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2011年6月

仙台の被災地を訪ねて

私は430日、私も会員である私の出身校明治大学のあるOBの会のお二人の会員の方を訪ね、大震災の地、仙台に行ってきました。会員からのお見舞いをお渡しするために、他の4人の会員の方々に同行しました。新幹線が仙台市内に近づくにつれ、屋根瓦の修復のための、あるいは雨漏りを防ぐための青いテントが屋根にかけられている家がいくらか見られるようになりました。それを見ていると、何か身体の芯から熱くなるような興奮を感じ始めました。

久しぶりの仙台でした。私は仙台のある調理師学校で月に2日ずつお菓子作りを教えていて、震災の前の33日も授業をしたばかりでした。

311日の地震時は、私が教えていた製菓科はちょうど実習の時でしたが、屋外に避難し、幸いけが人は誰もいなかったとのことでした。しかしテーブルの上に会った卓上ミキサーなどは殆ど激しく落下し、大きく損傷し、また新築の校舎の壁にもひびが入り、校舎が陥没したとのことでした。以後一ヵ月遅れの5月の入学式までは職員の方々の大変な苦労があったようです。

また、私のお菓子・料理教室関係の方々が14名ほど被災地におられましたが皆さんとりあえず身体だけは無事でした。

そのような経緯の中での仙台でした。

仙台駅では会員の一人の方が車で迎えに来ておられました。全員が車に乗り、まず向かったのは私共イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ出身でプルミエールという小さなお菓子屋をやっているOGのところです。店はまだ開いていませんでしたが、裏口へまわってちょうど出てきた彼女と出会った時、やはり熱いものがこみあげてきました。そしてホッとしました。負けてなるものかと震災三日目からお菓子を作り営業を始めたとのこと。しかし食べるものさえない状態の元で、こんな時にお菓子なんか作っていいのだろうかととても悩みながらの再会とのことでした。でも食べるものが全く不自由な中で、彼女の作るお菓子は多くの方から、心から喜んでいただけたそうです。自分の店にかつていた子が、逆境の中でこんなにも頑張っているのを見て、本当に私も誇らしい気持ちを感じました。私達は先を急ぐので、10分ほどの後、彼女のところを去りました。被災の激しかった若林地区に案内されました。

まず着いたのは、道の狭い住宅地で、家がずっと縦横に立ち並んでいました。しかし家の中は柱と部分的な仕切りを残して素通しでした。何もないのです。そして家の周りには、いわゆる「瓦礫」の山ですが、「瓦礫」というよりも、柱であったと思われる太くて長い材木と、そして無数の木片、ふすまなどであったと思われるビラビラした紙のようなものが、道路と、家の周りに12mほどに積まれていました。もう言葉は出ません。私は、「アー、アー、アー」とずっと喉から声を出し続けていました。テレビや新聞で見ていた物と同じ光景が、大きく広く、強烈な実感と共にずっと続いている。暫くすると、私はしめつけられるようなのどの渇きを感じてきました。私は実際にこの仙台の地に今居るということが何か信じられませんでした。私のこれまでの人生の中で、見たことも考えたこともない光景の中に私はいるのです。たまに瓦礫の片づけをしている方を見ます。何か本当に心がホッとします。でも今、私達とこの方々との心の間には、理解できない隔たりがあることに気づき、心は沈み込みます。そして大きな通りに添った大きな物流センターの前を進みます。真っ黒くすすけた大きな建物、倉庫群。全く人気のない建物が並んでいました。もう既にかなり片付けられたとのことでしたが、ところどころに波に流された車が点在していました。それらの車の集積場もありました。恐らく2300台以上のこれらの車が、実際に人を乗せて走っていたということも、何故か信じられません。ベコベコに変形しているものが殆どです。

この若林地区では、大きな倉庫や工場で津波が来るとの予報に従って、すぐに車で高台に逃げるように指示があって、多くの人たちが車に乗った。しかし道は大渋滞になり進めず、そこに津波が押し寄せ、多くの方が車ごと流されたという説明を聞きながらの進行でした。まるで私は日常とかけ離れた感覚を失った空間をさまよっているようでした。一時間ほどしてから、もう一人の先輩がおられ、やはり被害が甚大であった多賀城市へ向かいました。

そこで先輩と合流しました。彼は震災後、かなりあちこちを何度も詳細に見て回られたようでした。

これから、多賀城市の被害の大きかった所を通り、松島、奥松島へ案内するとのことでした。まず向かったのは、多賀城市の海っぺたの住宅地でした。ここは家は残っていましたが、まるで23日前に震災があり、全く手が下されていないと思えてしまう生々しい状態でした。家の高さの2/3ほどの高さに積まれた膨大な瓦礫が家と周りと道の脇にありました。胸が大きな力で押さえつけられているようで、思うように声が出ません。ここではほぼ無言でずっと周りの光景を車の中から目をこらして見続けました。そしてずっとこのような光景が続き、途切れ、また同じ光景が現れるのです。ホントに延々と、延々と続くのです。ある程度このような光景を見続けると、次第にこの現実離れした光景が実感を失い、感覚の死んでしまった、瞬きさえも忘れてしまった目の前を無感動に機械的に流れていくような感覚に陥ります。暫くこんな時間が流れました。しかし奥松島の被災地に着いた時に、私に視線は、宙を泳ぎました。何か理解の出来ない光景が目の前にあるのです。海岸近くの松林の前から、ずっとずっと奥の方へ、地面の上にめぼしいものの何もない空き地が、だだっ広く広がっています。かなり片付けられたのでしょうが、瓦礫は2030cmの高さでところどころあるくらいです。しかし地面を見ると、家の土台がいくつもあり、それが無数に奥の方へ、何百メートルも、そして横も、ちょっと目測できぬほどに、広く続いているのです。何もないのです。私には未だ理解できません。仙台の方が言われました。

「ここにはずっと家があったんですよ。完全に流されました」

私は少し理解しました。しかし実感がわかないのです。あまりにも広大過ぎて、そこに多くの家があったと言われても、私はそれを見ていないので、震災前と後の変化を比較することが出来ないのです。たまに流されずに残った家がポツンとあります。家の中には何もありません。カーテンが風にふかれ、以前の光景を暗示することもなく乾いて無表情にフルル、フルル、フルルと揺れ続けていました。

そこはもう水は引き、乾き、311日を伝える重い空気は四月の末日の晴れの日の爽やかさによってかき消され、私達被災地から説く離れていた者にも感じられる311日の痕跡はほぼなくなっていました。災害の地を訪れても、結局私は実際の被害に遭われた方々の筆舌に尽くしがたい慟哭の心情を少しでも感じることは出来ていないのです。私はここで様々の想いが巡り来ました。

 

311日の震災以来、私は何を感じ、何をしてきたのだろうか。あの日は私は東京の私の経営するお菓子教室にいました。8人ほどの生徒さんが家に帰ることが出来ず、教室に生徒さんと一緒に段ボールの上で寝ました。毛布もなかったけれど、暖房は最強にして、寒くはありませんでした。そして暖かい味噌汁とご飯も、皆一緒に食べることが出来ました。そして翌日からは教室の生徒さんが授業に来られず、一週間ほどはずっとその対応に追われました。こういう状態になると普段は表に現れない様々のことが出てきます。会社内の人間同士の不信感、そして翌日からは売店のお菓子の売上は一週間ほどは1/5以下に落ち込みました。お菓子・料理教室の生徒さんの新入学の申し込みはほぼ止まってしまいました。このままでは会社そのものの存続が危うくなるとの危惧が出てきました。以後、ずっと緊急の対策の日々でした。その中で震災直後から被災地の惨状を憂い、被災者の皆さんへ私なりに心を砕いてきたつもりでした。食べ物、お菓子などの発送はささやかでしたが続けてきました。それはそれでよしと私は思っていました。

 

でも、その奥松島の、何もない更地同然の状態を見て、私は本当に被災者の方々の苦しみや慟哭を知ろうとしたのだろうか、私は結局彼らの苦しみの100万分の一も分からなかったし、分かろうともしていなかった。日々の自分の困難さの対応にのみ没頭してきただけだった。日本の同胞の艱難辛苦には目をそむけていたのではないかという、恥ずかしい無力感に捉われました。

 

その後、先輩の後に戻り、遅めの昼食を頂きました。同じ多賀城市でも、高台にある先輩の家の周囲は津波の被害はなかったそうですが、ライフラインは寸断され、水もままならぬ状態となりました。先輩は「俺は70歳だけど身体だけは元気だから、水汲みにも来れない一人暮らしのばあちゃんやじいちゃんに水を汲んでもっていってやったよ」と言われました。私は、「先輩って本当に、本当に凄いなぁ」と思いました。

 

そして、仙台へ戻る時間となりました。彼は「見舞いに来てくれてありがとう。本当に心から嬉しかった。ありがとう。ありがとう」と言われました。最後に先輩と一人一人握手です。先輩の雰囲気から少しは予想していましたが、ビックリするほどの握力の強さ、私は完全に握り負けしました。少し痛く感じたほどでした。沈んでいた私の気持ちはその年の痛さに目を覚ましました。

そうだここには私のちゃちな気持ちでは覆いきれない艱難辛苦の嗚咽の中にいる人もいる。そして前を向いて歩き始めている人もいる。被災された方々の未来へ向けての一歩は多くの人にとって、とんでもなく重く、苦渋なものになるだろう。私はそれはずっと見届けないといけないし、一本があまりに重いものになった時は、その足を後ろから、例え小さすぎる力で会っても、押し続けることを自分に戒めなければならないと思いました。何故か私はかえって仙台の地の先輩に励まされて返ってきたような、最近になくとても長く感じられた一日でした。

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