまさ。生まれ育ってきた味わいの領域での経験が全く異なるフランス人に分かるわけがありません。また「すきや橋次郎」と「小笹」の味の違いはおろか、他の寿司屋の味わいの違いなど理解できるはずがありません。 じゃあ誰が点数をつけ評価しているのか。要は日本人の評価がほとんどで、それに格好つけてフランス人なりの理屈をつけているだけでしょう。自分達の理解の及ばない異文化の中にしゃしゃり出てきて、自ら優れていると考えるフランス人が、日本人に寿司の本当の味が何たるかを教え導いてやるなんておこがましいにも程があります。

 第五点、日本という土壌での評価であるのに、日本人の評価は無視 それとまだ腑に落ちない点があります。何故今回は、今日本で多くの人に愛され評価されている日本でのトップクラスのレストランの評価が抜けているのでしょうか。また口うるさいシェフのいるれすとらんも何故評価が抜けているのでしょうか。「北島亭」や「コートドール」の評価はどうなんですか。まぁこの二つのレストランはミシュラン好みの金ぴかの慇懃な豪華さはありません。しかし「コートドール」には、日本人の心にあったシンプルな豊かさがあります。「北島亭」のフロアは確かに狭い。内装もシャレてはいない。しかしいつもいつも満員で、多くの人が彼の豪快で男気溢れる料理を、心からおいしいと思って店に訪れるのです。

 日本って国はそれでいいじゃないですか。フレンチレストランは、内装からサービスから料理までフランス的でなければならないなんてことはありません。しかもすでに腐りきってしまったミシュランの価値観を私達日本人に押しつけようというのは、根本に日本人蔑視の考え方があると思います。日本はアメリカとは違います。アメリカはグローバリズム発祥の地であり、全てのものを吸収する世界に類のない国なのです。フランス的な傲慢な考え方も、熱された砂漠へ落ちた一粒の雨水のように、あっという間に蒸発してしまいます。アメリカでやって良いことは日本でもやって良いということはありません。ミシュランの評価は、日本とフランスの様々な相違点を熟視して、大きな見地から評価されたものではありません。フランスという一つの国から仕掛けられてきた、精神的な隷属を狙ったものです。 私はこんな風に考えざるを得ません。結局これは日本に対する、フランスの国家的戦略なのではないかと。つまりほとんどの日本人が、絶対的、ともすれば神秘性を持つほどに権威のあるものとひれ伏しているミシュランの評価を持ち込むことによって、さらに日本人の愚かな大衆の意識を洗脳し、隷属させようとしているのではないかということです。フランスがやっていることは間違いのない崇高なことだと思わせ、フランスの経済圏の中に完全に従属させ、やりたい放題をしようとしているとしか思えないのです。フランスのワインを日本に大量に売りつけるため、日本人のソムリエをコンクールで優勝させブームを作り、成功したなんてのもかなり真実味のある話に聞こえます。私はこの話を完全に信じています。そして今、どんなワインが日本に送りつけられているかについては、第24回 裸の王様の戯言 生命からの搾取「私はもう決して、私たち日本人を豚並みに考えるイタリアから輸入された食材は本当にやむを得ない場合以外は口にしない」をご覧ください。

 彼らが日本人に向ける表立った顔と、実際に私たちにしていることは、まったく相反することなのです。栗の加工場で豚のエサとなる予定のクズ栗を、日本人だからといって高値で、まさしくイケシャーシャーと売りつけてくる国なのです

*このような虚構の評価の上に築かれた権威は必ず料理の作り手の心をスポイルし、堕落させる

 これはすでに変質したミシュランのガイドブックだけのことではありません。日本の食の雑誌にもそのまま言えることです。このような虚構の評価が力を持ち始めると、必ずほとんどの作り手がその方に注意が行き始めます。そして少しでも高い評価を得ようと、食の作り手としての良心と自覚を忘れ、マスコミに気に入られるための奇をてらった料理やお菓子が横行してきます。そして食べる人の存在は忘れられ、不健康な偽りの味わいが無理矢理押し付けられていきます。食はやがて、人間の心と身体の健康の喜びと幸せとはかけ離れたものになっていきます。

 今、まさにフランスは空虚な偽りの味わいが真実になってしまいました。マスコミとは常にそういうものなのです。多くの日本人が大きな憧れをもって見つめる、ミシュランの三ツ星もそうなのです。もちろん日本の雑誌や食の評論家にも同じことが言えますが、日本の食のマスコミは、現在のミシュランの評価以上に、あまりにも幼稚な考え方、鑑定眼しか持たない本や人がほとんどです。

 日本のマスコミが、食の本質を見抜く力を持たなければ、ミシュランのさらなる偽りの価値観の浸透を抑えることはできないでしょう。そして私たち日本人は、すでに彼らの意図の下に精神的に従属し、新しい植民地主義の被搾取者となっているのです。実に巧妙な搾取のあり方です。

ミシュランに物申す(1)

先日、日本でもミシュランのガイドブックの評価に揺さぶられた。果たしてこれは日本にとってよいことなのだろうか。

*まず今のミシュランの評価の本質をみなければならない。

 このガイドブックは、タイヤ会社としてのミシュランが、やがてくるモータリゼーションの時代に、一人でも多くの人が車を持ち、そして一人でも多くの人が、フランスのあちこちへ行き、一本でも多くのタイヤをできるだけ早くすり減らしてくれるようにという企業的意図をもって作られました。つまりフランス全土のホテル、レストランの格付けをして案内し、それまでなかった日々の興味を意図的に作り出し、本来なら誰も興味を示さない遠いところにでも、一人でも多くの人が行って、必要以上にタイヤをすり減らすようにと。

 中には三ツ星レストランめぐりを考える人もいるでしょう。四ツ星のホテルめぐりをしてみようと思い立つ人もいるでしょう。初期の頃のこのガイドブックはまだ真摯であり、実際にそのホテルやレストランに行くであろう人達のことを考えた親しみさの溢れていたものだったと思います。だからこそ、彼らの評価には評価される側も、訪れる客達をも納得される真実がありました。

 しかしミシュランの影響が大きくなるにつれ、料理人達はミシュランの目に止まりたいが故に、料理人としての心を売って、マスコミの本質を喜ばせる、いわゆる話題性のある料理を際限なく作り始めました。食べる人達のためではなく、マスコミとしてのミシュランに媚を売ることだけを考えた料理です。そしてそれを自らのなすべき仕事と考え始めたのです。この傾向が次第に顕著になるにつれ、ミシュランはクレアスィオン(創造)の名の下に、ミシュランのために作られた料理に高い評価を与え、取り込み、一つの有機的なマスコミとして膨張し始め、本来の使命を忘れてきました。

*本来の料理の使命を忘れた、ミシュランのために作られた料理を囲い込み、

  高い評価を与え、さらにマスコミとして覇権を目指すようになる。

 十数年前に訪れた三ツ星の「トゥロワグロ」の料理は今でも信じられぬほどの揺らめきをもって私の脳裏に焼きついています。この高み、この多重性と多様性は日本人にはとうてい到達できない味わいの領域であろうと、茫然自失するほどのうまさでした。ボーヌのホテル・セ・プドールのレストラン、これも正統性に溢れ、心を熱く惹きつけるうまさでした。しかし、おかしくチャチな評価はもう現れ始めていました。

 パリに出て2年ほどで二ツ星をとった「ドュケノワ」、子供じみた気の抜けたしまりのない、来たことを後悔する料理でした。そして三ツ星の「ジョエル・ロビュション」のジャーマン、なんのことはない、変に薄っぺらな明るさだけが漂う、日本の料理が好きな人なら誰でも作れる、プロとしての執着心がいっさい感じられない、という意味ではまったく素人っぽい料理でした。三ツ星の「ランブロワジー」、私の目からすれば本来の料理とあまりにも離れすぎた実体のないトリックじみた料理でした。鏡の中に映された虚像のごとき料理であり、全てのトーンが低く抑えられ、小さな歯ざわりだけがすべての料理でした。これはクレアスィオンではありません。

 そしてボーヌの三ツ星「ラルムワーズ」、「ランブロワジー」の程度の低い猿まねでした。猿まねもミシュランにとってはクレアスィオンなのでしょう。食べていて、本当に腹が立ってくる料理でした。

 この頃から私はミシュランが謳う「創造性」という言葉にまったく真実味を見つけることはできなくなりました。そしてそれは、ふたたび「トゥロワグロ」を訪れて動かし難い確信となりました。初めての来店から十三年ぶりの「トゥロワグロ」、もちろんあの凄い料理を作った人はいませんでしたが、甥がシェフになっていました。あの感激をすべて再現して欲しいとまでは言わないが、あの料理の面影、片鱗くらい感じられれば、それは幸せだという思いでした。

 時間になり、レセプション(エントランス)に集められ、メインダイニングルームを通って厨房へ案内されました。とにかく広くて快適そうな素晴らしい厨房。若いキュイズィニエが大勢働いている中、シェフがやってきました。そして私たち、ジャポネを見くびった目で無表情に見て、ツカツカと寄ってきて握手です。普通の日本人はもうこれで大感激で目もかすむでしょう。要するにたいそう立派な大仕掛けで、まず威圧して圧倒するのです。 

次の仕掛けはカーブです。金のかかった飾りつけのワインの貯蔵庫へ案内され、年代もののワインを見せつけ、そこでシャンパンのアペリティフとつまみを食べます。

「そうだ、私たちもこの大きな劇の流れの一員なんだ。なんとなく訳の分からぬ満足感らしきものを押し付けられている」そう感じました。

 そして私たち日本人ご一行様は、朝食のための食堂に缶詰になりました。そうと分かっていれば来なかったけれど、後の祭りです。料理がよければ我慢できると思いましたが、やけに皿だけが大きく、真ん中にほんのちょっと1口2口の料理らしきものが乗った皿が次々に運ばれてきました。これが三ツ星かというくらい、ほんとにどうしようもない料理でした。うちの料理教室の椎名の作るフランス料理の方が百倍うまい。

 料理のために皿があるのではなく、皿の数の色んな形を自慢してひけらかすために、料理はみじめに添えられているのです。料理は皿を引き立たせるための小道具でしかないのです。どうしようもない腹立たしさが、あの坊やシェフとミシュランのガイドに対して湧いてきました。

 料理の終わり頃、胸を張って誇らしげに坊やシェフがテーブルへ来ました。「あーあ、またいつものように絶賛と拍手とブラボーの叫び声が退屈だよな」といった表情でした。しかし誰の拍手もなく、妙に静まり返っていると彼の表情が変わりました。私は彼に質問を投げかけました。

 「ムッシュ、今出された料理はメインダイニングと同じものなのですか? それとも日本人には違う料理を出しているのですか?」

シェフは驚いて「もちろんどちらも同じものです」と答えました。

「それなら言いたいことがあります。私は十三年前、貴方のおじさんの料理をここで食べて、生涯忘れえぬ感動を覚えました。しかし今食べた料理はあまりにも良くないものに変わりすぎてしまいました。どう思われますか?」私は問いました。

彼は目を白黒させて狼狽して言いました。「いや、その変化は進歩なのです」

「いや私は絶対そうは思わないし、大きく失望している」

私の発言にシェフは急に話題を変え「ムッシュは日本のどこに住んでいるのか」と質問してきました。「東京だ」と答えると、「私は新宿に行くことがある。是非寄りたいから名刺を置いていってください」と言うなり逃げていってしまいました。

 そしてデセール、小学校の給食のように一人一人、四角いお盆に乗った4~5枚の皿の上にちっちゃなまずい菓子が乗っていました。私はギャルソンに言いました。

「私はパティシエとして、このようなデセールを三ツ星のものとしては受け入れることができない。シェフにしっかりと伝えて欲しい」ギャルソンもちょっと怯えたように「ウィ・ムッシュ」と答えました。

 東京でそのシェフに会いたいと思いましたが、今現在お会いしていません。

これがミシュランなのです。トゥロワグロの変質した三ツ星の例でも分かるように、今やレストランの料理はキュイズィニエが作るものではなくなりました。レセプションに入ってから出るまでを、デザイナーが一つの連続する劇としてデザインするようなったのです。以前は料理が重要な位置を占めていたものが、どうでもよくなり、立派なレセプション、ダイニングルーム、厨房、その他の仕掛けがよければ三ツ星がもらえるのです。格付けの中心は料理ではなくなっているのです。料理は皿やレストランの雰囲気のための憐れな脇役であり、あってもなくても本当はどうでもいい小道具に成り下がってしまったのです。

 「ミシュランの星の数が増えると料理はまずくなり、ないがしろにされていく」というのが私の確信です。私などはレストランで食事をする回数は限られていますが、今また、自分から進んで二ツ星、三ツ星のところへなんか行きません。全く時間と金のムダです。今までこの確信が崩れたことはありません。

その2へ続く・・・

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