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2011年8月

8/29弓田亨の試食付きトークショウSOLD OUT&キャンセル待ちのお知らせ

来週月曜、8/29に開催される、ニフティさんのイベントスペース、東京カルチャーカルチャーでのイベントは、お蔭さまで無事SOLD OUTになりました。

東京カルチャーカルチャー

今のところ、当日券の発行予定はありません。
但し、ご希望の方のみ、キャンセル待ちを受け付けます。
キャンセル待ちご希望の方は、edition@ilpleut.co.jpまたはツイッターのイルプル出版部アカウント@edition_ilpleutにリプライ頂けましたら、頂いた順番でキャンセル待ちリストに入れさせて頂きます。

マーマーブログでご覧になって知った方は、キャンセル待ちのご連絡の際に、「マーマー」である旨、お伝えくだされば、マーマー割にさせて頂きます。

キャンセル待ちのご連絡は、当日(8/29)の午前中までにお知らせいたします。ケータイメールでお送り頂く際には、迷惑メール防止フィルタを使っている方は、必ず、@ilpleut.co.jpのドメインを有効にしておいてください
メールの返信で確定となりますので、ご注意ください。

第五章 日本的繊細さがもたらす不幸と国力の低下 そして終章 日本的繊細さの浸透はとどまるところを知らない。益々深く、致命的に。

今まで述べてきたことから明らかなように、日本的繊細が深く浸透するほどに、

1. 日本人の食べ物から広く私達の身体、細胞が必要としている栄養素が致命的に欠落しています。

 

2. 野菜や果物など食の素材から自然の息吹が失われていき、それに感ずる情緒や心の彩りが失われ、無感動な精神しか育たなくなります。

 

3. その結果として家族の結びつき、人と人の絆は切れ切れになり、人はバラバラになり、社会的規範、人間としての良心、正義は失われてきます。

 

食は音声を発する言語以上に、人と人とを結びつける、最も基本的な言葉なのです。しかし今、日本では物を食べることによって、心と身体の建国は傷つき、人と人は疎遠になっていきます。

 

 

 

終章 日本的繊細さの浸透はとどまるところを知らない。益々深く、致命的に。

 

巷ではまたまた奇怪極まりない食べ物が現れています。

 

半熟カステラ、半熟プリン、生どらです。とうとうここまで来たのかという思いです。しっかり心をこめて作られたおいしさはどんなに時代が変わろうと食べる人をひきつけるはずです。今まであるものをもっと旨く作ることが大事なんです。プリンも、カステラも、どら焼きも、もっと柔らかく、繊細にということで、本来なら「生焼け」と言われて笑いものになり、店の品位を落とすものが、堂々と店先に並べられ、そしてそれを有難がって買う。私はもう表現する言葉を知りません。

無知蒙昧、無節操、無恥、私の知っている言葉だけでは、これらの菓子の異常さを正確に表すことは出来ません。

 

今の商売のあり方は、買って食べる人の心と身体の健康を少しも考えることはありません。売れるかどうかは、それが本物かどうかではありません。嘘の塊でもなんでもいい。とにかく「本物らしく」みせる、そのみせかたのみで売れ行きが決まってしまうのです。

それにしてもカステラの名門とみなされている長崎の「福砂屋」の「五三焼(ごさんやき)」には名門としての使命と心意気の感じられない、あまりにも無節操な商品です。食の繊細さの無知なる誘惑は益々強められています。


 

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第四章 私なりの勝手な考察、日本の食を愚かなる習慣に陥らせたもの

A

1)懐石料理の由来、元は一汁一菜の粗食

懐石とは寒さが厳しい冬などに、修行中のお坊さんがあまりの空腹と寒さを紛らわすための、懐に暖めた石を忍ばせたことを言うそうです。修行中のお坊さんたちの日々の食事は一汁一菜の本当の粗食だったでしょう。庶民の食事もお坊さんのものとそう変りなかったでしょう。こんな状況を考えれば、懐石という名がつけられた理由は仏に仕える者の質素な料理という意味だったと想像します。

庶民がお寺にお参りに行った時に、このような料理が出されたり、また仏事などにこのような料理を出すようになったのかもしれません。

 

2)料理が一つの商売となって料理の数と技巧が入り始める

質素なお坊さんの料理が市井でも作られるようになると、またそれを作って提供する店が現れてきます。次第に店同士の競い合いもあり、元々の由来から離れて、少しずつ手の込んだ、しかも多種類の料理が作られるようになります。しかしそれでも料理は未だ、素朴なものであったはずです。

 

3)千利休によって茶の湯の創成

千利休が形を成し、広めた茶の湯には、戦国時代の世相の要求だったのでしょう。闘いに明け暮れる中、明日の行く末すら分からず、いつ冥府に行くかもしれぬという恐怖は人々の心の中にいつも有り続けたと思います。不安な日々の生活から茶席という小さな非日常の空間に心を移し、しばし永遠なるものを思い、心の安らぎを得ようとしたのでしょう。しかし茶道の創成期は質実なるを旨とし、未だ食べることも、繊細さを持ち始めることもなかったでしょう。

 

4)茶道の爛熟期と宗派の確立と食事が儀式化する

茶道は爛熟期に入り、宗派が確定してきます。そして茶道の宗派同士の競い合いが常となり、それぞれの宗派は自己の優越性と幽玄さをつくろうために、簡素であった作法を複雑化させ、儀式化させていきます。食事、料理が茶道の権威づけのための装置としての役割を持ってきます。

大きい皿にどんと大盛りの料理が出てくる。それを皆でわいわいと食べるのでは権威を盛り上げるための儀式にはなりません。小さな器に盛られた料理が長い時間をかけていくつも粛々と出され、そのごにある茶席への緊張感を少しずつ高めていきます。当然出される料理は口に入れた途端に「わぁおいしい!!」と思わず声があがるような旨さであってはなりません。こんな料理が続けばおごそかな緊張感は増していきません。味わいもおごそかでなければなりません。おいしさは必要ありません。おごそかに食べると言う形だけが必要とされるのです。素材の表情を取り除いた、静かな味わいが求められたのだろうと考えます。

また、茶席に出されたお菓子の味わいも全く同じことが求められたと思います。茶事と関わりを持ち続けてきた懐石料理と京菓子は、このような方向性を強く内包していることは間違いないと思います。

 

◎形式化された京上生菓子

小豆には小豆の香り、個性的な味わいがあり、そして特性ある栄養素が含まれています。この栄養素を可能な限り逃さずに作り上げて初めて豊かな小豆の味わいを感じます。しかし小豆の味わいを作る大部分が取り除かれ捨てられるのです。工程なこんな具合です。小豆は34日、毎日水を変えながら浸けられます。この段階でも少なくない小豆の旨味は外に出てきています。さらに水を変えながら、透き通るような色合いになるまで煮続けられ、旨味の多くは煮汁に出ます。しかしこの煮汁は捨て去られます。次にこれを裏ごして皮を取り除きます。皮にもかなりの旨味があります。さらに裏ごした小豆を何度も水を変えて洗い続けます。

もうほとんど小豆の香りも味わいもありません。あるのはあるかないかの弱い舌ざわりだけです。これに砂糖を加え煮詰めて出来上がります。

無理に意識を持って探さなければ、小豆の味わいは感じられません。あるのは「無」そのものの、舌先に少しの感覚も起こさない小さな滑らかさだけです。これがさらに柔らかさだけの皮に包まれて上生菓子が出来上がります。

白いあんこも同じようにして作られます。手芒豆の暖かいほっくらした味わいは完全に取り除かれてしまいます。そしてこれが様々の季節の花々に形を変えたり、色粉で様々の模様が描かれたりします。この白あんはもう食べ物ではありません。手芒豆の表情など全くなくなった、絵を描くための和紙と同質のものなのです。私達は手芒豆で作った紙を食べているのです。可能な限り突出した物を取り除き、舌に、五感に、何も感じさせずに流れるように食べるという行為を終わらせること。これが彼らにとってのお菓子作りの至上の命題なのです。

また和菓子や和食の作り手は、季節感が一番大事と言いますが、それは全く偽りです。見た目だけの季節感なのです。この二つは食べ物であるにも関わらず、味わいの中に季節感を求めないで何のための季節感なのでしょう。

上生菓子においては、この日本的繊細さ極まりない製法、味わいは、私が四十年前に菓子屋になった頃は確立されていました。味わいを希薄にした上品な上生菓子へのあこがれは地方の和菓子の職人さん達に強くあったと思います。そしてその様々な味わいが全国へ広がっていき、多くの人が滑らかさ、柔らかさが日本的な繊細さの神髄なのだという潜在意識が醸成されてきたのでしょう。そしてこれが現在の状態を生む遠因となったように思えるのです。

しかし上生菓子以外のお菓子は今のものから比べれば、それぞれの土地の味わいがあり、もっと個性豊かだったと記憶しています。

そして、やがてバブル経済の到来によって資本の論理によって、和菓子、和食のみならず、ほぼ全ての食から味わいが抜かれ、希薄になり、繊細になってきたのです。

日本人全体に繊細な味わいへのあこがれの気持ちがあったとはいえ、これほどまでに味わい~おとごとく特性が抜かれ続けてきたのは、資本の論理の有無を言わせぬ強い力と日本人の国民性にあると思います。私達は一度一つの方向に走り出すと、他人の目を意識することもありませんし、少し離れて客観的に自己を見つめることが出来ません。

 

 

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第三章 ニオイも味もしないものをおいしいと有難がる風潮と国民性

A)ニオイの強いものは悪、下品なものと捉える日本人の不幸

 

日本にも香り、味わいを豊かに含み、心と身体にいいようのない満足感と幸せを与えるものが以前は数多くあったはずです。くさやはトビウオなどを開いて、魚の内臓と塩水を発酵させたものを塗り、乾燥させたものです。正しく五感に覆いかぶさるような膨らみのあるふっくらとしたニオイ、そして舌に力をもって溶けだす旨味、本当の食べ物です。

でも、こんなことを教室の生徒さんに言うと、一様に不振の目を向けて「あんな臭いの、焼かれたら近所迷惑です」と、ちょっとさげすむような表情で言われてしまいます。でもくさやは勝手にどこかの星から漂着したのではありません。この国で、そこに住む人達の健康を与えるための不可欠のものとしてあり続けてきたのです。間違いなく人々を幸せにしてきたのです。しかしこの国では久しく下品であってはいけないもの、悪とみなされるようになったのです。

 

近江の鮒寿司も旨い。鮒の旨味がご飯のすえたニオイと重なり、身体に興奮を与えます。舌全体にあまりにも力強い暖かい味わいが広がり、しみてみます。五感がいっぺんに目を覚まします。「ん、んめぇ」もうたまりません。少量しか作られないので、とても高いのが残念。ちょくちょく食べたい味わいです。でも多くの人が、「あれが旨いんですか」と驚きます。

 

・にんにく

まぁ確かににんにくを食べた次の日は臭い。私はもう六十歳を過ぎたので、あと何年生きられるか分からないので、次の日の他の人への迷惑は一切考えません。焼き鳥屋さんではにんにく焼き23本、鰹は勿論すりおろしたにんにくが一番旨い。肉じゃがなんかの煮物にも心おきなくたっぷり加えます。心行くまで食べることにしています。まぁ、朝にんにく臭くたっていいじゃないですか。皆食べたかったら遠慮しないで食べればいいんです。でもにんにくのニオイは下品で上品な日本人にはふさわしくないとわざわざニオイのしないにんにくが作られてきたんです。

私は野菜炒めなどにも刻んだにんにくを加えます。スパゲッティのソースなどに書かれた分量の3倍加えないと香りは十分に出なくなっています。何よりも厚みのある頭の芯とお腹に迫る厚みのあるニオイがありません。わざわざくだらないことをやらなければ、量も1/3で済むし、何よりも料理の味わいが印象的に立ちのぼります。韓国やイタリアからのにんにくを使えば食欲のわき方がまるで違う。本当に心と身体が暖まる、とても安心感のある味わいが出来上がります。

 

・ニオイのおとなしすぎる納豆

日本の、もう豊かな栄養素などない国産大豆を使って作られた納豆は、ニオイも単一、単調でやっぱり力がないんです。そして豆をよく見ると、表面から1/2くらいしか発酵させていない。それより中は豆のままです。恐らく納豆菌なんかも選んで、出来るだけ単調なニオイにしようとしちえるのでしょう。やっぱり私の子供の頃の納豆とはかなり違います。納豆とご飯、味噌汁だけで十分だった私の子供の頃のようにはいかないと思います。

 

・日本茶

今の緑茶は最悪です。常に書かれているような健康のための効能はもう期待できないでしょう。

一年中薬漬けで栽培されます。土も荒廃し、木にはもう健康な生命力はありません。根元にクロロフォルムをまき、緑色だけは鮮やかに出ますが、全く味、香りはありません。こんなお茶に栄養素などある訳がありません。飲んだからといって、カテキンによる効用なんてあるはずがありません。もう既に本来のお茶とはほど遠いものになっているのに、さらにこれに手を加えて香り、味わいを取り除き、勝手な付加価値をつけて値を上げるいつもの手法です。「深蒸し茶」最近よく見ますね。でも長く蒸気を当て続けると言うことは高温で栄養素、香りが失われてしまうことです。鮮やかな緑に香り、味も見事に希薄なお茶が今、トレンディーなのです。

全国あちこちからお茶を頂きます。しかしどれも飲めません。見事にどれも初めから超出がらしの味わいです。

私が子供の頃はお茶も高く、豊富ではありませんでした。朝入れたお茶は、56回飲みました。それでもそれなりに味わいはありました。でも今のお茶は一杯目でも昔の5回以上淹れた出がらしよりずっとまずいですよ。そして味の素をたっぷり加えたような気持ちの悪いものが多々あります。

 

・炭火焼コーヒー

炭火焼コーヒーも日本人が考えだした得体のしれない飲み物です。焼き鳥なら炭火の炎から出る成分で鶏肉の成分がおいしく変化するような気がします。でもコーヒーを炭火で焼いてはいけません。炭火は熱の密度が高い割には低温ですから、より時間をかけて豆を焙れば香りとか味とか全ての成分を炭化させてしまいます。残るのは腹にドスンとくる炭の味です。これを煎じて身体にいいわけはない。これだけ炭にしてしまえば、これはもう旨さではありません。もうこんなの飲まないでよという身体が抗議しているような不快な感覚しか私には残りません。でも、殆どの人が炭火焼コーヒーはおいしいと思い、不快な感覚をもおいしさの感覚と思い、喜んで飲んでいます。これも香り、味を徹底的に取り除き、ニガサという一つのものに要約する紛れもなく日本的繊細さの一つです。

 

2)味、匂いのないものを喜ぶ

サラダ用ほうれん草もおかしな代物です。わざわざ手間をかけて作る必要はありません。ほうれん草としての特性、癖が無いということは、その葉の中に本来あるべき旨味栄養成分がないということなのです。形だけの、抜けがらのほうれん草です。

サラダ用の様々の葉っぱ、薄い緑に薄いブルーの入った少しの生気もない葉の色です。勿論、味も香りもありません。4毛作で全く不十分な光合成しか行われず形だけを作り出します。水の塊のような、辛みの薄いサラダ用の大きな玉ねぎ、辛みだけでなくあるかないか空々しい味わいです。

かすかな歯ざわりだけの、息も絶え絶えの命しか感じられない水耕栽培による三つ葉、せり、様々の野菜。でもだれもが喜びます。「癖が無くてとっても食べやすくておいしい」と。

見事に経済効率至上の資本の論理が生命の息吹をなぎ倒したのです。

 

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その7>

E)家庭でも実践される繊細な料理

 

1)テレビが持ち込んだ不幸な料理法

 

家庭料理でも多くの方が灰汁抜き・下茹での、上品なきれいな料理を日々作ろうとします。でも、私が子供の頃、家のお母さんたちは家事に忙しく、七面倒くさい手間をかけ料理などはどこもしていませんでした。洗濯はたらいと洗濯板で、掃除は箒と雑巾で家中の掃除をして薪や炭火をおいてご飯を作っていました。とにかく毎日一日中働きづめでした。しかしテレビが普及するにつれて、テレビを通して日本の家庭の食事を啓蒙するためにNHKで「きょうの料理」が始まりました。しかしここで母子伝承の家庭料理の作り方は切断されてしまいます。土井勝氏始め、多くの料理研究家たちが、テレビを通して家庭料理には全く必要ない、不自然な手の込み過ぎた料理法を持ちこんだのです。

「他の研究家とは違い、私はこんなに手をかけて上品な料理に作り上げている」と自己の優越性をひけらかす場になってしまったのです。以前は誰もしなかった灰汁抜き・下茹で、素材を小さく細かく繊細に切るなどの七面倒くさい工程が家庭に浸透してしまったのです。そして料理離れが進んでいきます。

 

◎汚い灰汁は実は旨味であり、身体が必要としている栄養素

しかし更に不幸なことは、灰汁として研究家が捨て去るように庶民を誘導してきたものは、実は私達の心と身体が必要としている栄養素だったのです。この料理法が広がるにつれ、アトピー性皮膚炎、アレルギー、花粉症を始めとして様々の疾病が広がってきた。

 

◎表情のない素材を砂糖の甘さで封じ込める

全ての素材の灰汁を取り除けば、料理の味は全くなくなります。正に気の抜けた無表情な素材の寄せ集めにすぎません。不味くて食べれません。そこで砂糖を加えて、その甘さで何とか味わいを組み立てようとしたのです。益々味わいの単純化は進みます。全ての素材の顔が甘さに埋もれ、素材は全て歯ざわりのみに画一化され、日本的繊細さが完成します。

 

 

2)味、香りのしない調味料、調理済食材

 

このように家庭で作られる料理から、香り、味わいが抜けて希薄になるに従って、料理に使われる調味料からも栄養素、香り、味わいが抜かれていきます。そうしないと、調味料だけの味わいが強くなり、味わいのバランスが撮りにくくなるからです。味のない素材や料理には、味のない調味料がとりあえず使いやすいのです。調味料とは料理の味わいを高め、身体細胞が必要としている栄養素をより広く豊かに添えることが目的なのですが、生気の無い料理の味わいを隠すためにと役割を変えてきたのです。勿論、こんな香りも味も希薄な調味料に豊かな栄養素など期待すべくもありません。

 

・味、香りを抜いたサラダ油

1960年に発刊された狂気じみた書ともいえる灰汁抜き・下茹でづくしの土井勝氏の著書『基礎日本料理』にこうあります。サラダ油は悪臭が少なく色の薄いよく精製された腰の強いものが上質。

当代随一の料理研究家の言葉ですから、多くの調味料メーカーがこれにすり寄り、サラダ油から香り、味、そして栄養素を競うように抜いていったと思います。土井氏の著書により、このサラダ油だけでなく、日本の食はかつてない繊細さに近づき、本来の味わいを捨て去ってきたと思います。

 

・ふにゃふにゃの米酢

私の記憶の中にある酢はどっしりした力と幅も厚みのある深い味わいでした。舌の全てを包み込むような力に満ちた甘さを持った味わいでした。夏はきゅうりの酢の物がよく出ましたが、酢の暖かい旨味がきゅうりの味わいに力をつえ、すっと身にしむ、途切れのない味わいでした。

今の間も腰も抜けただらしのないふにゃふにゃの香りのきゅうりの酢の物は、空々しい味わい。食べる気にはなりません。こんな酢が料理の味わいを高め、身体によいものを含んでいる訳がありません。インターネットで酢について調べると、何か酢をたくさん摂るとほとんどの病気が治るかのような効能が溢れています。酢はそれだけ身体にとって大事なんだと思います。でもふにゃふにゃ酢ではこのうちの効能の一つも期待できそうにありません。

私がスペインのカタルーニャから自分の足と口で探してきたオリーブオイルとワインビネガー。インターネットにかかれた多くの効能が実現されそうに思える味わいです。とにかく五感にしみ込む味わいにはしびれてしまいます。サラダのドレッシングを作っても、あるいは夏なら5mmほどにトマトを薄く切って大皿に一枚ずつびっちり並べ、その上に岩塩を振り、ワインビネガー、オリーブオイルをびんからふりかける。5分冷蔵庫におく。そして食べます。ボケトマトもとんでもなく表情御変えてしまいます。身も心も涼しさと共にきゅっと締まり、もう毎日食べても少しも飽きないおいしさです。調味料だって何だって、豊かな栄養素、香り、味わいがなくては摂る意味はありません。私共のお菓子・料理教室で暑くなってくる頃に、一度皆さんにこのトマトサラダを出すんです。もうこれに病みつきになる人はかなりおられます。それくらい旨いんです。

 

 

3)冷凍・電子レンジにより味わい・香りは失われ、繊細さに近づいていく

 

これは繊細な味わいを作り出すために考え出されたものではありませんが、冷凍、電子レンジの使用によって、栄養素、旨味、香り、味わいは致命的に失われ、日本の食の繊細さは完遂されます。どの本を見ても、電子レンジによって栄養素はほとんど破壊されない。むしろおいしくなると使用を推奨する本ばかりです。でも24.5khとは一秒間に245000万回水の分子を振動させることによって得られる、自然界では存在しない強烈なエネルギーです。栄養素が壊されないはずはありません。電子レンジを使えば、味わいは全く変わってしまいます。タンパク質、ビタミンなど栄養素は著しく破壊されるのです。

またスーパーから買ってくる牡蠣、イカ、魚類は店で何度も冷凍、解凍を繰り返され、栄養素は破壊され、少しのニオイもない水っぽい味わいになっています。鶏肉、豚肉、干物が全て冷凍されています。

 

 

F)日本の産物

 

1)日本の野菜などはアメリカと共に世界で一番まずい

 

今、日本人の殆どの人が、国産の野菜や肉が世界で一番安全で一番おいしいと信じ込んでいます。でも真実は違います。とりあえず残留農薬などは安心かもしれません。でも素材の中に含まれる栄養成分はほぼ間違いなく世界で最も乏しく、そして最もまずいものばかりなのです。これは公の数時でも明らかであり、昭和26年と現在とでは、カルシウム、りん、鉄分、ビタミンなど、1/51/10ほどまでに減少しています。

例え、普通にまじめにごはんを作っても、長期的に確実に健康は傷つき、体調は落ちています。何しろ私達の身体の細胞が必要としている幅の広い栄養成分やミネラルなどが全く不十分にしか含まれていないのですから

このように香りも味も歯ざわりさえも、私が子供の頃と全く違ったものになってしまった理由は、これまでにあまりにも多量の農薬が蒔かれてきたことや、意味のない品種改良、経済効率至上の植物の生理を無視した年34回の多毛作、水耕栽培その他が挙げられます。

参考資料*栄養素の変遷

 

Verd_1

Verd_2

Verd_3

Verd_4

 

 

2)荒廃した野菜のうちの多くの物は、意図的に旨味栄養成分を抜かれてきた

それと同時に誰でも食べられるように意識的に味や香りの特性を抜いてきたという事実もあります。

私の子供の頃のトマトはとても個性的な芯のある青臭さがありました。そして酸味もしっかりしていた。嫌いな子がいたことは確かです。でもだれもが食べれるようにしてやろうなどと、わざわざ匂いや味を取り除かなければならないほどにトマトを嫌いな子供が大勢いたとは思いません。つまりもったいをつけたお役所のいらぬおせっかいだったのです。今は少し戻りましたが、20年ほど前はトマトからどんどん味、香りが消え、築地で探しても、どこを探しても、すっぱいトマトなんてもうないよと言われたものです。

人参やキュウリだって同じです。栽培方法も変わりましたが、そのような考えものもとに変えられてきたことも事実です。そして匂いの弱いにんにくです。にんにくをにんにくでなくする。これ以上の傲慢さはありません。本当の匂いのしっかりしたにんにく、これまで長い間、人間の健康を支えるために必要だからあり続けて、食べられ続けてきたのです。このことを無視して突然臭いにんにくはいかんと変えてしまえというのは、無知からくる傲慢さでしかありません。このような動機のために、自然と生命の摂理を捻じ曲げてはいけません。そのしっぺ返しは必ずくるのです。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その6>

D)日本のプロが作る和洋の料理と洋菓子

 

1)和食

 

懐石料理

後述しますがおいしいと思った形のきれいには感じたことはあっても、おいしいと思ったことは懐石料理では今までありません。

 

●おでん

どこもかしこも程度の差はあれ、灰汁抜き・下茹でしたものばかりです。素材から栄養素、旨味、特性を取り除き、無に近づけることを省いてはならない工程であると考えています。店によっては殆ど味のなくなった形だけ大根やこんにゃく、その他を薄い上品極まりない鰹節の煮汁で煮る。私には全く訳が分かりません。何でこれがおいしさであり、さも分かったような顔をして真面目に食べなきゃいけないのでしょうか。勿論おでんを作る時も素材の味わいを灰汁抜き・下茹でと捨ててしまってはいけません。私の著書「ごはんとおかずのルネサンス基本編」の中のおでん、日本の正統の身も心も温まる味わいです。勿論これ以上に旨いおでんは存在しません。作り方は全く簡単です。

 

●天ぷら

天ぷらのおいしさはカラッとした揚げ具合と軽いカリッとした衣にあると誰でも思っていますがそうではありません。もともと天ぷらのような油の多いものを、初めから終わりまで長い時間食べ続けることが不自然なんです。腹ももたれるしかなり多量のカロリーを摂ってしまいます。でも一つの天ぷらを商売として成り立たせるために、少しでも余計に食べられるように油っぽい印象を薄くするために、まず衣を軽い歯ざわりにして、そしてどんどん衣の部分を少なくしてきた訳です。

天つゆはこれにつけたほうがおいしいからあるのではなくて、油と一緒に少しでも水分を衣に浸けた方が油を感じず、より軽く食べやすい、それだけのことなんです。魚もキスとか味の薄い白身の魚だけを揚げる。これも同じ狙いです。去年の夏、店内の作りだけは大仰な天ぷら屋さんに行きました。一つ一つ、どこ産の茄子だとか、どこ産の何だとかと、能書きが添えられますが、少しもおいしくない。食べ終わってみれば満腹になったのは耳だけです。天ぷらを食べたはずなのに少しも腹が満たされない。天ぷらもここまで下らなくなったんだなと思いました。一緒に行った若者はコンビニでサンドイッチを2袋買って帰りました。サンドイッチの方がましだったと言っていました。

先ほど記した『ごはんとおかずのルネサンス基本編』の中の日本の天ぷらの原形、私のおっかさんのかき揚、作って食べてみてください。そのうまさに圧倒されますよ。子供はもうとんでもなく大喜び。嫌いな野菜が入っていったって食べない訳がありません。皆皆、大満足です。

衣はことさら軽くカリッとしなくたって、衣にしっかりした香りと味を加えてやれば、ガリッでもなんでもいいんです。ずっと旨くなるんです。魚の天ぷらはなんたって鰯に勝るものはありません。このかき揚も鰯のものも、2つも食べればもう大満足。身も心もそうです。でもこれでは天ぷら屋という商売が成り立ちませんね。衣も具も、ただ軽い歯ざわりだけでなくいろんな香り、味、歯ざわりがいっぱい感じられた方がずっとおいしいんです。

 

●そば

噛んでも噛んでも噛みきれないそばを「凄くこしがあって旨いねぇ」と真顔で感心しながら食べている人達を見ると、私はこの人達は本当に美味しいと思って食べているのかなぁとまじまじと顔を見たくなります。少しもおいしいとは感じていないのです。ただ溢れるマスコミからの情報で「そうか、そばってこしがないとおいしくないんだね」と思いこまされているだけです。噛み切れないほどに腰を強くする、これもビールや日本酒と全く同じ発想であり、口に、五感に、感じるものを出来るだけ無に近づけることです。普通は柔らかくしようとする、でもそばは柔らかくするとドロドロになってしまう、だから噛みきれないほどにして香り、味わいを出来るだけ感じないようにする。噛み切れなく長いまんまだったら、そばの旨味も舌には感じないし、香りも登りません。ただしこしこ、それだけです。どこかのそば打ちの名人が作ろうが、ただそれだけの淋しい限りの味わいです。

元々、私が子供の頃、会津で食べたそばはもっと色が黒くて、ポロポロすぐに噛み切れて香りも味も豊かでした。それがそばなんです。出雲の黒いそばを食べたことがありますか? 噛めばほどよくポロポロ崩れて、そばの実の甘い豊かな香りと味わいが口中に広がります。何度も何度も「んめーなー、んめーなー」と言って食べています。食べ終われば何とも言えない満足感に心と身体が包まれます。ちゃんとした出雲そばがあれば、それ以外は無くても良いと思います。高名なそば御殿に住む先生のそばなんて、なおさらごめんです。

そばは日常に食べるもの。ビックリするような値段なんてとるもんじゃありません。何を考えているんでしょう。

 

●うどん、そうめん

うどんもそうめんも、そばと全く同じ状態です。大手メーカーの「いい粉といい水で作りました」でも、腰の強さだけ。味も香りもしません。粉と水のどこがいいんでしょうか。以前何かの本でそうめんは歯で噛むもんじゃなくて喉ですするもんだなんてしたり顔で能書きを垂れている人がいましたが、そうめんはまずいビールではないんです。のど越しが全てではありません。口の中でしっかり噛んで、崩れて、小麦の味、香りが五感に行きわたる。これが本来のおいしさなんです。いずれの麺もうすら甘いだけの汁で食べるのは、私はゴメンです。会津では子供の頃、そうめんは一年中よく食べました。麺にはもっと暖かい、安心感のある香りと味わいがありました。もっとポロポロと切れやすかった。そして煮干しを加えて作った野菜たっぷりの汁で本当に嬉しい旨さでした。でも今は、麺の舌ざわりが滑らかで、腰はあるが味、香りはなし。そして砂糖の入ったうすら甘いだけの汁。冬暖かく、夏冷たくしても、カサッとした少しの嬉しさもない味わい。そんなそうめん、うどんしか食べられない店ばかり。絶対外では食べません。

 

●豆腐

沖縄の島どうふ。しっかりした歯ざわり、存在感のある味わい、旨いですよね。これが本来の豆腐の硬さだと思います。でも東京の沖縄料理店ではさみしいくらい少ししか出てこない。パックの1/2丁くらいは食べたいですよね。内地ではどんどん上品さを求めて柔らかくなっていき、絹ごしなんて、ただ滑らかさだけの歯のいらない代物が出来てきたのです。

 

味も香りもなくて、歯の要らない豆腐なんて何の実感もありません。私は香り、味とも十分に感じられる、ボロボロした硬い木綿豆腐しか食べません。料理屋さんで自慢げに書いてある自家製の寄せ豆腐。大体どこで食べても箸でつまむと哀れにポトリと落ちてしまうようなものばかりです。挙句に豆腐に砂糖が入っているものなら心の中ではこんちくしょうと怒ってしまいます。さらにさらに、甘い醤油ではほぼ限界に怒りは膨れてきます。

 

●茶碗蒸し

さぁ、これもわけのわからない食べ物ですね。スプーンでちょっとつつくとパッと崩れて汁がサッとにじみ出てくる。まさに超々絹ごし豆腐といった軟さ。スプーンにすくって口に運んでも何の印象もない、液体が勝手に入ってくると言った感じです。水とほぼ同じの舌ざわりに負けじと、香りと味もあるかないか分からないほど。でもだれも本当の茶碗蒸しを知りません。殆ど家で作ることはないので、料理屋さんで食べると、「茶碗蒸しはおいしいに決まっている」という前提で皆が食べます。それで満足なんです。間違いなくこれも「日本的繊細さ」を求めて作られてきた味わいです。でももっと大きな、身も心もしみ込むような大きな満足があることを知らない。

私が子供の頃、鶏卵は貴重でした。お正月とか、その他何かめでたいことがあった時など、数年に23回でした。茶碗蒸しが出る日は子供も大人も楽しみでたまりませんでした。あの頃は鶏肉も卵も今とは比べ物にならないほどおいしかった。蒸し上がった出し入り卵と加えた日本酒の香りがふわーっと顔を包み、全身に広がります。昔は茶碗蒸しは箸で食べたんですよ。信じられないでしょう。勿論、今のものは箸を持ってかきこまない限り、箸では食べられない。出し汁卵は今よりずっと加える出し汁が少なかったから、しっかり固まり、箸でもはさめたんです。歯ざわりもあり、香りも、味わいも豊か。これが本当の日本の茶碗蒸しです。寒い時なんかは、暖かいものが欲しくて本当にたまに頼んでしまいます。一口スプーンを口に入れると「あーあ、やっぱり頼むんじゃなかったなぁ」全部食べても何の印象も残りません。でも皆これがおいしさだと思っている。『ごはんとおかずのルネサンス 四季の息吹・今昔おかず編』には私の子供の頃の本当の茶碗蒸しが載っています。

 

●煮つけ

里芋や人参などの野菜は下茹でをして、味の無くなった薄ら甘い鰹節のだしの、舌に少しの味わいのきびも伝わらない、正に馬鹿の一つ覚えの味付けのものばかりです。まぁ、そういうところに行った時は他に食べるものがないから食べます。ただそれだけです。こんなもんだと分かっていながら身体から力が抜けます。自分では決して頼むことはありません。

 

私は仕事柄、お菓子作りの指導に全国あちこち行きます。どこに行ってもこれまで述べたような、表情のない料理ばかりです。もうどこに行っても食べる楽しみはありません。とにかく全国同じ表情、町もミニ東京。料理とその味わいもミニ東京なのです。東京に負けないようにもっと洗練しなければ、東京からのお客さんに恥じない味わいにしなければと、地方の特性を恥として取り除いて作られた味わいです。これほどまでに地域の様々の特性が失われ、均一化、画一化の慣徹された国は世界でも類が無いと思います。地域性がことごとく失われているということは、この国に住むほとんど全ての人間が個を奪われ、この国では日頃私達が口にしているビールや日本酒のように、私達自身も形式的な存在でしかなくなっているのです。

 

 

2)日本のフランス菓子と料理

 

東京にも実に多くのフランス菓子店とフレンチレストランがあります。しかし私の目と口にとって、「これはフランス的な味わいだ」と思えるようなところはどちらも12店しかありません。

フランスやヨーロッパに勉強に行ったパティスィエやキュイズィニエは河原の石ころほどに至る所に大勢います。なのにフランス的とは言えない旨くない菓子ばかりなのでしょう。それは彼らがフランスから味わいの多様性と多重性を全く理解しないで帰ってくるからです。彼らの多くにとっても渡仏の理由は、有名店のお菓子や料理のレシピを数多く集めることであり、どれだけの有名店にいたと自慢するための、ハクをつけるために行くだけだからです。既に述べたように、日本人の味わいの習慣の中には存在しない味わいの多様性と多重性を理解することは本当に難しい。この感覚を身につけることが出来るパティスィエやキュイズィニエは1000人に一人もいないでしょう。そして日本に帰ってくると、皿の盛り付けなど味わいと関係のない部分に力を注ぎこみます。味わいに注ぎ込むだけの豊かなイメージは少しも得られずに日本に帰ってくる。パティスィエもそうです。フランス的な味わいを身につけるためには途方もないエネルギーと苦しさが必要だと言うことを知り、すぐに身をひるがえし、味わいには何の価値ももたらさない見た目だけのきれいさに地道をあげます。

一つのお菓子や料理のレシピは、一つの出発点にすぎません。そのレシピをどんな考えで、どんな技術で、どんな思いで作るかによって、出来るお菓子はあまりにも大きく違ってきます。しかしほとんどの菓子屋にとって、レシピによって材料を量り、そこに混ぜればお菓子は出来ると思っています。また料理人はフランスの有名シェフの有名な料理の目に映る形だけをマネしようとします。舌で料理は作ろうとしません。これでは食べる人を感動する味わいは生まれません。

まぁ、フランスにもまともなフランス料理を作る人はドゥニ・リュッフェル以外はいないでしょう。皆、ミシュランなどのマスコミにすり寄るためのアクロバティックなものしか作れない。そんな質の悪い料理の表面だけをまねるから、日本ではもっと不味くなる。ミシュランの星が多くなれば料理は不味くなりますよ。(仁王ブログ参照)

 

とにかく多くのパティスリー、レストランを回って、レシピをかき集めることを天職とする「配合集めの虫」がたくさんいます。彼らには一生かかっても真のフランス的な味わいを作り出すことは出来ません。彼らには一生かかっても真のフランス的な味わいを作り出すことは出来ません。多くの方にイル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子には心を動かされるおいしさがあり、正に孤高の味わいであると多くの方に言われます。これは正に、一つのレシピを豊かな味のイメージの元に執拗に多様性と多重性をもってフランス的な味わいを実現しようとし常にあがき続けているからにほかなりません。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その5>

C)日本で作られるパン

 

1)日本人の国民的特性を象徴する日本のバゲットゥ

今、とりあえず、東京で作られているバゲットゥを見るたびに、日本人の無知ゆえの異常な国民性に、あまりにも情けない無力感にとらわれています。バゲットゥを切ってみると断面はすかすか穴だらけ、外側の皮だけがカリッとしていて中身は申し訳程度に繊維が走っていはいますが空洞に近い、歯には殆ど何も感じません。

まさに蜘蛛の巣です。間違いなく人間の食べるべき代物ではありません。まぁ、鯉の餌と言った方がよいでしょう。パン生地を細長く丸めて発酵させてバゲットゥは作られます。それを普通は二倍くらいに膨らませて焼き上げます。生地のしっかりした歯ごたえと味があります。ところが生地の量を少なくして細くして普通と同じ太さまで過剰に発酵させて中身を穴だらけのすかすかの状態にする。過剰発酵させれば粉が持っている旨味、栄養素もガス化して消え、味も香りも弱くなります。ただ外側の外のカリッとした歯触りと何も感じないほどの柔らかさ、このコントラストがおいしいという訳です。

ビールや清酒、焼酎と全く同じ考え方です。わざわざ手をかけ、無に近づける、そして食べる人をこれを正しいおいしいパンと皆が思いこむ。テレビなんかでは穴の空き具合を自慢している作り手もいると聞きました。そんなテレビを見て、日本人はそれが正しいものと思いこむ。

私のお菓子教室で生徒さんたちに「フランスではあんな蜘蛛の巣パンはありませんよ」というと、多くの人が、「ええーっ、あれがホントのバゲットゥじゃないんですか」と驚かれる。多くの日本人がフランスへお菓子やパンや料理の勉強に行っても、表面的に形だけしか覚える能力がないので日本に帰ってきてすぐに本当の味わいを忘れ、一度変な方向に走り出すともう止まらない。決して周囲に視線を向けることなく離れて自分を見つめることもなく、行きつくところまで突っ走る。まさに日本人なのです。

 

 

2)とにかく柔らかさが基本で全ての日本

フランスの技術指導を受けて店名を借りているパン屋さんも数多くあります。店に行ってみると、見た目だけはフランスのものと変わらない様々のパンが並んでいます。ても店内で感じるパンの匂いは、変に明るい、フランスのパン屋さんではもっと力のある五感にしみ込む匂いがします。でも形に釣られていくつか買ってみます。食べるといつも「やっぱりなぁ」で終わりです。中身はフランスの物とは大違い。とにかく柔らかい。匂い、味がありません。

「あ、うめぇ」と思ったことは一度もありません。

 

 

3)日本とフランスの味わいの習慣の違いを見る、フランスのパン・ドゥ・カンパーニュと日本のサンドイッチのパン

 

日本のサンドイッチのパン。あれも人間の食べるものではありません。気持ちの悪いすえたような発酵香、噛めば歯にまとわりつき、口の上にはりつく、ニチャニチャとした食感。もちろんパンは何の味もありません。まさに人間性喪失のパンです。でも100%に近い人が、サンドイッチのパンはただひたすらに柔らかくなければならないと考えています。

私の友人、フランス・パリの高名なパティスリー(菓子屋)のオーナーシェフが初めて日本に来た時にある方からカツサンドの差し入れがありました。彼は一口、口にしました。とたんにこれは何だと言わんばかりに目を白黒させました。次に出た言葉は「c’est trop bizarre(セ・トロ・ビザール)」これはとんでもなくおかしい、でした。これだけ旨さ目的に柔らかさを求める、柔らかさがおいしさの基本だと考えるのは世界で日本人だけだと私は思います。多くの国では柔らかさは逆に不味い不快なものなのです。

私はフランスへ行って、帰る前の日に必ずパリのプジョランという店に自分のためのお土産を買いに行きます。30cmもあるパン・ドゥ・カンパーニュ(田舎風のパン)です。この店のパンはとにかく旨い。店の入る手前から、五感全てに語りかけてくるちからのある匂いが出迎えてくれる。いろんなパンがある。昔はいろいろ食べた、本当に嬉しくなる旨さに満ちていた。とりあえず、パン・ドゥ・カンパーニュは必ず買う。「さぁ、日本でいっぱい食うぞ」かなり大きなパンなので、10日間はあります。勿論その頃はかなりかたくなります。でも酸味のある、ふくよかな香り、匂いをかいだだけで、五感が騒ぎ、嬉しくなる。噛む、しっかりした存在感のある、朴訥さそのものの、歯ざわり。そしていろんなものが豊かに共鳴しあっている味わい、「あーあ、んめー」私の身体の細胞が総立ちで歓喜の叫び声を挙げているのが分かる。私のぼろい歯では、ちょっと危ういかとおもうくらい、硬くなってもこの感覚は最後まで変わりません。そのうち必ず残りの23切れしかにあことに気づく時が来ます。突然、不安と悲しみが襲ってきます。「あーあ、もうねえんだ」体中から力が抜けます。

 

サンドイッチだからといって、パンが柔らかいほどおいしいのではありません。私のイル・プルー・シュル・ラ・セーヌの店では土日祝日にサンドイッチを出しています。小麦粉の外側のふすまを入れた全粒粉で生地を作り、硬めに焼き上げます。匂いも香りも歯ざわりもしっかりはっきりしたものになります。これにスペインからの本当に香り味わいの豊かなオリーブオイルとワインビネガーで作ったマヨネーズに、アボカドや他の素材を加えて作ります。マヨネーズ、具もしっかりした味わい、とんでもなく旨い。日本では他では絶対味わいえないおいしさです。

雨が降って、お客さんが少なく売れ残った時は喜んで買って帰ります。こころにしっかりとしむ、安堵感を感じる旨さです。イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのサンドイッチを食べずにサンドイッチは語らないでください。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その4>

B)日本のお菓子(和菓子)


(巷に溢れる和菓子も味わいの弱さ、希薄さ、印象の薄さを競い合う)

デパートなどで長い行列が出来る有名店の様々の和菓子。どれをとっても淡い歯ざわり、口どけ、弱いかすかな香り、そしてあるかないかの哀れな味わいのものばかりです。でも誰もがそれらが世界に類を見ない異常な食べ物群であることに気づいていません。上も下も、どこもかしこも、お菓子の素材からせっせと無意味な時間と労力とお金をかけて旨味成分と栄養成分を取り除いて寒々とした味わいを作っているのです。そしてテレビで有名人がどこのどれが旨いと言えば、そこに走り並びます。店構えが立派であれば、何も考えずにその店を選び、決して自分の意志と舌で選ぼうとはしません。いや、出来ないのです。

 

●饅頭

本当に久しく、旨い饅頭を食べていません。どれを食べ手も、味のしない滑らかさだけのあんこ。そして少しの粘りしか感じないあってもなくても同じような皮。お土産で頂いて心遣いに一つは頂いても、もう一つということは決してありません。巷では最上の物とされている馬鹿高い花園饅頭だろうが、全て同じです。最近行っていませんが、高尾山口駅の街道沿いのお土産屋さんの「高尾山饅頭」あれは本当に旨かった。あんこにはしっかりしたふくよかな力強い小豆の香りと味があり、皮も気取らず朴訥、あれは本当の饅頭だった。

 

●最中

これも甘さを抑え、舌ざわりを柔らかく抑えた物ばかり。あんが柔らかいものだから、それにバランスをとろうとこともあろうにパリッとした印象的な歯ざわりのない、間の抜けた柔らかい皮も出てくる始末。もっとガシッとした甘さと味わい、芯のあるカリッとした存在感のある歯ざわりの最中が懐かしい。

 

●草餅

餅も、ただただ柔らかく、滑らかに、あんこにも負けじと滑らかに淡く、薄い緑色で弱いよもぎの匂い。食べても心に何の思いも残りません。餅もただ柔らかくのびるだけでなく、もっとよもぎをたくさん入れて香り高く、歯ざわりもどっしりさせる。あんこも決して旨味を逃さず、どっしりした小豆の味を出してほしい。私の記憶の中の草餅は、幸せな味わいが来年の草餅の季節まで続くような味わいでした。

 

●桜餅

これも同じです。皮はより薄く、歯ざわりも弱めにそして水っぽいあん。塩漬けのサクラの木の葉っぱが無ければだれも桜餅なんて思いません。三月、やっぱり桜餅を食べたくなります。でも食べた後はやっぱり後悔。わざわざ食べるもんじゃなかったな。桜道明寺も全く同じです。ただただ水っぽく柔らかい、だらしなく柔らかい、ただそれだけです。一分もすれば全く味わいの記憶が消えてしまう憐れさです。桜餅だってむっちりしたもち米を硬めに炊いてしっかりした味わいのあんこを包めばそりゃおいしいですよ。

 

●黒糖かりんと

私の頭にある黒糖かりんとは、黒糖の有無を言わせぬ朴訥さと力に満ちた甘さ、歯とあごにガリンとした衝撃を感じ、それが脳天を突き抜ける。まさに悦楽の味わいです。今は甘さはお上品に控えめ、歯ざわりもただただしっかり膨らまし、間の抜けた軽めの物がほとんど。本当に淋しい。

 

●煎餅、おかき

カリンとガリンの中間ぐらいのしっかりした歯ざわりの煎餅はなくなりました。殆どすべてのものが、生地の中に野放図に空気を入れて焼き上げ、節操のない軽さだけの、歯ざわりに印象のぬけたものになってしまいました。そして、時には米を水にさらして味わいを抜いてしまったのかと思えるほどに真っ白で全く米の味のしない煎餅があります。甘ったるい醤油の味が全てです。

 

頭をひねってしまうのは、無意味に金をかけた豪奢な10cmほどの袋に、小さく作って何枚も入っているおかきです。お上品さの極み、シャリ、それでおしまい。情けない歯ざわり。こんなもん、食う意味があるんですかねぇ。おかきって、あのガリ、ゴリっとした歯ざわりが一番の旨さがあるんですけどねぇ。でもこんなもんを作る人も食べる人も、これが和の日本人の奥ゆかしい繊細さだと誰もが思っている。昔から続いている日本人の素晴らしい特性だと思っている。

おかき煎餅は誰にでも喜ばれて一番無難だと思われるのでしょう。お土産や差し入れには一番多く頂きます。お菓子教室の夕方の休憩時に、スタッフたちは喜んで食べています。私はよっぽど腹が空いた時に、たまにはと思って小さいのを一枚口に入れますが、もうそれ以上続きません。過剰な包装、もったいぶった上品極まりない歯ざわり、味、あまりにも空々しい。

 

●口にする意味のない水ようかん

みみっちいうすら甘さ以外にほとんど何の意味もない、少しの印象も残さず飲み下されていく水ようかん。私はあんなものを食べると暑い夏がもっと気が滅入ってしまいます。哀れにだらしない舌ざわり、味わいです。水ようかんだって、しっかりとした甘みと小豆の豊かな味わい、香りが感じられた方がずっとおいしいに決まっている。そしてこれを冷やしすぎずに15℃くらい、ほんのり冷たいくらいで食べるのが一番旨い。まさに身体に小豆の豊かな味わいが五感をそっと押し、涼しさを吹き込んでくれる、水ようかんてそういうもんです。歯もいらないくらい柔らかく、甘さはぐっと抑え、小豆の味わいは更にぐっと抑え、これを冷酒みたいにギンギンに冷やして食べる。これは食べることの嬉しさを知らない人にとっての、とにかく右へならえの味わいなんです。

 

●名古屋のういろう

よく「名物に旨いものなし」なんて言われましたが、私が菓子屋になった頃は全国に結構旨い土産菓子がありました。でも、全てがやはり時代の移り変わりと共に、日本的繊細さへと変化して行きました。中でも驚いたのは名古屋のういろうでした。もったりねっちりした餅の歯ざわり、暖かいふっくらとした味わいが大好きで名古屋へ行くと自分の楽しみも兼ねてよくういろうを買って帰りました。それが突然、形が崩れて包丁では切れないペースト状態に変わっていったのです。唖然としました。これもういろうの個性を取り去り、ただより多く売りましょうという資本の論理に心を売り渡したあさましい行為の果てだったのでしょう。

 

●地方の駄菓子

上生菓子はもらっても食べません。むなしい感覚しか残らないからです。でも駄菓子は大好きです。地方へ行って目に入ったなら必ず自分用のお土産に買ってきます。でも正直に言えば、やっぱりぼけた味わいなんです。「んめーなー」というのは、とても珍しい。でも上生菓子よりはずっとましですよ。意味不明なむなしさはとりあえず湧いてこない。でも駄菓子にもより歯触りを軽く、甘さを控えて、上品な味わいにしようという傾向はやはり強く見られます。

余裕が出来たら必ず、自分の感覚で日本の駄菓子に昔の味わいを取り戻したいです。「駄菓子」の「駄」は誰がつけたのでしょうか。今ではかえって素朴さと郷愁があってよい呼び名ですけれど、食の本質を考えれば、この「駄」は京上生菓子につけられるべきものだったと、私には思えます。

 

●カステラ

私は23歳で初めて熊本で菓子の道に入りました。そこは和洋菓子を作る店で、味ではカステラが焼かれていました。九州は和菓子屋さんではどこでもカステラを作ります。当時は日本の卵も今よりずっと味わいがふっくらと力強く豊かでした。これに上白糖と赤砂糖、味わいの豊かな麦芽糖の水あめなどを加え、甘みに工夫を凝らします。更に香りづけとして日本酒などを加えてその店独自の香り、歯ざわり、味わいを持ったカステラを作っていました。それぞれの店に個性的な味わいを作り上げていました。でも今巷に溢れているカステラは昔の物とは全く変わっていました。ただ機械的に甘さを抑え、ただただ柔らかく、優しい滑らかな歯ざわり、そして店によるあるかないかの小さな味わいの違い、より繊細に上品な味わいと感じられるように作り上げることだけを目標にしているのです。食べていて少しも心が動かないのです。

 

私は今年の四月、自分なりの昔カステラを作り出しました。目が飛び出るほど旨いと言われる方と、味わいに癖がありすぎると言われる方がおられます。でも、癖、つっかかり、雑味こそが、本来のおいしさを形作る要素なのです。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その3>

3)ビールと日本酒の三番煎じ、幼稚さの極みの焼酎

私の眼には、焼酎の分野は日本酒以上に様々の要素、香り、味わいを異常な執念をもって取り除いたものが乱立しています。飲み会など機会があって飲んだり頂いたりしたものを飲んでも、何にも、香りも味もありません。味、香りのない甲類、味、香りのある乙類のはずなんですが、乙類であっても、甲類アルコールと全く変わらない、のっぺらぼうな、少しの楽しさも嬉しさも感じさせてくれないものばかりです。原料は麦だろうがそばだろうが、黒糖だろうが、味わいは同じです。それぞれの原料のはっきりした味わいは感じられません。

私は23歳から4年間、熊本におり、球磨焼酎、そして薩摩の唐芋焼酎もかなり飲みました。球磨焼酎、五感が圧倒される米の力を感じさせる、意地のあるもっこす(頑固な肥後の人)の香り、舌にピッタリとすいつくような厚みのある味わい、本当に旨かったし、飲んでいて楽しかった。よく仕事や旅行で鹿児島に行けば、出てくるのは薩摩白波だけ。ふくよかな五感を包む暖かい香り、酒を飲むことのたまらない嬉しさを感じました。

今でも熊本へたまに行くと、何とか昔の球磨焼酎をと探しますが、もう不可能です。さつまいもの焼酎とて同じです。薩摩白波からはあのふくよかな匂いは消えました。それでも舌への味わいは他の焼酎よりはいくらかあるようです。原料が何でも、行きつくところは同じです。麦や米やソバ、芋の素材の栄養素、個性的な味わいを消し去り、誰もが飲みやすい、味わいのない味わいを裸の王様のための焼酎を作ろうと血眼になっています。何の要素もない、水とアルコールに近づけることのみが、馬鹿の一つ覚えの繊細さの極みと感じているのです。

 

4)日本産のワイン

勿論、そんなに多くの物を飲んだ訳ではありませんが、私は今まで日本のワインをおいしいと思ったことは一度もありません。それで今まで自分から飲もうとしたことはありません。まぁ、腹を立てないで何とか飲めるかといったものが一二度あっただけで、それには四つの理由があると思います。

a)ワインそのものが多様性に乏しい、つもり味わいが平坦で表情が無いのです。

b)日本酒のように雑味をとるためにろ過したワインが作られている。

c)保管状態が悪く気が抜けて水っぽくなっていた。

d)輸入ワインと同様に味わいそのものを完全に殺してしまう亜硫酸塩が添加されている。

 

a)このことはワイン製造者の方々も痛感されているらしく、フランス産の香り高いワインを何とか作ろうとしたが果たせなかったと言われていると聞いたことがあります。勿論、フランスなどとは気候、地質、そして棲息する微生物の種類も違います。同じ味わいのものを作ろうとするのは不可能であろうとも思います。しかしフランスのものまでとはなくとも、もっと五感に語りかける味わいは創り出せたのではないかと思います。

フランスのワインの味わいは正に多様性、多重性そのものの味わいです。さまざまな香り、さまざまの味わいの要素が深く厚く重なり合い、五感に語りかける燃えるような感覚を揺り動かします。( )Pで記したように様々の要素が一度に重なり合うと日本人の感覚は動転し、嫌悪感すら感じます。

しかし、日本にいるだけでは、あるいは外国に修業に行ったとしても、この多様性と多重性の感覚の理解は日本人にはとても難しいのです。私はフランスに二度、お菓子作りの研修に行きましたが、一度目では様々の要素が重なり合った力に満ちたお菓子はおいしいとは感じられず、むしろ強烈なまずさを感じました。しかし5年後、二回目の滞仏でようやくこの味わいを理解し始めました。そして多重性に富んだ味わいが理解できると、一回目でおいしいと思ったどちらかといえば印象の薄いものが、さらに物足りなくなってくるのです。また、日本のパティスィエは少し味の仕組みが分かり始めると、必ず100%の人が日本的な潜在意識に支配され、今まで何度も述べている様々の要素の欠落した何もない繊細さの味わいを作ろうとします。実は私も一回目のフランスでの研修の後に帰国してから作り出したお菓子は、正にこの繊細さに富んだフランス菓子でした。帰国して3年もすると自分は偽りのフランス菓子を作っているのではないかと思うようになり、5年後、二度目のフランス研修に臨んだのです。

b)ビールや日本酒と同じ発想のワインが作られる

a)で述べたように、日本のワインが今一つなのは味わいに様々の要素が希薄にしかないからなのです。しかし更にこの味わいからフィルターを通したり日本酒等と同じ方法により味、香りを抜きとった、いわゆる透明感のある味わいを作ろうとしているのです。しかし、このようなワインが人の五感に語りかけるような味わいになる訳がありません。

正に、香りも薄く短く、味も情けなく、私には飲める代物ではありません。しかしこのように無意味な手間をかけてわざわざワインをまずくしても、値段は高くしても、そしてこれをおいしいと思う人たちがいるのです。

◎ワインの多様性、多重性に富んだ味わいと日本酒の雑味

日本酒の杜氏さん達は、舌先に感じる味わいの流れの中に、少しでもつっかかるものがあれば雑味と感じて、これを取り除こうとします。しかし、良好な状態にあるワインの味わいの深く厚い広がりは、この雑味の集合体なのです。豊かで複雑な雑味が混沌として共鳴し合う味わいを作り出しているのです。しかし、このワインの雑味を取り除いてしまえば、それはもうワインではありません。哀れなデスマスクをつけた液体にすぎません。このように異常としか言いようのないワインが受け入れられることに、やはり日本という国民の特異性を強く感じてしまいます。

c)酒屋さんや売店などで長くほっぽっておかれたものは、ワインの気が抜けて水っぽい味わいになっていることがよくあります。

出荷してからの保存状態への配慮は輸入ワインと同様全く感じられません。売ってしまえばそれでおかまいなし、そんな風に思わせてしまうほど、更によくない状態に変質しています。

d)また日本でもほぼ全てのワインに防腐剤として亜硫酸塩が加えられています。もうワインの味わいは完全に破壊されています。亜硫酸塩が加えられたものは、日本のものも、フランスのものも、サンテミリオンだろうがブルゴーニュだろうがもう味わいに違いはありません。不自然で鈍重な酸味と渋み、舌の先がひんまがりそうです。これは亜硫酸塩の味です。人間の飲むべきものではありません。

◎国産のワインはおおむね、こんな状態にあると思います。でも蔵元によっては、そこに直接行けば亜硫酸塩の加えられていないワインもあるようです。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その2>

2)日本人の心と身体を無感動にする、傲慢な、命を失った日本酒

日本酒とて同じです。皆さんは日本酒を一口、口に含むと額の上あたりが軽くしめつけられ、一度に気がめいるような感覚を感じませんか? 私はこの感覚がどうしてくるのか分かりませんでした。しかしNHKプロフェッショナルで放映された「常きげん」の杜氏・農口氏の大吟醸酒造りのDVDを見て分かりました。その内容は不可解にすぎるものでした。ナレーターは「日本酒は米の味をとことん引き出さなければならない」と言います。でも米の味とは彼らにとって一体何なのでしょうか。大吟醸は米粒を7分削り取り、残り中心の3分の米粒で作ります。中心に行くほど澱粉の純度が高くなって、雑味のない味わいが出来るとのことです。でももうそれは米全体の、米の旨味味わいではありません。米の一部分の澱粉の味わいです。そしてこれをさらにフィルターにかけてろ過したりして、さらに米の味わいを抜いて彼らにとっての繊細さの極みの味わいを作ります。これがこれまでの私の理解でした。DVDの中で農口氏は「菌の味」を作り上げたいと言われました。私はこれにとても異様なものを感じました。つまり米らしさを取り除くことによって、菌のもつ味わいをより純度高く感じられるように作り上げるということなのです。ようやく理解しました。私は小学校に通う前から日本酒が大好きでした。戦後間もなく米なども未だ十分にある時代ではなく、米のもろみに工業用アルコール、水あめ、味の素などを加えて増量した三倍醸造法によって作られたいわゆるアル添酒でした。でも頭がしめつけられ滅入る感覚は少しも記憶にありません。楽しく、旨く、飲めました。学生の頃、猪苗代湖畔のボート番のアルバイト、当直で泊る近くの農家からの職員の方々のどぶろく(会津では白馬といいました)の旨い事、旨い事。楽しい感覚ばかりでした。そして今でも正月等に作るどぶろく、簡単に出来て本当に旨い。少しもあの気の滅入る感覚は感じられません。この不快な感覚は二つの理由によって作られるのでは無いかと思います。一つ目の理由は米の澱粉だけを使い、最後にフィルターをかけることによって、米の味わいを薄める、相対的に菌の持つ分泌物の割合が多くなる。二つ目はかつては麹によって米の澱粉を糖分(甘酒)に変え、これをアルコール発酵させるのは、その酒蔵に住みついている蔵つき酵母でした。勿論これらは何種類もの自然に生息する酵母菌です。しかしこの酵母菌数を人為的に23種に絞ると、その酵母が偏って頭を痛める成分が生成されるのではないかと思っています。

かなり前ですがそれまでの日本酒の香りとは全く異なる、一見するとふくよかさそのものの香りに、誰もが驚いた熊本9号酵母で作られた「香露」という酒はとりわけ頭が痛くなったのを覚えています。そして、この酵母はあちこちの酒に加え始められ、頭の痛くなる酒が多くなったことを感じました。

一種の菌の分泌物には人間の身体によいものも悪いものも含まれています。少数の酵母にすると、その悪い部分が増幅されてしまうと思います。多数の酵母が生成する多種類の成分、旨味が、酒そのものの味を豊かにし、よくない部分も少量でしかも相殺されるのでしょう。このような米の成分全体をあますところなく生かした本来の朗らかな味わいの酒は、メーカーによって作られたものでは私はここ何十年か口にした記憶がありません。

友人から頂いたにごり酒。一杯飲んだらもう駄目です。頭をしめつける不快感。もうなかなか飲む気が湧いてきません。小さな説明書きにこうあります。庄内産つや姫100%使用。精米歩合50%、使用酵母小川10号、M310。まさに思い上がった人間が手をかけ過ぎた不自然さそのものの味わいです。

酒の味わいの中から雑味をことごとく取り除くという今の日本酒製造の考え方は、ずっと飲み続ければ必ず飲む人の身体に不幸をもたらします。酒からは身体によい栄養成分が雑味としてことごとく取り除かれ、アルコールが無防備な細胞を襲うのですから。

 

(ギンギンに冷やして飲むことの不可解さ)

皆さんは勿論、冷酒をとりあえず20℃ほどで飲んだことはありますか? これくらいの温度だと、それなりに香り、甘み、味わいは感じられますよね。そしてこれをいつものように5℃以下に冷やして飲んでみる。もう20℃で感じた香り、甘み、味わいは1/10も感じませんね。冷たければ香りは勿論、立ちません。味わいもほんの少し感じるだけです。まさに苦痛な感覚以外の何物でもない舌先がしびれる感覚を押し殺すほどの冷たさが全ての味わいを隠してしまっています。おかしいとは思いませんか。何故、本来感じるべき香り、味わいを隠してしまって、不自然な全く別の味わいを、繊細さを探るような、もったいをつけた表情で飲まなければいけないのでしょう。全く違った表情になった、あるかないかの味わいをさも通ぶって飲まなければいけないのでしょう。一口で言えば、酒の味が不自然でうまくないから、それを隠して飲ませる、ただそれだけのことです。

最後にもう一度断言しますが、米を20%削ろうが、70%削ろうが、味わいなんてそう変わるもんじゃありません。聞き酒で30秒も口の中でぐちゃぐちゃやって、やっと分かるような違いを探し当てたって何の意味もありません。何の疑いもなく信じ込み、安請け合いする日本人特有の感覚なのです。酒も一番旨いのは、米は研がずに全部使ったものなんです。

 

(繊細さを勘違いしてはいけない)

米を70%も挽いて、酵母を12種選んで味も香りもしないように発酵させて、さらにフィルターにかけて味わいを希薄にする。酒の味わいから何でもかんでも雑味と称してどんどん取り除き、味わいを希薄にすることを雑味の取り除かれた繊細さと思い込んでいる。何もないことを繊細さの極みと思い込んでいる。彼らは本当の繊細さという意味を知りません。本当の酒の味わいの繊細さとは、味わいの中に香り、味わい、様々のものが混とんとしていて、混在している。その多様な要素のバランスのあり方の一つが本当の繊細さであることは彼らには理解できないでしょう。しかし、これは今の日本酒を作る杜氏の方々だけでなく、私のいる洋菓子の領域だって同じです。ボケた、意味不明の味わいが殆どです。勿論、私の店のお菓子には真の意味の繊細さが実現されています。是非、私共のお菓子を食べてみて頂きたい。今の日本酒の姿が舌の上にあぶり出されると思います。

 

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第二章 日本的繊細さに満ちた様々の食 <その1>

A)アルコール飲料

1)資本の論理に真っ先に心を売り渡したアサヒスーパードライ

バブル経済の前夜ともいうべき1987年、とんでもなく旨いと評判の超辛口のビール、アサヒスーパードライが世に出ました。初めてこれを一口口にした時、私は次に続いた事態が即座には理解できませんでした。口に含み、次に続くはずのビールの香り、味わいが全てパッと消えてしまうのです。何も感じない、炭酸の刺激とただ冷たいだけの無表情な液体がサッと喉を通ります。見事なほどに何の感覚も残らないのです。

「えっ、なんだこりゃ」が全てでした。「どうです、旨いでしょう」という女将さんの声が何か、これからの日本の行く先を暗示しているような感覚を覚えました。何か心を持たぬロボットが話しているような少しも抑揚のない遠い世界からの声に聞こえたのを覚えています。以後、日本の食は資本の論理に導かれ、急な坂道を転げるように、本来あるべき姿・味わいを失い、食の単純化に向かって行きました。日本は更に不幸な時代に翻弄されていきます。

◎つっかかるものを取り除く

食べ物には必ず、そのものの個性的な味わいがあります。多くの場合、その個性的な味わいとは、地域に由来した豊かな特性のある身体に必要な栄養素郡を含んでいます。しかし、ある人にとってはこの個性的な味わいに拒否反応を示すことがあります。つまり、この個性的な味わいは、今これを旨いと感じられる人にしか売れません。そこで資本はこの個性を取り除けばもっと多くの人が買ってくれると考え、その個性を取り除いていきます。そして、それまでの本来のビールの味わい、ホップの苦味、味わいの深さ、濃さ、個性的な強い匂いを取り除いていきます。そして味わいも何もない、味の素を溶かしたような気持ちの悪い液体が出来上がります。このまずさを隠すためにビールをギンギンに冷やして飲むことをマスコミ、テレビのコマーシャルで時間をかけて押しつけていきます。そして同時に「何も味もしない」味が、洗練されたクリアな味わい、超辛口であり、この味わいを分かることが時代のステータスであると、その時々の世にブレークした有名人を動員し、テレビの画面に登場させ、浮草のような国民にこの超辛口のみが真の味わいであると暗示をかけます。これがアサヒスーパードライの真の姿なのです。

◎全てのメーカーがアサヒスーパードライを追い始める

それでもつい最近までは、他のエビスビールやキリンの一番搾り、ラガービールなどは、アサヒスーパードライとは一線を画し、「我々は下卑たアサヒの真似はしない。味わいのしっかりした本物のビールを作る」という姿勢を見せてきました。しかし最近改めてこれらのビールを飲んでみると、今はほぼアサヒスーパードライと同じ考えのもと作られていることがはっきりと見てとれます。エビスビール、一番搾り、ラガービール、グラスにつげばあっという間に泡は消えてしまいます。飲んでみれば、エビスビールとて、かつての日本ではそれなりに重厚な舌ざわりの泡、味わいはもうありません。一番搾りも以前は少しはあった清々しい味わいはもうありません。これらの液体の中には、以前のような旨味成分や栄養素はありません。まさに水とそう変わらない舌ざわり、口あたりです。旨味成分を取り除いていけば、ビールは水のようにサラサラになり、粘りが低下します。粘りが減れば泡はすぐに消えてしまいます。極めて印象の薄いビールが意図して完成されます。

◎巧妙なトリック、旨いから何杯も飲めるのではない

それぞれの味わいや香りに、あるかないかの僅かな違いはあるにせよ、狙うところはアサヒスーパードライです。ビールとは異なる液体を作り上げ、それをビールと思わせようという魂胆なのです。味わい、香りがないから、5℃以下に冷やし、冷たい感覚と重ね合わせなければまずくて飲めません。まさしくギンギンに冷えた液体を口に入れれば、それは本当は苦痛な感覚なのです。辛くて慌てて飲み下します。あっという間の出来事です。ビールを飲んだという実感は少しも残りません。むなしさだけです。また、慌ててビールの幻影を求めて亜ビールを口に流し込みます。旨いから何杯も飲めるのではありません。いくら飲んでも満足しないから、騙されて次々と喉に流し込むのです。

(本当に旨いビールは一杯で満足する)

フランスで飲むビール、特にベルギービールは本当に旨いですよ。でもハイネケンはもう最悪です。フランスのスーパードライです。ベルギービールは香り、味はとても深く、泡の舌ざわりは滑らか。一口口に含むと、舌や口中がその旨さの全てを探ろうとしてゆっくりとビールの味わいを舌に遊ばせます。そして味わい、香り、泡の滑らかさを確かめながらゆっくり飲み下します。一口が十分な印象を与える、本当に美味しいビールは自然にゆっくりと飲んでしまいます。一杯で心からの満足感が、私は今ビールを飲んだという実感が残ります。かなり気温が高くても、せいぜい2杯飲めば十分な満足感が得られます。確かに、いくら飲んでも飲んだという印象が残らないアサヒスーパードライは皆が騙されて20%ぐらいは多く飲んでくれると聞きます。エビスビールも一番搾りも、日本の殆どのビールがアサヒスーパードライの柳の下の2匹目のどじょうを当て込んで、ビールから香り、味わいを抜いて水に近づけているのです。私が『失われし食と日本人の尊厳』で唯一おいしいと書いた「銀河高原ビール」も全く同じ無表情な味わいになってしまいました。売上ただその一点のために、亜種ビールを作り、消費者をだまして押しつける、さもしい商売根性としか言いようがありません。

(実体のない宣伝のキャッチフレーズに騙されてはいけない)

アサヒスーパードライのキャッチフレーズ、「洗練されたクリアな味」「切れ味がいい」は実体のない味わいであり、「クリアな味」「切れ味の良さ」によっておいしさを感じることは決してありません。何故ならこの二つの言葉は、このビールには味わいらしきものは何にもありませんよと自ら公言しているようなものですから。騙されてはいけません。「喉ごし生」なんて子供だましのものもあります。おいしいものはおいしさを味わおうとひとりでにゆっくり飲み始めると書きました。でもまずいものをゆっくり飲むと、そのまずさはすぐにばれてしまいます。一番のおいしさは「喉ごし」ですと暗示にかけ、とにかく早く一杯でも多く喉を通させようという、浅はかな恥ずかしい魂胆です。

 

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第一章 日本を埋め尽くす偽りのおいしさ

おいしさは一人一人によって感じ方が異なり、決して共通のものは無く、掴みどころのないものと殆どの人が思われていますが、そうではありません。おいしさには真のものと偽りのものがあることを理解すれば、真のおいしさは人類共通のものであるということと、掴みどころのないおいしさとは偽りのおいしさそのものであり、この偽りのおいしさが日本を蝕んでいる実態を知ることが出来ます。

 

1)真のおいしさ

他の動物と同じように私達人類の遺伝子情報にも、生命の発生以来の膨大な食べ物の経験から得た情報が蓄積されています。その中には良い食べ物、悪い食べ物に関する情報があります。良い食べ物とは私達の身体を作る、細胞が必要としている幅の広い栄養成分を含んだものです。細胞は極めて幅の広い栄養素を取り込むことによって、精緻な仕組みを作り上げてきました。

正常な細胞の機能を再生維持させるためには、常に幅の広い豊かな栄養素を補給しなければなりません。真のおいしさとは細胞が必要としている栄養素を十分に補給出来た時の安堵と満足の感覚なのです。そしてまた、次も確実に補給してほしいという期待の感覚でもあるのです。

 

2)偽りのおいしさ

しかし私達人間には偽りのおいしさもあるのです。その食べ物の中には細胞が必要としている栄養素が著しく欠落しているのに、それをおいしさと錯覚させてしまうのです。このようなものを食べ手も、細胞は、私達の身体は、健康になりませんし、むしろ阻害されてしまいます。このような偽りのおいしさは、時代や社会の要請、雰囲気、そして資本の論理達成のために築き上げられたマスコミによって日々洪水のように作り出されています。

私の考えでは、まさに私達日本人が日々おいしいと感じているものは、ほぼ100%に近く本当は少しもおいしいものではなく、細胞が必要としている栄養素の極めて乏しい偽りのおいしさなのです。私達は日々日本の食を食べる度に自らの心と身体の健康を傷つけ、そして家族の絆も育たず、人と人はバラバラに離れていくのです。


3)真の繊細さと見せかけの繊細さ

a) 私達は繊細さこそが日本人にとって最も誇るべき特性と考えている節があります。そして京料理、京菓子などを頂点として、この繊細さを突き詰めようとします。しかし私達の繊細さとは実は全く実体のない、見せかけの繊細さなのです。一つの素材やお菓子から、香り、食感、味などの様々の多様な要素をことごとく取り除き、「無」へ近づけようとします。ことごとく、素材の特性を取り除き、食べる人の五感に出来るだけ何も感じないようにする。これが私達が求める繊細さなのです。

何も五感に働きかけるものがないのですから、食べる人に感動、感覚の彩りなどを与えることはありません。生理的情緒的に無反応、無感動な静寂を繊細さと取り違えています。

b)真の繊細さ

食べる人に健康をもたらし、感情の彩りを与えるおいしさとは、素材が本来もっている豊かな表情、特性、栄養素を可能な限り逃さぬように加工し、そして幾つかの素材の特性をさらに重ね合わせ、幾種類もの香り、食感、味を重ね合わせ、共鳴する味わいが作り出された時なのです。

しかし単一、単調な食の習慣に陥っている今の日本人は様々の要素、感覚が一度に口に押しよせると動転して、その味わいの全容を理解することが出来ず、まずさ、さらには嫌悪感すら感じてしまいます。こんな時の私の味わいの組み立てとしては自分の感覚に従ってそれぞれの要素に強弱を与えたりすることによってバランスを取り、釣り合いのとれた一つの味わいを作り出します。例えば、私のイル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子は砂糖、酒などは恐らく日本では最も多く、とても印象の強いまとめ方をします。しかしそれを食べた殆どの人は甘味が少ない、酒は効いているが不自然がなく、味わいに溶け込んでいると言われます。

またいつもフランス菓子とやらを食べると、喉、胸に詰まる感じがしてしまう、でもイル・プルーのお菓子は喉と胸から味わいがすぅーっと身体の中に心地よく広がっていくと言われる方もおられます。そして何よりも一つのお菓子の中に詰められた様々の要素が食べる人の様々の感覚を揺り動かし、感動すら感じると多くの方が言われます。これが真の繊細さなのです。

この真の繊細さはよい状態のフレンチワインにも見られます。ワインはぶどうの皮以外のほぼ全ての要素を逃さず酵母菌によって更に深い味わいに作られます。例えば本当に繊細な清々しい香りと酸味を特徴とするワインであっても、様々の重なり合う要素のバランスの上に成り立っていますし、様々の要素の下支えがあるからこそ、飲む人の感覚に豊かな彩りを与えてくれるのです。無の繊細さは人に感動を与えることはありません。

◎食べ物のおいしさを表す言葉

今、私達日本人のおいしさを表す言葉を挙げてみます。

ジューシー 水々しい とろけるような 滑らか とても柔らかい 

スッキリしている 切れ味がいい 後味すっきり クリアな味 サラリとしている 

冷たくておいしい とても軽くておいしい 食べやすくておいしい 

今の日本人はこんな言葉くらいしか、おいしさを表す言葉を知りません。これらの言葉には、その底に共通する意識があります。何だと思いますか? つまりそれを食べる人間の口には、香りも、食感(歯ざわり、舌ざわり、口溶けなど)味などが、出来るだけ感じない方がおいしいという感覚です。そして、いずれもが人がものを食べる場合の三要素、香り、食感、味のうちの、食感だけを特に表現した言葉なのです。そしてかなり弱めの食感を表したものであり、ゴツゴツした、ガリガリした五感に押しよせるような味わいという強い感覚を表した言葉ではありません。つまり今の日本人にとっては、弱弱しい食感がおいしさの基本であり、香りと味は無い方がおいしいと感じるのです。

◎今の日本人にとってもおいしさ

前に述べたように、現在の日本人は様々の香り、食感、味が一度に感覚として押しよせると感覚は混乱してしまい、理解することが出来ず、例えそれが本当のおいしさであってもおいしさと感じることが出来ず、まずさ、更には嫌悪感すら感じてしまいます。

とりあえずおいしさを作り出す私だけが理解するテクニックがあります。全体の味わいのトーンを低くおとなしくして、まず食感を一番上に、その下に味、香りを低く持ってくれば、殆どの人がそれをたわいもなくおいしいと感じてしまいます。

しかし私にとってはこれは禁じ手であり、今は決して使いません。これは偽りのおいしさであり、このようなテクニックによりかかっていると自分は先に進まなくなっています。常により難しい、口に入る前の匂いから飲み下した後の残り香まで全ての局面で様々な要素が重なり合い、影響しあう味わいを目指します。


 

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日本の食をあらゆる分野で侵食する「日本的繊細さ」がもたらす 国民の不幸と国力の致命的衰退

日本の食は他国に誇れる繊細さ溢れる味わいがあるとよく言われます。多くの人はこれを真実と思っています。しかし私の目から見れば、私達日本人が自賛する「日本的繊細さ」溢れる味わいとは、食材やお菓子や料理の中に様々の要素、つまり香り、食感、味が極めて希薄にしか存在しない状態を言います。これには料理に使われる食材に初めから極めて希薄な味わいしかない場合と、様々の素材から工程の中で意識的に執拗に味わいを抜きながら作られる場合と2通りあります。

味わいを取り去るということは、素材や料理が持っている様々な成分を取り去ることです。しかしその成分は実はほとんどのものが身体が必要としている細胞の建築資材となるタンパク質や細胞を動かし、細胞同士の働きを調整するビタミンやミネラルなどです。

私達の細胞は食べ物に含まれている様々の栄養素によって全てが作られ、働き、健康を維持します。

そのような栄養素が少なくなれば、当然細胞の維持、再生、新陳代謝は不活発になり、私達は肉体的精神的に不調に陥り、さらに病気になります。

これは誰もが知っている自明の理のはずです。しかしほとんどの日本人はこのことを忘れてしまったのです。

このように、私達がこの日本で繊細さを持つと感じるものやおいしいと感じるものは、実は食材や料理から細胞にとって必要な栄養素を取り去ることによって作られているのです。 そしてこのような、言いかえれば偽りのおいしさが、日本人の心と身体を、そして人と人との結びつきを極めて深刻な状態まで蝕んでいることを知っていますか?

そしてもう、日本という国の力が致命的なまでの衰退の坂を転げ始めていることを知っていますか?

本稿では、章ごとに区切りながら、順次述べていきます。



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ドゥニさん講習会を終えて・・・

7/26に来日し、3日間の試作を経て、
7/30
31にフランス料理講習会を、そして8/254日間フランス菓子講習会を開催しました。

今年は例年になく特別な気持ちの講習会となりました。
菓子講習会の時の挨拶文をここに掲載します。

 

菓子1日目

皆さん本日はドゥニさんの講習会にご参加頂き、有難うございます。心よりお礼申し上げます。

311日の大震災の直後は大きな不安と戸惑いがあり、今年はイベントのようなものは何も出来ないのではないか。ドゥニさんの講習会も不可能だろうと考えざるをえませんでした。しかし、これまでの25回 の講習会が、私や日本のパティスィエ、日本の食に与えてきた影響を考えると、これを途絶えさせてはいけないと思うようになりました。彼はパティスィエとし ての私や日本のフランス菓子界に大きな影響を与えてきました。また最近体系として完成し、既に多くの心と身体の不調に苦しむ人達に健康と幸せを与えてきた 「ごはんとおかずのルネサンス」も彼の食に対する本質的な考え「食は人々の心と身体の健康のためにあり、人と人とを結びつける」ことを教えられたからで す。

 私達に多くのことを与え続けてきたこの講習会は、決して中断してはいけない。私には続ける義務があるという考えに達しました。彼にこの私の気持ちを手紙で伝えたところ、ドゥニさんは「私は日本の友人との25年間の深い結びつきのために、そして少しでも友人たちに勇気を与えるために行く」と言う返事をくれました。未だ余震もかなりあり、原発事故も小康状態になる前であり、外国人がすっかり少なくなった頃でした。

 言葉にならない熱い勇気を貰いました。「うん、今年もやるんだ」底から叫びました。

726日、ドゥニさんを日本に迎えました。その後の歓迎会で教室の椎名がいみじくも言いました。

「震災以後、私達の時間は止まっていました。でも今日、ドゥニさんの顔を見て、私達の時計はやっとまた動き始めました」

 本当にその通りでした。私達の心を押しつぶしていた不安が、何故か消えたように感じました。ドゥニさんの26回目のデモンストレーションのための訪日を心からお礼を言います。さぁ今年もイマジネーション溢れるお菓子が待っています。どうかご期待ください。それではみなさん、2日間宜しくお願いします。

 

●菓子2日目

 今、滞りなく、全ての予定を終えることが出来ました。ドゥニさんの流れるような仕事、卓越した技術、そしてイマジネーション溢れる心を揺さぶるおいしさのお菓子。きっと皆さんに新たなお菓子の思いをかきたててくれたのではないかと思います。

 全てを終えて、中断することなく26回目も続けることが出来て本当に良かった。もし中断したなら大きな後悔をしていただろうと改めて思っています。

 今回26回 目の講習会の開催に向けてご尽力頂いた様々の方々、参加された皆様、快適な会場をお貸しくださいましたドーバー洋酒貿易様、そしてイル・プルーのスタッ フ、ドゥニさんに感謝の気持ちでいっぱいです。本当にこの講習会を続けなくてはならない、何とかしなくてはという皆様も熱い気持ちがこの会を成功に導いて くれたと思います。

 私にとってはこれまでの講習会の中でも、生涯忘れられない印象深い講習会となるでしょう。ドゥニさんの来日まで、震災以来未だ自分の意志を見つけられないでいた自分にもようやく、前に向かって力強く進む気持ちが湧いてきたように思えます。

 ドゥニさん有難う。また来年も来て下さい。

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8/29(月)弓田亨トークイベント開催!@ニフティのイベントスペースTOKYOカルチャーカルチャーで!

 
 

弓田亨がお台場にやってくる!!!

【緊急開催決定!】

“食の仁王”こと弓田亨が、日本の食の真実を斬って、斬って、斬りまくる!

 

弓田亨考案「ルネサンスごはん」の試食付きトークショウ

 

日 時/2011.8.29(月)1830開場/1900開演~2030終了(予定)

 

入場料/前売券\2,000・当日券\2,500

(ドリンク代別途必要・ビール\600・ソフトドリンク\390~など)

会 場/お台場・東京カルチャーカルチャー(観覧車横、ゼップ東京2階ニフティ株式会社運営)

 

東京カルチャーカルチャーHPhttp://tcc.nifty.com/

前売り券はe-plusにて82日(火)より発売!

e-plusの予約画面はコチラ

 

 

【イベント概要】

 これまで国産の野菜や肉なら安全と思っていた人達も、3.11以降、その神話が崩壊しつつあるのを、感じているのではないでしょうか。今、子供の、家族の、自分の、心と身体の栄養のために必要な食事とは何なのか。不安で仕方がないと思っている方も多いことでしょう。

 本イベントは、長年、フランスと日本を行き来し、フランスの菓子協会から、フランス菓子の技術と素材の開拓に対し、金メダルと賞状を授与された経験も持つ孤高のパティシエ弓田亨が、「おいしいものには栄養がある」をモットーに、偽りの、見た目だけの、形だけの食から日本人を解き放ち、本当に栄養のある、真実の味わいに触れてもらうため、弓田亨考案の究極の健康料理「ごはんとおかずのルネサンス」を食べて頂きながら、弓田亨による「真実の食とは何か」といったお話を聞いてもらいます。

何故、パティシエである弓田亨が、日本の家庭料理を救おうとごはん作りに取り組んだのか。ぜひ、その正義感溢れる会津魂炸裂の、熱いトークにぜひ耳を傾けてみてください。

 もちろん、質問も大歓迎! 貴方の食の悩みもお聞かせ下さい。

 

【当日試食出来るメニュー】(変更になる場合がございます)

◎嬉しい夏のちらし寿司 ◎ツナご飯 ◎なすの味噌汁 ◎肉じゃが

 

 

【ごはんとおかずのルネサンスとは・・・】

灰汁抜き・下茹でしない。砂糖・みりんを使わない。いりこ、昆布、鰹節等の出しで味を組み立て、出しごと食べる。塩を怖がらない。外国産の食べ物も摂り入れて足りない栄養を補う。栄養の欠落した今の日本の食材を使っても、心と身体に十分な栄養を送り込み、健康にする、弓田亨考案の究極のレシピ。これまでにシリーズとして4冊のレシピ本と、一冊の理論本を出版しています。実践者の方からは、「肌がきれいになった」「便秘をしなくなった」「生理不順じゃなくなった」「アトピー性皮膚炎が軽くなった」「野菜嫌いの子供がきちんとごはんを食べるようになった」など、多数の声が寄せられている。

 

【弓田亨プロフィール】

会津若松生まれ。明治大学卒業後、菓子職人の道へ。1978年、1983年と二度の渡仏を経て、1985年にフランス菓子における日本とフランスにおける素材と技術の違いについて「パティスリー・フランセーズそのイマジナスィオンⅠ」を自費出版。1986年に代々木上原に「ラ・パティスリー イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」(フランス語でセーヌ川に雨が降るという意味)を開店。1995年代官山に移転。自らの心の中から生まれた感情や記憶をお菓子として表現し続け、現在もフランス菓子教室の運営、全国でのプロ向け技術講習会、海外での素材探しなどに精力的に取り組み、常に「真実の味わい」にこだわり続けてきた。近年は製菓材料だけでなく、日本の食糧全体が味、栄養共に弱っていることに気づき、日本の家庭料理を立て直す「ごはんとおかずのルネサンス」プロジェクトにも力を注ぎ、教室でもルネサンスごはん講習会を毎月定期的に開催している他、講演活動等も行っている。

 

イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ HP 

http://www.ilpleut.co.jp/index.html

ごはんとおかずのルネサンス

http://www.ilpleut.co.jp/renaissance/renaissance1.html

 

東京カルチャーカルチャーHPhttp://tcc.nifty.com/

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