日本の食のマスコミに、ミシュランの覇権を許さないだけの正しい見識はあるのか?(2)
まず「日本一の鯨カツ」を食べに行きました。私は鯨肉で育った世代です。何にもましてこんなにおいしい哺乳類の肉はありません。子供の頃の思い出の中にも、数多く出てくる心と身体のノスタルジーの根源的なおいしさです。やっと店を見つけ、席に落ち着いて鯨カツを一番に注文し、そして幾つかの料理を注文し、本当に心待ちに食事は始まりました。
「んーーーーー?」最初に出たカツオのたたきに対する私の声です。どこにでもある居酒屋の、タレの酸味だけがボケて突き出た素人じみたカツオのたたきです。カツオにもタレにも少しの冴えもありません。不安になってきました。
「本当に大丈夫なのかなぁ。でもまぁもしかしたら、間違って鯨カツだけがうまいってことも、あるかもしんねぇ」
でもそれはとんでもなく甘い希望的考えでした。
いよいよ目の前で主人がサイコロに切った鯨にパン粉をつけ、油に入れ、揚げたての鯨カツが出てきました。私は期待に胸はずませ、熱さもなんのその、一つをハシにはさんであわてて口に入れ噛みました。
「あれ、鯨の味もニオイもしないよ」
そう、ものの見事に味もニオイもありません。
「こんなことあるわけないよな。オレの舌、今おがしいのかな」と思って、またあわてて三つ四つと口に入れました。でもやっぱり鯨を感じさせるものは何もありません。ただつまらないサラッと噛み切れるやわらかさがあるだけです。「ああ、dancyuにだまされた」そう思いました。私は今回も、ほとんどいつものようにドゥニさんに対して恥ずかしい気持ちになりました。
「どうだ?」小さい声で聞きました。彼は心底心根の優しい紳士です。「うまいよー」と言ってくれます。ますます私は恥ずかしさと申し訳なさがこみ上げてきました。明日に予定している「日本一の鯵フライ」も危ないか、と私は一度に気が滅入ってきました。
その「日本一の鯵フライ」です。当日、もちろんドゥニさんと一緒に行くはずだったのですが、講習会の準備の都合で、彼はどうしても行けないことになりました。土壇場でキャンセルするわけにもいかず、これも勉強と思って仕方なく他の者を連れて行きました。しかしこれは不本意ながら正解でした。
一皿に小さなフライが2つ乗って¥2,300。メニューを見てとっさに「エ、ホントか?」と思いました。「この値段ならまずいわけがないよなっ」と自分に言い聞かせて2皿頼みました。そして料理が1つずつ運ばれてきました。はじめから「ナンじゃこりゃ」といった味わいが続きます。他のものがこれだけまずけりゃ、鯵フライが旨いわけがありません。そして正にその通りでした。鯵のニオイも味もしない、シャレにもならないみじめな腹の立つ食事でした。ドゥニさんを連れてこれなくて本当によかった、と心底思いました。でも目の前の土壇場の代役にも「ごめんなぁー、こんなとんでもねえモン食わせて」と心の中で謝りました。
2日続けてあきれたしかいいようがありません。店に帰ってもう一度『dancyu』の記事を読み返しました。私が浅はかでした。鯨カツも鯵フライも『dancyu』の正常な感覚の麻痺した、子供じみた味わいへの認識しか持たない記者によって、もっともらしく褒められていました。「鯨のカツを食べてこれが鯨とは思えない」「鯵フライを食べてこれが鯵とは思えない」旨さだとあります。
どういうことでしょう。つまり鯨や鯵のおいしさのためには、それぞれの個性的な味わいがあってはいけないと言うんです。でも鯨や鯵がそれぞれの味、香りがしなくてどうして旨いんでしょう。どうして鯨や鯵の味わいのないものを鯨や鯵だと思って食べなければならないんでしょう。
簡単に言うと、この記事を書いた記者は、本来の味わいなどまったく理解し得ない、形式的な偽りの味わいしか理解できない、ただただ時代の流れにだらしなく身を任せる超スノッブであることは間違いありません。今、主流となってしまった「素材の味わいがないことをより上質の味わいとする」あまりにも愚かな和食の常識にどっぷり浸かってしまっているのです。そしてアク抜き、下茹で、冷凍などで素材の微量栄養素を流してしまう料理法と、それによって作られた世界中で類を見ない異常な料理を、浅はかなしたり顔で自慢する人たちです。
こういった人たちが味が分からないのは彼らの勝手です。しかし間違った味わいを、善し悪しの判断のつかない子供よりも子供じみた愚かな日本の読者に強要してはいけません。微量栄養素を洗い流してしまう料理法は、それを食べる人に取り返しのつかない不幸と悲惨な疾病を導いているものです。
確かに『dancyu』は創刊以来200号、これはすごいし大変なことだと思います。200号絶えることなく続いてきたということは、それなりの動かし難い大きな影響力を持っているということです。そんな力を持った雑誌に嘘を書いてはいけないのです。味のしない、私の感覚からすれば人間の食べるべきものではない料理を、「日本一」などとは言ってはいけません。それを見たほとんどの利口でない料理人は、『dancyu』に気に入られる料理をせっせとお客さんに出そうと競い合います。こんな具合で代官山近辺には、味のしない飲み屋さん、おでん屋さん、モツ屋さんが増えてきたのです。そして代官山だけでなく、どこでも新しくできる店は、見せかけの偽りの味わいが当たり前になっているのです。本当に恐ろしいことです。お金を払って、皆自分の身体をわざわざ壊しに行くのですから。
もちろん『dancyu』だけではないと思います。他の食の雑誌もテレビもそんなものばかりです。確かに毎月、一冊分の紙面を埋めなければならない、数を集めなければ1冊の本ができない、ましてちゃんとした食い物屋なんてほんの少しですから、玉石混合どころではなく、石ばかり、極めてまれに玉ということにしかならないと思います。しかし『dancyu』はとても大きな影響力を持っているのですから、正しい目を持たなければなりません。少なくとも、どうしようもなくまずくて、しかも身体に良さそうにもない料理を「日本一」だなんて評価してはいけません。
私の店の「オレンジのショートケーキ」もそんな程度の見識に選ばれたのかな、と思ってしまいます。
彼らは、ミシュランの評価力の方がずっと上だと考えているかもしれません。戦おうともせず、はじめから尻尾を巻いた犬では、もうこの日本の食の領域は壊滅です。しかし200号という本を刊行して、少なからぬ影響を与えてきたのですから、謂れのない目的を持って日本に襲来してきたミシュランに立ち向かう義務はあります。日本の食の領域を守らなければならないということを、彼らは自覚しているのでしょうか。たぶん自覚はないでしょう。むしろミシュランにゴマをする始末になるかもしれません。もし抗うという意志があるなら、今の評価、分析力ではどうしようもありません。もう一度、食べ物とは、料理とはなんなのか、食べる人に幸せをもたらす本当のおいしさとはなんなのかということを、問い直さなければならないと思います。
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