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2009年8月

第1回 今をときめくカノビアーノのイタリアン料理と閉塞感に包まれた今の日本

九月の中頃、私はお菓子教室のスタッフ達と、のびのびになっていた今年度の教室の生徒さん募集の目標達成のご褒美のレストランでの食事に行きました。
 
彼 女たちの話では今もっとも高い評価を受け、まさしく今をときめく新進気鋭のシェフのいるイタリアンレストランとのことでした。そのシェフ、植竹氏は料理の 著書も出し、何日か待たなければ予約ができないほどの盛況であるというのです。そう言えばスタッフが予約を入れたのは確か半月ほど前でした。
 
 
その名はカノビアーノ。
 代官山の駅から五分ほどのところにそのレストランはあります。
 店内に入ると本物らしさを過度に意識した内装と雰囲気が鼻につきます。
 高そうなテーブルクロス、そして全てを知り尽くしたと言わんばかりの風情を全身にみなぎらせたギャルソン。照明は抑えられかなり薄暗い。

 ガラス越しに見える厨房のシェフらしき人とスタッフの表情は自信に満ち満ちているようです。
 私にとっての第一印象とも言うべきものは、とにかく全てが不自然に満ちた雰囲気にしか思えませんでした。

 
 
ま ずはギャルソンのこれからの料理の説明がありましたが、料理がよりおいしくなるように心をこめて説明してくれるというものではありません。これから私達に 食べさせてあげるものを、うやうやしくもったいをつけて、まずは慇懃な口調でお客を圧倒してしまおうという魂胆のようにしか見えませんでした。
 そしてこれから出されるシャンパンとワインの説明です。
 
シャンパン、ワインは取りたててひどい状態ではなかったとしても、決して素晴らしい料理を期待させるほどのおいしさではありませんでした。でも、後から出てきた料理から比べれば、これらの飲み物が際立っておいしく感じられようとは、その時は想像もできませんでした。
 所在のはっきりしない押しつけがましい雰囲気が絶えずテーブルに降り注いできます。
 初めの料理が運ばれてきました。眼鏡をしても暗すぎて細かな素材の表情が読めません。でもそれは計算された手のように思えました。
 多分このシェフは、自分が作る料理の本質は知っていると思うのです。知っているからこそ、無意識か意識的に自分の料理を隠そうとしていることは後で理解できました。

 それにしてはこれは何なのでしょう。ほぼ生のインゲン、ガリガリの枝豆、生の1本そのままのおくら、そしてモッツァレラチーズ、何か訳の分からない、醤油を水で薄めたようなドレッシングがかけられています。
 これが料理ですって。どうしてこんなものを、わざわざお金を払って食べなきゃならないんでしょうか。しかも安くはない、いやあのまずさと量から言えば、途方もなく高いお金を払って、こんなちゃち、と言う以外に表現できないものを食べなきゃならないのでしょうか。

 殆ど意味のない、生野菜の羅列をわざわざ大きな皿にのせ、しかも仰々しくナイフとフォークで食べることの滑稽さにどうしようもなく腹が立ってきました。

 どうして、味も食感も全く弱々しいモッツァレラチーズにゴリゴリの歯ざわりのみの野菜と合うのでしょうか。料理をする者にとっての必要な最低の素養すら感じられません。

 
私はかなり頭が混乱してきました。
 私達は一体何の為に、何を食べようとしてここに来たのだろうかと自問を始めてしまいました。きっとこれは何かの間違いだろう。こんな料理ともいえないものが二つ続くはずはない。気を取り直しました。

 
二つ目の料理が来ました。
 ん、何だこれは、汁をほんの少しだけかけた冷しそう麺が大きな皿の上にチョコンと座っている。何だか、あってもなくても同じような、訳の分からない殆ど味も香りもない作り手の思いなど全く感じられはしない、下劣なオブジェにしか私には見えません。
 私は思わず教室のスタッフに聞きました。「おい、何なんだ。このできそこないの冷しそう麺は」
 「それはそう麺ではありません。一番細いパスタですよ」「どこがどう違うんだべ!!」私は思わず田舎の会津弁になってしまいました。

 
この麺も又、性懲りもなく、完全な生なのです。
 ゴリゴリです。これ以外に表現がありません。こいつは頭がおかしいと言うしかありません。

  私は断言します。キャンプへ行って、そう麺を茹でようと、キャンピングガスを使って麺を茹で始めたが、運悪く茹で上がる前に、途中でボンベのガスが切れて しまい、おまけに持ってきた既製の麺つゆを砂の上に殆どこぼしてしまい、仕方なくその日の不運を呪いながら、一滴のつゆも残さずに麺にからめようとして、 言われなき苦闘と共に食べた、忌々しさ以外に何も感じられなかったそう麺の味わい以外の何ものでもありません。
 この頃には、私の意識は今にも消え失せんばかりでした。

 あまりにも下劣で幼稚な料理とも言えない代物を、有難く恍惚とした顔つきで食べる日本人の愚かさに、不気味さと淋しさが私を押しつぶそうとしました。
 
次に出たはずの魚料理は何だったのか、少しも記憶がありません。

 最後の肉料理が運ばれてきて私は我に返りました。もうおいしくなんて望まない。大分この空間の愚劣さにもなれて来ました。せめてどうしようもない腹立たしさだけは感じさせないものを出してほしいもんだ。
 
「ん、何だ、このゴリゴリのキャベツは、細長い、何か分からん肉ができそこないのゴマだれみたいなのにあえてある」
 
もう怒る気力も萎えてしまった。この愚かさの極みの料理とその作り手は、時代の閉塞感に自己を失った日本人の代表としてこんな役割を演じているのだろうと考えると、同情すら感じてしまいます。

 最後の料理もゴリゴリのキャベツ、それが印象の全てです。

 
後で聞いたことですが、ここの料理は京野菜を使った野菜主体のイタリア料理なんだそうです。
 何を馬鹿げたことをのたまわっている。よっぽど屈折した人生か、よっぽど楽をしてきた人間の料理だよ。
 いやまて、これはやはり才能のある人の料理だよ。これだけまずくは、意識して努力しなきゃできるもんじゃない。そう言えば、この才能は、昔食べたオテ ル・ドゥ・ミクニの料理、とこぶしのあんかけにも充分感じられた共通の才能だ。そしてそれを臆面もなく作り続け、人に出す。これもズバ抜けた才能だ。


 
俺はもう達観した。もう、この後どんなデセールが出ても騒がない。
 でもやっぱりそれは無理だった。

 デセールが出てきた。何だ小さなエスプレッソのカップに牛乳みたいなのが入っていて、かぼちゃの裏ごしが入っているぞ。
 あまりに馬鹿馬鹿しいことの連続に、私は怒り疲れてガラッとスプーンを落としてしまいました。


 私は自分の名刺を取り出し、「今頂いた料理は偽りの料理です」と書き、ウエイトレスに「今日の感想」と言って渡し、皆と店を出ました。
 
瞬時に空しさに襲われました。
「え、一体何の為の10人で9万7~8千円の出費なんだよ」
 でも、このカノビアーノは確かに連夜満席なようです。すぐには予約が取れないのは事実なのです。
 シェフは本を出し、多くの人が彼の料理はおいしいと感じているようなのです。

 でも毎日、嘘のないものを少しでも食べているイル・プルーのスタッフは、私ほどではなくてもそれに近いものは感じていたと思います。

 それではどうして私の感想と多くの方々が持つ感想とがこれほど違ったものになるのでしょうか。
 日本人というものが如何に下劣であるかを自ら周囲に知らせる踏み絵となるような料理をおいしいと感じるのでしょうか。

 日本人でなくても、世界中の100%に近い人々が、自らが生きる時代を、その時代の底に流れているこの状況を知ることはありません。それがその時代に生きるということなのです。
 
私 が中学生の時、会津からの修学旅行は東京、江ノ島でした。列車が東京に近づき川口あたりから、林のように立ち並ぶ、工場の煙突、キューポラから、もうもう と煙が吐き出されるのが見えてきます。「あー、あれが本で読んだキューポラか、スゲエナァ」。あの時の限りなく空に吐き出される煙は、戦後復興期の、正に 日本の希望であり、それを見たものの心に明るいエネルギーを与える力だったのです。
 でも、それから10年後、あの煤煙が公害の元凶とされるとは誰が予想できたのでしょうか。時代はその時、時代に生きる人々に真の姿を垣間見せることさえ決してありません。

 今日本は、唯一他国民に誇れるものであった経済すら、どうしようもない停滞した状況が、すでに10年以上も続いています。

 
そして、これから先、私達日本人はどうなるのか。どこへ行くのだろうかという不安におののきながら。しかし不安におののく自分は決して見まいとして、毎日を無意味で無気力な形だけの暇つぶしに身を漬けながらの中に過ごしています。
 
下らなさの極みの「ワッハッハ、ゲラゲラ」のテレビ番組、通勤電車内の誰も違和感を感じることなどない、無気力に漫画を読みふける大人達、高い値段の他には何の動機もない、飼い主と同じく皆生きることを勘違いしている洋犬。(でも本当に犬は飼い主に似ているのです)
 そして男女の揃ってカラフルな髪の毛の自慢比べ。

 その他多くの今の日本人の行動には、不安な自信を喪失した雰囲気が如実に現れています。力も希望もない日本人、顔もださいし、みっともない日本人。今、私達は意識の底では自らをこう考えています。
 
今、日本人は日本から日本人であることから逃げ出したい、そう無意識のうちに考え、西洋人のように髪を染め、しばし日本人であることを忘れたつもりになっているのです。
 
それにつけてもテレビやその他のコマーシャルでも彫りの深い西洋人ばかりが出てきます。
 高い洋犬を買って、今の時代だって、私のうちだけはこんなに高い犬を買えるほどに豊かなんだと胸をなでおろします。そして毎日犬の顔を見ているうちに、自分の顔も犬のように西洋っぽく思えてきます。

 カノビアーノの料理も正に今の時代に咲いた、しかも日本人の良くない部分をたたえた徒花なのです。

 
時代の空白の時期に、あるいは今の日本のように長く長く閉塞感に喘ぐ時には、必ず、才能ではなく、時代に対するすばしっこさを持った人間が現れます。そして、その人達はやみくもにその時代を、論理も思考性も持たずに否定します。
 それを見て、半ば心の死にかけた大衆は、何か、その時代の停滞を破壊してくれるような錯覚を抱きます。そして未だ、自分達も捨てたものではないという、一時の安堵を得ようとします。やみくもに今の状況を否定することにホッとするのです。
 しかし、その行動の中には時代へのすばしっこさ以外には空虚さだけしかもたらさないことを知ることはできません。

 カノビアーノの料理は、料理ではありません。
 
常識からあまりにかけ離れた、あまりにも度の過ぎた低劣さに、逆に大衆はこの時代からの無気力さに満ちた自由を感じているのです。しかし、このような無意味な行動であっても、愚かな国民の中にあっては、時には、一つの持続力を持ってしまうことがあります。

 例えば、前述のオテル・ドゥ・ミクニの料理は、拙著「破滅の淵の裸の王様」で述べているように、正にバブル経済への突入時により高額な金の動きを作り出す為に必要だったのです。
 料理がどのように子供じみたものかは問題ではなく、三国氏の天の啓示を大衆に与えるが如くの、はったりの極みのあのヒゲにもう、ゴハンと味噌汁と菜っ葉だけの食事はやめてもっとお金を使って豪勢に行こうという、バブル経済への突入の御輿になることを求めたのです。

 
しかし、自分の目で、真実を探ることができない私達の国民性と、今も金が全てと考える時代の雰囲気が偽りだけの料理にも威厳を持たせようとしています。
 そして、このカノビアーノの料理は、かつて構造的な長期の経済的困難に喘いだ、フランスとその閉塞した社会の雰囲気が産み落としたミシュランの三つ星レストランランブルワジーの料理に完全に重なるのです。

 又、この三国氏の存在は、今の日本の「食」「マスコミ」「国民性」を如実に物語る象徴に思えてなりません。
 私は彼の料理を二度食べたことがあります。一度目の料理はメインの料理のとこぶしの醤油のあんかけとしか表現のしようとない、およそフランス料理とは言 えない、あまりに稚拙に過ぎる、知性のかけらもない代物でした。機会があり何年か後に再び彼の料理を食べました。訳の分らぬあまりにもごてごてした下品な ソースと肉しか覚えがありません。とにかく、一皿が7~9千円という、何を勘違いしたか途方もない値段でした。
  傲慢と偽りの限りをつくしたレストランという印象しか残っていません。
  ところが、時代と自ら物事を判断する習慣を持たない、又、常に真実から目をそむけようとする私達の国民性は、このような人さえも「世界の誇る天才」であると言う、陽炎のような嘘像さえも易易とその精神の中に侵入させてしまいます。
 「この世界に誇る」のは、定見と知性を持たない、私達日本人だけの無知故の思い込みであるということを知ろうとしません。
 しかし、例え偽りであっても継続は虚構の力を作り出してしまうのです。

 マスコミは、ただ視聴率を上げることだけを考え、面白おかしく、もっともらしく偽りの姿を作り上げていきます。そして周辺には必ず、この時の人を下品に 持ち上げる、理性のかけらもない太鼓持ちが現れます。誰かが、あるテレビ番組の中である元ホテルの総料理長が「天才は塩の振り方が違う」などと三国氏をほ めそやしていたと、笑いながら教えてくれたことがあります。
 私は、食べ物を作る人間として断言しますが、塩の振り方でその人の物の作り上げる能力を分かることなどできません。
 もっともらしい、あまりにもたわいのない、時代に対するごますりの言葉以外の何ものでもありません。その料理長は正に時代への幇間とも言うべき人間としか私には思えません。

 お菓子教室の生徒さんなどで、オテル・ドゥ・ミクニの料理を食べに行った人の感想をたまに聞きますが、誰一人としておいしかったとは言いません。実像はそんなものなのです。
 でも、私がこのような話をすると、何人かの人は、「三国さんは有名になりすぎて忙しくて、自分で料理が作れないのだから、料理があまりおいしくなくても仕方がないのではないか」と言われています。
 しかし、これは正しい見方ではありません。
 確かに彼はもう自ら料理は作っていないでしょう。だからこそ、それ位のまずさで済んでいるのだと思います。そんな程度の料理でも、彼が自ら作らなくなったから、以前よりはずっとましになったと、私は自信を持って考えることができます。

 以来私は、人と会う度に、あるいは、私のお菓子教室でこの異常な現象を何度も、毎日のように話し続けました。
       そして、何日か後、今度日本で出版された、「ZAGAT SURVEY」という食べ物屋のガイド誌に、このカノビアーノが高い評価を受けていると聞きました。
 私は直感的に、そのガイドブックとやらに胸の悪くなるものを直感しました。
 そんなものをわざわざ買うのは偶の骨頂です。ある人に貸してもらいました。

                  
 

カノビアーノ
 
代官山のイタリアンへの評価は「期待度が高い」だけに二分した。片や「いかにも」「NYのレストラン」的な内装、「何か勘違いしている」料理は「割高」。 一方は「売れっ子なのに」「おごらない」「研究熱心な」「植竹シェフの世界を堪能できる」、京野菜などの素材を生かした「繊細」な料理は、「東京イタリア ンのレベルの高さ」を証明している。「予約が取れない」のは共通意見。

 

 私にとって内装、サービス、その他の評価は少しも興味がありません。
 評価点は30点満点の23点、パッと全体をめくっても、25点が何軒かだけで、トップクラスの評価を受けています。
 同ページに掲載されている中で、私が実際食べたことのあるところは自由が丘の昭和11年創業の居酒屋‘金田’だけです。しかし、むしろここは評価が低い と思います。残念ながら、私は今の見た目だけの味のない日本料理、特に懐石料理にはその価値を認めていない中では、しっかりした味わいのものを食べられる 極めて数少ない店の一つであると思います。
 この金田が22点なら、カノビアーノの料理の値打ちはその半分もない10点以下が精々でしょう。

 しかし、この評価と判断の基準がよく分からないのです。
 「何か勘違いしている」、これは正しく冷静な評価であり、全てに日本人が狂っているのではないことを知って、少しホッとします。
 「割高」全くそのとおりであり、お客を馬鹿にしているとしか言いようがないです。
 そして、その後の、肯定的評価が続きます。
 「東京イタリアンのレベルの高さ」に致っては、日本人と、この時代の愚かさを最も端的に表わす評価に思えます。このカノビアーノは論外ですが、東京で透い出たイタリア料理などは、極くまれにしか食べたことがありません。
 もっともこれはフランス料理やフランス菓子にしても同様なのですが。

 一番不思議なのは、評価が二分されたとは、どう二分されたのか定かではないことでありもし、否定的な意見と肯定的な意見とに二分されたならどうして23点などという高い評価がつくのでしょうか。
 そしてそのような数多い意見を誰がどのような基準で取りまとめ、評価点までつなげるのかということなのです。
 勿論、ことに名を連ねている著名人の方々の意見も加わるのでしょうが、もしそうであれば彼たちの感覚も又、常規を免れています。
 又、この本の編集者も、ちょっと気の利いたように思える、時代の無気力な雰囲気を小ずるくつっつくだけのただ売らんかなの時代に迎合するしか能のないコンセプトしか感じられません。まあ、いずれにしてもわざわざ手にして見る本ではありません。
 でもこうしてこの本を見ていると、結構自分も食べに行った店があるんだなあと思います。いずれにしても、「カノビアーノ」と同様に、自分の名刺に「何を 食べているのか分かりません」と書いてきたレストランも同様に天才的料理と高い評価を受けていることにはただ私達の愚かさに失望を感じることしかできませ ん。
 そして、評価の責任を一般読者などの数多くの人間に分散させて、このような評価本の出版ということの持つ様々な責任から逃げている点は極めてずる賢い人々としか言いようがないでしょう。

(記 2002年1月4日) 

はじめに

皆さんは「食べる」ということの意味を考えたことがありますか。
そして「食べる」ということは、人間としての、日本人としての存在の根幹に関わるものだということに気がつかれたことはありませんか?

今、私達日本人は、世界の他のどの国よりにも先駆けて「食べ物」によって日本人としての破滅への道を突き進んでいるように私には思えるのです。
そして、これはある意味では、この日本では「生命からの搾取」とも言える状況が、既に存在した結果なのです。
    

もう私たちの周りには最悪の状況の前ぶれとも思えるものが数多く認められているのです。
しかし、私たちはこれらの現象をつなぎ合わせ、
その底に流れる本質を知ろうとは、既に本質の意味を予感しているからこそ、只の一人としてしようとはしません。
常に目をそむけながら、今だけを生きることに力なく汲々としているのです。
これを決して誇張とは考えないで下さい。 
そして、日本人の矮小さを諸的に現わす、自分や自分の身内に予期せぬ不幸が訪れた時にだけ、偽政者や官僚に怒りと無念さを感じることは、もう止めなければなりません。
       
私達日本人全てに待っている、最悪の状況をまぎれもなく自分と民族全体に関わることとして、見つめていかなければなりません。
      
わたしは既に、NHK出版「男の食彩」の3年間のエッセイで、かなり巨視的ではありますが、日本の食の現状の描写を試みてきました。
又、2001年5月に文芸社より出版致しました、「狂った食の実態を暴く 破滅の淵の裸の王様」で、より具体的な分析をしてきました。
      
       
このホームページでは、前述の二編には述べ得なかったこと、更に理解が深くなったことなどを、より具体的に述べていこうと思います。
      
又、ホームページを開くにあたって、私は次の二点を確認しておきたいと思います。
私がここで批判した当事者には、企業、個人を問わず、必ず私から直接、その旨を通知すること。
そして、私の意見、指摘に対して、不服であれば何らかの公の場での論争、対談には要請があれば必ず応じることをお約束します。

                                                                     
弓田 亨

私は、昨年久月、日本の食の爛れた実態と、そしてそれをさも本質的な価値を
持ったものとして、少しの疑いも持たずに信じつづける
今の日本人の姿をイソップの童話になぞらえた「狂った食の実態を暴く 破滅の淵の裸の王様」という本を、文芸社より出版しました。
しかし、私が如何に日本人を批難しようと、実は私自身もまぎれもない日本人であり、救いようのない裸の王様の一人であるということは、私自身がよく知っているところです。

この視点を決して忘れぬように自戒の念をこめて、このようなタイトルとしました。
そして今この国で進行している「食の領域」での実態は正に、直接的に間接的にでもあっても「生命からの搾取」と言うべきものであると断言できます。
つまり、掘り起こしてみれば全ての「食」に於いての破壊的行為は人間としての、日本人としての倫理感を忘れた「少しでも多く金を稼ぐ」という動機に集約されているように思えるのです。
このような意味から、副題を「生命からの搾取」としました。

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